いつもの道を通って

井之四花 頂

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いつもの席で、彼を見上げて

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 翌日の放課後、俺は別館にある図書室へ足を向けた。

 聖往学園の図書室は校内でも指折りの趣きあるスペースだ。

 サッカーコート半分ほどのフロアは1階と回廊型の2階に分かれ、1階閲覧室の上が2階まで吹き抜けになっている。アーチ型天井の下、2階の窓から1階まで自然光が豊かに降り注ぎ、さらに窓の上に取り付けられたステンドグラスがそこに神秘的な色合いを与えるという凝った趣向が、読書を一段と味わい深いものにしてくれる。こういう場所にIT関係の書物を詰め込むというのは、時代の趨勢とはいえ、無粋の極みとは言えないだろうか。

 まあ人によりけりで、プログラミング学習が万人に味気ないとは限らない。こういう空間で捗るならそれはそれで結構だ。

 気ぜわしい町中のカフェなんかより、よほどデートスポットにふさわしい──とは思っても、デカデカと「私語厳禁」と角ゴシックで注意書きした壁のプレートを目にすれば、カップルに居心地が良いはずもない。どちらにしても、設計者と学校当局の意図が微妙に食い違っている感は拭えなかった。

 ドアを開け、薄暗い書架の間を抜けると、その先に閲覧室がある。午後の日差しに照らされる閲覧室にも2階の回廊にも人影はなく、カウンターに図書委員の姿もない。だが、その場に立った瞬間俺には分かった。

 いる。

 俺から向かって左端、最前列の机にうつむき加減で背を向けている。その姿を透かして、壁際に置かれた収納箱が見えていた。制服を着た女子生徒だ。察するに昔の卒業生だろうか。

 彼女の方へゆっくりと歩み寄った。机を回って正面まで来ても彼女は顔を上げない。俺は椅子を引いて差し向かいに座った。

「こんにちは」

 呼び掛けに応えて霊が顔を上げる。危険なタイプでないのは分かっていたから、特段警戒はしなかった。彼女の手元には縦書きの本が開かれていたが、それも机の表面が透けて見える。彼女が俺の顔を見て微笑んだ。

「こんにちは。私が見えるの?」
「読書をお邪魔してすみません。何を読んでるんですか」

 彼女は透明な書物を開いたまま持ち上げ、年月を経て傷みの激しい背表紙を見せた。ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」と読めた。

「この本、もう処分されたみたいね。実物はなくなってた」

 彼女は「実体のない」ディケンズの著書を閉じて脇に置いた。書物の霊みたいなものだろうか。多くの生徒に読み継がれ、心を動かしたほどのものなら、不当に処分された怨みの念がこの場に残っても不思議ではない。

「ここへ来るとね、いつもこの席で本を読んでたの」
「へええ。どのくらい前です」
「もう33年前」
「とすると……」
「女の歳を割り出さないでよ」

 いたずらっぽく笑ってすぐに、霊は表情を引き締めた。

「この席が好きだったから。顔を上げるとね、ほら」

 振り返って、彼女の指差す方向を見上げた。松明を掲げる聖人を描いたステンドグラスが天井下の壁に嵌め込んである。そこから透過した午後の光線は、回廊の空間をオレンジ色に染めているかのようだった。

「あの人を眺めてると、ふっと心が軽くなったのよ。どうしようもなく気持ちが騒いでろくに文字が追えなくなった時にも、あそこから私を勇気づけてくれてる気がして。時々私はあの『彼』に心で語りかけるの。『今日は泣きたい気分です。今、ここで泣いてもいいですか?』なんてね……。男の子には分かんないでしょ」
「いえ。俺もつい先日そんな気分になりましたよ」
「そうかしら。あの頃は『いつもこの席にいるね』なんて、女子だけじゃなく男子にも言われたけど、理由を話したことなんてなかった。それを言ったら、大事なものが私の中から流れ出ちゃうと思ったから」
「じゃあ、話したのは俺が最初ですか」
「そうね。卒業して何十年も経ってから」

 霊の顔に、泣き笑いのような表情が浮かぶ。顔の造作は高校生でも、到底少女のものではない大人の苦悶が垣間見えてしまった。

「3日前、自分のマンションで首を吊ったの」
「そうでしたか」
「カーテンレールに掛けたロープにぶら下がってる自分が見えた時は、あれ、なんでこんなに簡単なんだろうって思った! ふふふ、ほんっとに簡単なのよ……。それから真っ先に来たのがここ。卒業して33年の間、ただの一回も来たことがなかったこの場所に、いつもの道を通って。……校門を入ると、左に折れるのよね。校舎の脇を歩いて校庭まで出ると、この別館が見えてくる。玄関の前に立ったら、『本当に長かったけど、やっとまたここに来れた』って思った。あれ卒業からずっと、ここを目指して歩いてきたみたいな気がしたの。分かる? 玄関を通って書架の間を抜けて、いつもの場所に座って見上げれば、いつもの『あの人』がいつものところにいる! 私を勇気づけてくれる! もう手遅れなのに……。なんでもっと早くここに来れなかったんだろうって!」

 感情が激したらしく、霊の顔が大きくゆがんで、目尻から透明な涙がとめどもなく流れ出した。危険な状態だった。うまく対処しないと悪霊化しかねない。

 こういう時、無闇に滅霊師の技を使うのは禁物だ。俺は慎重に言葉を選んだ。

「滅多に俺は来ないんですけどね。今日は雑用を頼まれちゃって」
「何の用事?」

 悲嘆の底から彼女の注意をすくい上げた手応えを感じて、俺はここへ来た理由を説明した。彼女の顔に微かな笑みが戻った。

「生徒会長に仕える霊能者なのね」
「仕えてるわけじゃないですけどね。こき使われて参ってます」
「きっと君が好きなのよ」
「どうでしょうか」

 中年女性然とした、疲れたような笑みを顔に張り付かせて霊が俯く。

「でも君に会えてよかった。胸のつかえを吐き出したみたいでなんかスッとしたわ」
「いつでも来てくださいよ。俺で良かったらお相手もします。あと1年半は学校にいますから」
「気を遣わなくていいのよ。こんなおばさんじゃなくて若い子の相手をなさいよ」
「いや、どうかご遠慮なく」

 なぜなのか、その時俺は言わなくてもいいことを口にしたくなった。

「ここは、あなたにとって必要な場所でしょう?」

 案の定、霊の顔から笑いが消え、寂しげな表情に覆われる。

「そうよね、ここは私のための場所。そして私のための彼」

 霊は眩しい光を見るかのように目を細め、ステンドグラスの中の『彼』を見上げる。霊の姿は次第に影が薄れ、やがて空中に溶け入った。

 俺がしばらく席を立たないでいる間に日は没し、松明を手にした『彼』の輝きも褪せて、窓の外は夕闇に閉ざされていく。

 依頼された書籍の回収は翌日回しにすることにして、俺は図書室を出た。

 会話の中で互いに自己紹介はした。彼女の名は向坂美奈江さきさかみなえ。その後も俺は幾度か同じ時間帯に図書室を覗いてみたが、「いつもの場所」に彼女の姿を見ることはなかった。

 さらにその1カ月後。図書室は書籍の入れ替えだけでなく、老朽化の目立つ建物自体を取り壊して全面改築されることを、俺は水際さんの話で知った。

(了)
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