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5 巫女

伝説②

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 盲目の綾井には身の回りの世話をする久目ひさめという侍女がいた。歳は17で、美人というほどではなかったが、その立ち居振る舞いや声色に男を引き付けてやまぬ魔性めいたものがあり、神の近くに置くがよかろうという年寄りの忠告があったなどと噂もされていた。綾井の身近に仕えたのは、月のものを見た12の時からで、初めこそ親元を離れての務めを悲しんだが、5年を経て巫女の介添えぶりもすっかり板につき、ところを得たように見えていた。

 歳月が経つにつれ、久目は綾井を神の如く敬うようになっていた。しかし綾井は、久目が心ひそかに自らを巫女に擬していることを苦々しく思っていた。

 誰もが自分のようになれるわけではない。相応の資質に恵まれた者だけが、巫女としてその身に神を迎えることができる。資質を持たざる者が巫女たらんと願い、おのれの身に神の招来を渇望するのは僭上であり、危険極まりない。時にはそれを久目の前で仄めかしてもみたが、そのたびに分かっていながら分からぬような素振りをされる。いずれ好いた男でもできれば熱も冷めるのではと、淡く期待しながら接していた。

 3週間が経った。田植えを前にした4月の半ば、村の聖域には神饌と神酒が供えられ、正装した志於綾井が豊穣祈願の舞を奉納した。橘幸嗣は国司である父幸麻呂の名代として列席した。

 祭儀が終わり、宴が始まった。その場では幸嗣が国府の代表者という格好になったので、彼の周囲には村の主だった者が集まり、草深い蛮地の料理や酒でのもてなしに恥じ入って見せながら、御曹司の洗練された都ぶりの立ち居振る舞い、深淵な教養を盛んに褒めそやした。

 盲目の巫女は笑わなかった。長老たちから盛んに追従を受ける若者は、沈んだ面持ちの綾井に関心を向けたが、それ以上に彼女の傍らに持している久目に目を奪われた。

 幸嗣が、笑顔で綾井に問うた。

「巫女どのは家代々の職掌を継いでおられるのか」
「いいえ。我が家は麦を植え、山で木の実を採り、川で漁をして暮らしを立てておりました」

 御曹司の笑顔に微かな影が差し、目が左右に泳ぐ。

「なるほど、かむなぎの才は神の司る決めごとなれば、血筋によって介される余地はなし。左様申されるか」
「大方は、そのように。つきましては、御曹司様」

 動座の件を綾井が言い出すと予感して、長老たちの顔に緊張が走った。まだ早かろうと思ったのだが、彼らとて巫女の判断に口を差し挟むことはできなかった。

「我ら淳土呂の者は、その名を口にすることを禁じられております神とともに、天地開闢よりこの地に暮らしてまいりました。別の土地には別の、名を言うまじき神がおわします。土地と神は一つ。ゆえに、『動座』とは理屈の通らぬお話でございます。お分かりでしょうか御曹司様」

 幾らか微醺を帯びていた長老たちであったが、あまりの歯に衣着せぬ物言いにたちまち酔いも醒め、苦しげな作り笑顔を装いつつ幸嗣の顔を眺める。国司の御曹司は目を伏せ、一つ大きく頷いたのだった。

「土地と神は一つ。それは揺るがぬ真理と存じます。そして釈尊の説いた慈悲の教えは決して巫女どのの言葉に背かぬと私は考えます。良いお話を伺うことができました」

 その言葉の終わりとともに、幸嗣の視線は、綾井の傍らに持している久目に向けられた。御曹司の眼差しを正面から受け止め、可憐な処女の顔がたちまち茜色に染まったのは無理からぬことだった。

 この様子をさりげなく注視していた長老たちは、御曹司の視線の向いた先にその関心の在り処を目ざとく読み取った。宴が果てた後、久目は郡司の家に呼ばれた。明後日の朝、国司の館へ出向いて御曹司に面会し、御礼の品々を直接進呈してきてほしい。巫女には自分たちが話して了解を貰っておくとの指示だった。

 そして容姿と才覚に恵まれた齢19歳の幸嗣は、既に「その道」には相当程度通暁していた。

 翌朝早く、進物を満載した牛車に揺られて出立した久目は、日が暮れても帰らなかった。翌日の昼を相当回ってから、女となった少女は空の牛車とともに村に戻った。まだ夢の中にいるような表情で、足元も定かではなかった。

 家で久目を出迎えた郡司は、痛ましさと自らのやましさに胸の潰れる思いだった。人身御供を強いることを承知で少女を使者に選んだのだから。幸嗣が快く進物を受け取ったことを久目が淡々と述べ伝えると、郡司は「苦労を掛けた」と言葉少なに労った。久目は主人である綾井の庵へ足を向けた。

 御曹司のもとで何が起きるか、初めから巫女は承知していたので、久目をことさら咎めたりはしなかった。侍女が戻った時、巫女は「我らが神の意とするところを、御曹司どのはどう思うている」と問うた。侍女は答えた。

「幸嗣様は確かに約束してくださいました。きっと、神意に適うよう自分が国司様に取り計らうと」

 これは誇張だった。侍女は自らの心を奪った男の言葉を、多分に粉飾して主人に伝えていた。その語り口に嘘の気配を覚った巫女は、苦渋をにじませながら侍女に告げた。

「分かりました。お前も存じておるように、ひとたび男に身を許した者がお側に在ることを、神はお許しにならぬ。明日より別の者が我の介添えをいたすこととなろう。今までよく仕えてくれた」

 久目は返す言葉もなく平伏する。一方、綾井の胸には一つの不安が蟠っていた。よもやとは思うが、この侍女が長年自分に仕える間「名を呼ぶまじき神」の名を知ってしまったのではないか。

 巫女は大きく深呼吸してから、曖昧な聞き方で久目に問うた。

「最後に尋ねる。もし存じておるなら、申してみよ」

 久目は答えなかった。無言のまま、身を震わせつつ巫女の下を退出した。


 不確かな足取りで巫女の庵を離れ、川のほとりまでたどり着いたところで、久目は噴き上がる慟哭に身を任せた。

 ……涙に濡れた顔を上げると、水かさの増した川が滔滔と流れている。このまま身を投げてしまえば我が身の穢れも洗われようか。

 そして知ってはならぬ神の名を、主人である巫女の口の動きから読んでしまった罪も永久に拭い去られるだろうか。

 なれどこの川は、水をたたえた神域。穢れた身をうち捨て、さらに怖るべき罪を重ねんとするか。

 そのような真似はできない。

 不意に、幸嗣の笑顔が脳裏に浮かんだ。御曹司様のもとで過ごした、夢のような時間。あの逞しい胸。しなやかな指先。五体が溶けてしまうかと思われた瞬間。どうぞ、あのひとときをもう一度。

 少女は遂に、ひと繋がりの呪文を口にした。

 それは歓楽のさなかに、幸嗣から教えられた。名を口にすることを禁じられた神に仕えていた間は、忌まわしき限りと怖れてきた一連の音の羅列である。

 ぎゃてぃ、ぎゃてぃ、はらぎゃてぃ、はらそうぎゃてぃ、ぶぉじぃ、すばはぁ。


 その日のうちに、久目は村から姿を消した。
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