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最終話 「やっ、久し振り」……だと?

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 打ち上げ会が終わって、わたしたち1年生は後片付けを始めました。「磯崎磯崎!」という声に気付いて振り返ると、榊原先輩がわたしを手招きしています。流しへ運ぼうとしかけたお皿やグラスをテーブルに置いて走り寄ると、先輩はわたしの肩を叩いてこう言いました。

「新1年生が入ってきたら指導を頼むよ! 2年生になったらもう甘えてられないんだからね?」
「はい……ちょっと不安なんですけど、頑張ります!」

 実際不安だったので、正直にそう言ってしまいました。榊原先輩はニコニコ顔でわたしを見ています。

「でも大したもんだよ。去年の10月に入ってきた時には大丈夫かってハラハラしたけど、5カ月でよく追い付いた。相当努力したよな?」
「いえ、努力だなんて」
「はっは、磯崎は素直でかわいいな。彼氏はいるの?」

 さすが「カワセミ夫人」だけあって、なにげない会話でも想定外の方向から球が飛んできます。わたしは慌てふためきつつも正直に「いえっ、いません!」ときっぱり答えたのですが、榊原さんがケラケラ笑いながら「そっかー、実はわたしもいないんだ」と応じたのには驚かされました。

「まぁ、お互いそっちの方はほどほどにして、5月の県大会は一緒に頑張ろう!」
「はい!」


 榊原さんたち新3年生は6月で引退し、後は大学受験に専念する予定なのです。



 こうして3月も終わり、4月の始業式を迎えてわたしたちは2年生になりました。最初のサプライズは、あの花井コーチがわたしたちのクラスの担任になったことでした。学校生活がびっしり卓球漬けになるのもそれはそれで息苦しいのですが、授業中にも見る花井先生の顔色が、結婚間近にしては冴えないように感じられたのが不思議でした。


 で、4月も半ばになったある月曜日の朝。

 1時間目の数学の授業に、花井先生は定刻を15分過ぎても姿を見せません。教室がざわつき始めた頃、斜め前に座っている美奈代がわたしを振り返って「遅いね。何かあった?」と尋ねました。卓球部だから事情を知っていると思ったのでしょうけれど、わたしにも何も心当たりがありません。

「練習でも遅刻すると走らされるのに……」

 授業時間が20分ほど過ぎた時、花井先生が教室に入ってきました。顔色が明らかに変です。意気消沈しているというのか、目がギラギラして、異様なオーラを発散していました。
 何が起きたのでしょう。教卓に両手を着いてうなだれると、大きなため息をついてわたしたちを見回します。

「遅れて申し訳ない」

 充血した目が死んでいます。これはただ事ではない。

「君たちにも覚えておいてほしいことだが、人生にはつらいことがある。死にたくなることだってある!」

 バン! と教室中に響くような音を立てて、花井先生は持って来た教科書を教卓に叩き付けました。うなだれて丸くなった先生の背中が、大きく上下しています。内側に抱え込んだ何かが体の外に噴き出してしまうのを、必死に抑えようとしているかのように。

「……だが、社会人には責任がある。たとえ死にたくても、職場には出て来なけりゃならないんだ。……あ、何のことか率直に言うが、僕は彼女に振られた。対外的にも公表してた結婚の話が、正式にご破算になった。『うまくやっていく自信がない』と昨晩彼女に言われた!」

 なんと……花井先生大ピンチ! 「なんだ、その程度か」などと言ってはいけないのです。

「なのに僕は今でも彼女を愛してる。いいか、『うまくやっていけない』っていきなり言われても、はいそうですか、って彼女への愛を消すわけにはいかないんだ。わかるだろ? これが現実ってやつだ。というわけで、今は正直言って、とても授業をやり通せる自信がない。次の授業が終わるまでだって普段の自分を取り戻す自信がない。この枠ももう20分経ってしまった……。とにかく、残り時間は自習にしたい」

 生徒に向かって「振られた」と発表する教師というのも驚きですが、わたしとの関係では先生は卓球部顧問でもあります。きょうの放課後練習はどうなってしまうのか?

「ただ……こういう日でも教師として、やっておかなくちゃならん職務はあるんだ」

 花井先生は大きくため息とつくと、教室出口の方に足を向けました。

 運動部の鬼コーチという鉄壁なはずのキャラがたやすく崩壊してしまう失恋の恐ろしさを、多感な少年少女に存分に見せつけてこのまま去っていってしまうのか? そして校舎の屋上に駆け上がって、フェンスによじ登り、それから……などと不吉な妄想に駆られましたが、先生は出口の戸を開けると、首だけ外に出して「入って」と声を掛け、そのまま教卓の方へターンしました。とりあえず教室には踏みとどまるようです。で、誰か入ってくるのかしら。

 結婚を断られた先生に促されて、その「誰か」が入ってきました。うちの高校の制服を着た男子生徒です。相変わらず憔悴しきっている花井先生が教卓に両肘をついて、ぼそっと「転校生」と言いました。

「名前は……ああ、すまないけど、自分で自己紹介してくれる?」
「はい」

 転校生はにっこり笑ってわたしたちに背を向け、転校生あいさつのしきたり通り、チョークを手に取って黒板に自分の名を書き始めます。

 わたし……? ええ、彼が教室に入った瞬間から気付いていましたとも。


         津
         木
         乃
         利
         吾
         三
         郎


「『つきの・りごさぶろう』と申します」

 わたしは──ぽかんと口を開けてその顔を眺めていました。制服のブレザーをきちんと着こなしてネクタイを締め、髪も真ん中分けにして、あの時の変てこなスタイルはみじんも残っていません。

「××県のQ高校に通っていました。えーと、父の仕事の都合でこちらに転校することになりました。皆さんよろしくお願いします」

 そうやってあいさつして、頭を上げてわたしと目が合うと、わざとらしく目を丸くして驚いた様子を見せ、自分があの「りご三郎」であることを無駄にアピールしてきました。目を細くした美奈代がこちらを振り向いて「彼?」と言うように指差したので、わたしも仕方なく頷きました。

「磯崎の隣が空いてるな。とりあえずそこに座ってくれるか」

 この唐突な王道展開に舞い上がっていいのか、舞い下がっていいのか。りご三郎君はわたしの隣に歩いて来て、「やっ、久し振り」と片手を上げました。

 一方、かわいそうな花井先生は意気消沈したまま、「それでは、残り時間は自習」と告げて教室を出て行きます。誰か先生の心のケアを!……と思いましたが、もう大人だし、早まって屋上から身を躍らせたりはしないでしょう! 実際、教室中の誰一人として傷心真っ只中の花井先生を思いやるわけでもなく、視線を転校生の彼──りご三郎君──に集中させているありさまなのです。

 高校の制服を着たりご三郎君は、遠慮する気配もなく隣に座ってわたしに話しかけてきます。

「失恋ごときで自習とかありえないよ。それでもプロかっつーの」
「です……よね」

 究極のサプライズに言葉を失ったわたしは、どうでもいいことを聞くしかありません。

「『りご』って……ひらがなだったんじゃないの」
「あの時はめんどくさかったからそうしといた。正しいのはあれ、黒板に書いた通り」
「あの、いちおう確認なんだけど」
「何?」
「今は……普通の人間?」
「当たり前じゃん。ほら、この髪型だってイケてるでしょ。……あ、Q高校? おれ、去年の9月までそこ通ってたから」

 相変わらず適当な奴です。クラスメートになった元妖怪は、自分の席の机を感慨深そうに眺めて、ぬけぬけとこう言いました。

「やっぱ転校するなら、春だよ」


(了)
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