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3 殲滅

驟雨

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 婢鬼が注意を促す方向には無人の朝礼台があるばかり──に思われたが、台の向こう側で何か、ちらりと動いた黒いものがある。俺が舌打ちをする間もなく、「それ」は全身を現した。

 二番手は水色ジャージを着た中年女性だった。彼女は朝礼台に立つと両手を腰の後ろに回し、華奢な体格からは想像もできぬ大音声を校庭に向けて怒号した。

「にちりん、とつげきぃぃぃぃぃ───!」

 ──たわけ。何が「恐らく」ぢや。

 叱声を残して嫋姉様が跳躍するのと同時に、校庭を囲む森の全方向から「とつげきぃぃぃぃ──」とときの声が上がった。

 鬨の声に唱和するように稲光が鋭く空を横切り、雷鳴が轟いた。すぐさま大粒の雨が落ちて顔を叩く。雨脚は俺の心拍と同調するように急速に繁くなり、濡れた装束が肌に気味悪く張り付いた。

 見れば、森と学校敷地を隔てるフェンスに無数の何かが取り付いている。暗中に目を凝らして、不覚にも肌に粟が立った。

 それは体操着を来た男女ばかりではなかった。牛や馬、豚といった半人半獣の怪物が多数混じり、フェンスを倒しかねぬ勢いで押し合っている。連中は後から後から湧いてきて、遂には洪水が堤防を乗り越えるように校庭へとあふれ出した。

 校庭との境を乗り越えた大群は、俺が陣取る魔法陣の方へ一直線に殺到してくる。生徒姿も怪物どもも皆、一様に「とつげきぃぃぃー!」と叫んでいた。

 その数は到底、数百どころではない。数千、いや、万にも及んでいる。


 俺は茫然としながら真榊をひと振りし、上空を舞う婢鬼に下知した。

 龍体が再び梵字に変化し、急速に延びていく。その性急さからも婢鬼の狼狽ぶりが分かった。

 婢鬼の光明真言は空中を舞いつつ23字単位の自己複製を繰り返した後、数十体の分身となって眼下の怨霊に襲いかかった。しかしあまりの数の多さに、婢鬼の分身たちが怨霊を巻き取ろうとしても、その外側から別の怨霊どもが覆い被さって邪魔をする。

 怨霊の群れは魔法陣の中まで入ってきた。線の内側へ入った者が火焔に包まれて焼尽するより早く、それを踏み台にして後から押し寄せる者が奥深くに到達してくるため、遂には結界を無効化してしまった。

 そして車軸を流す勢いとなった雨は篝火も掻き消し、あたりを闇が覆った。地面に描いた魔法陣が洗い流されるのも時間の問題になった。

 ──陣を出でて戦え! 今よりが戦ぞ!

 嫋姉様が叱咤するより早く宝剣を取って立ち上がり、「は!」と答えを返したものの、俺は完全に動転していた。かつて耳にしたこともない嫋姉様の切迫したお声が、何よりも未熟な見習い滅霊師の動揺を煽った。敵は既に榊で囲んだ方陣の間近まで迫っている。

 そして信じられぬ光景を俺は目にした。

 光明真言の帯──婢鬼の分身体──に怨霊たちが噛みつき、食らい始めたのだ。朋輩の危機を見かねた嫋鬼が上から突っ込んだのだが、押し寄せる怨霊は大波が岩を飲み込むように火焔を帯びた虎の身体をも覆い、炎まで消してしまいかねない。

 ──嫋姉様!

 泥濘に足を取られながら走り寄った。雨水を吸った装束が身体にまとわり付き、焦燥を倍加させる。

 なんとか白虎のもとにたどり着き、取りついた怨霊を宝剣で手当たり次第に斬り払った。霊は苦悶の叫びを残し光の飛沫と化して消滅していくのだが、分厚い塊となって覆い被さっているため、身動きの取れなくなった嫋姉様に届くことも見分けることもできない。

 周囲では、婢鬼の分身たちが天へ逃れようとする帯になって身をよじり、その下端には怨霊どもが食い付いて地上へ引きずり下ろそうと揉み合ってる。地獄が校庭一面に噴き出した様相を呈していた。

 ──不覚にござりました。尊姉様、ここはいったん引き上げといたしましょう。

 無我夢中で怨霊どもを斬り払いながら、姿の見えぬ白虎に呼び掛けた。堰を切って幼児のように泣き出しかねぬ俺に、嫋姉様はか細いながらも確かなお声で「しっかりせよ」と返してくださった……ように思った。

 しかし──とうとう俺自身が、嫋姉様をお救いできぬまま怨霊の群れに飲み込まれ、地面に押し倒された。

 俺の上に折り重なる怨霊は確かな実体の重みを感じさせ、息が止まりそうになる。既に敵のほとんどは餓鬼や牛頭馬頭、夜叉といった魑魅魍魎の類に入れ替わり、体操着姿の高校生はまばらに混じる程度しかいない。そいつらが総掛かりで俺を押し潰そうとする。

 生まれて初めて「こんなところで死んでたまるか」と思った。火事場モードが発動され、俺は自分の上に乗った怨霊の塊を力任せに横倒しにした。

「クズ野郎どもが!」

 正面の朝礼台には、両手を後ろに回した女教師が薄笑いを浮かべて俺を眺めている。ずぶ濡れになった全身に憤怒が燃え上がり、俺は宝剣を振りかざし朝礼台に突進した。

 こいつを討ち取れば一気に形勢を逆転できる──怒りに我を忘れ、そんな手前勝手な考えに逆らえなかった。

「消えろクソガキ!」

 不動明王になったつもりで怒号し朝礼台に駆け寄ろうとする俺に、波が崩れるように怨霊が取り縋る。紐で首に掛けていた五鈷鈴を投げ付けると、背後の一面が青い炎に包まれ、数十体が滅尽した。すぐ近くで落雷があり凄まじい音があたりに轟くが、指揮役の女教師は微動だにせず、その小面こづら憎い姿が余計に俺の憤怒を煽った。

 朝礼台の高さは1メートル程度。何とかその手前に達し、渾身の力で跳躍して袈裟懸けに薙いだ。

 手ごたえがあった。女教師の霊が、俺に斬られた肩口から火の粉を撒き散らして消滅していく。肩で息をしながら、校庭の状況を確認するため振り返ろうとした時、後頭部に強い衝撃を受け、膝から崩れた。

 朝礼台の上に仰向けになった俺を、金属バットを持った新手あらての男性教諭が見下ろしている。両ひじに力を込めて立とうとするが、腰に力が入らない。首から下が全然動かない。

 悔しさと情けなさで涙が溢れ、雨水に混じった。ぼやけた視界の隅に、舞い上がろうと足掻く婢鬼の分身たちが怨霊の群れに引きずり下ろされていくのが映る。驟雨しゅううの中を、揺れながら地面に没していく無数の梵字の帯。総崩れになって打ち捨てられていく敗軍の旗のようだと思った。

 雨粒が降り注ぐ視野の中央で、薄笑いを浮かべる男がゆっくりと金属バットを振りかぶる。なぜか少しも恐怖を感じなかった。敵の策略にはまって最期を迎える武将はこんな気分なのか、などと思い、強いて言えば「しくじったなあ」という悔いが頭の中をふわふわと漂っていた。

 バットが振り下ろされた。顔面に衝撃が走り、意識が遠のいた。


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