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1 県立日輪高校

初めての儀式

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 もちろん、ほんのわずかにでも違う香りが混じっていないかと、鼻をひくつかせるような不埒な真似はしなかった……つもりだ。「初の実戦を前にそんな余裕があってたまるか!」──俺は声を大にしてそう言える自信がある。

 非常出口のサインなどを除いて、校舎内はすべての明かりが消えていた。懐中電灯は一応持って来たが、あえて俺は使わずに真っ暗な現場トイレに入った。できるだけ霊を刺激しないための用心だ。座光寺家に代々伝わる黒褐色の「退霊装束」を素肌の上にまとった俺は、燐光物質入りの筆ペン──もちろん座光寺家が儀式に使う特別仕様で、インクの成分は秘中の秘である──でタイルの床に「八葉の はちす」をかたどった魔法陣を描く。図柄が乾いたところで、その中心に蓮華座を組んで座った。ここからが霊を召喚できるかどうかの第一関門になる。

 その日は2月の下旬。空気は冷え切っている上に、入念に掃除されたタイルの床はまだ濡れていて、装束の袴に容赦なく水が沁み通ってくる。冷たいやら気持ち悪いやらでやりきれないが、任務なんだからそんなことは言っていられない。

 儀式の始めとして、「祓いの儀」を行った。修験道の「御祓い」を簡略化して「天清浄、地清浄、内外ないげ清浄、六根清浄」を3回繰り返す。続いて、右手に刀印を結んで九字を切る。そう、あの有名な「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」だ。古代呪禁師の流れは修験道や密教の中へ入り、仏教や神道、陰陽道と混淆しながら滅霊道の形を作ってきたから、当然共通点は多い。マニュアル通りなら、そうやって繰り返し九字を切ることで空間内の霊に術者の意思が伝わり、魔法陣の周辺に出現するはずだった。

 だが、体感で10分ほど経過しても何も変化は起きない。

 俺は自分の過ちに気付いた。まず、ここは女子トイレだ。男子トイレならアサガオ式の小便器が露出して並んでいるが、女子にとって便器は個室扉の内側にしかない。なのに俺は個室内に入るのに二の足を踏んで、外に描いた魔法陣の中心で霊を召喚しようとしていた。これでは駄目だ。

 霊を呼び出すには、個室に入るしかない。


 しかし、女子用便器。

 健全な16歳の少年である俺が、女子トイレの個室に入り、それに接触することに言い知れぬ禁忌を憶えるからといって、どこに不思議があろうか。

 たとえ入念に掃除してあっても、それは高2男子にとってあまりにも隠微であり、反面、蠱惑的な磁気を発していると言えなくもない物体だ。……しかし、これは俺の任務なのだ。気後れすること自体が邪念だ! そう割り切って、手探りしながら魔法陣に一番近い個室の扉を開けた。

 扉の奥の、一段と濃度が高く感じられる闇の中に、洋式便座がうっすらと白く浮かび上がっていた。……すぐ中に入るのをためらった俺は、あることを思いついていったんその個室を離れた。トイレ入り口の反対側にある窓から淡い光が差し込んでいる。足元を確かめながら窓際まで行き、窓を開けた。2月の冷気が室内に流れ込んで、軽く鳥肌が立った。

 これで準備万端。俺は扉を開けた個室へ戻り、中へ入って扉を閉め施錠した。完全な暗闇に近くなった室内で、俺は上履きと靴下を脱ぎ、便器の上に蓮華座を組んで座る。もう一度刀印を結んで結界を張ってから、腰の帯に挟んでいた五鈷鈴ごこれいを鳴らし、不動明王の真言を唱えた。

 ナウマクサマンダ
 バサラナン
 センダ
 マカロシャナ
 ソワタヤ
 ウンタラタ
 カンマン

 親父の話によると、真言や呪文は自分の中にしるしの力を高めるための足掛かりに過ぎない。滅霊の本義は、怨霊の病を療治し、仏教でいう「仏性」を蘇らせ、人の本道に立ち返らせるところにある。人は誰も、進んで悪霊になりたいなどとは思っていない。心ならずも悪霊になるにはそれだけの理由があったのだ。その理由を探り出し、癒しを与えれば、悪霊はその本質を失って消えていくのだとか。
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