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あかねさす
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その時、そばで眠る天音が微笑んだ。
意識を取り戻したわけではない。ほんの、わずか1ミリか2ミリ、口角が上がっただけだ。
それでも、絢斗が驚くのも無理はなかった。この2ヶ月、表情のない天音の顔しか見なかったからだ。
丸いすから立ち上がり、もう一度顔をよく見ようとしたが、すでに感情のない天音に戻っていた。それは絢斗に、苦しいほどまでに虚無感を与えた。今の天音は青白いビスクドールが横たわっているのと変わらないのだ。まぶたの下にはガラス玉が入っているのではないかと、恐ろしくなった。
匂い、だろうか。
天音が微笑む前、絢斗はポケットからシガレットケースを取り出した。
病室でタバコを吸うつもりはもちろんなかったが、この病室から離れさせようとする涼に腹を立て、つい天音のそばでタバコを出してしまった。
市販されていない、お手製の巻きタバコ。
この匂いに気づいて、天音は反応したのだろうか。
絢斗はもう一度ポケットからケースを取り出した。そこから1本取り出し、指先に匂いをつけると、天音の顔のそばへ指を近づけた。すると、また天音は優しく微笑んだ。
まだ意識があったころ、絢斗は天音に吸いすぎだとたしなめられた。かなりのヘビースモーカーだった絢斗だが、天音に言われてからほとんど吸わなくなった。特に、天音の前では喫煙を避けた。
それなのに、そのタバコの香りに反応するなんて。
滑稽な話だと、一人笑った。
付き合う前の印象が、よほどこのタバコに持っていかれたのだろう。いつ見てもタバコを片手に煙を吐く自分を、きっと天音は強く覚えていたのだ。
いつものように、休憩が終わるギリギリの時刻まで、絢斗は天音の手の甲を包み、優しく撫でた。
「神崎さん、先生が病室にいると、わかるんでしょうね」
エレベーター前で、内科病棟の看護師が声をかけてきた。
「そうか?」
「先生が病室にいらっしゃる時は、穏やかな、柔らかな表情になってますよね」
いつも無表情だと思って怯えていたが。自分がいる時といない時で変わっているのか?
「今井さんて、いるじゃないですか。最近シーツ交換してくれるヘルパーさん。何度か神崎さんの病室で見かけましたけど、どうも苦手みたいで、ほんの少し、緊張した顔つきになりますよ。声に反応してるのかな?」
田中の話を聞いていると、今度は別の看護師も話し始めた。
「先生、私も神崎さんが嬉しそうに微笑むの見ましたよ。先生、昨日は丸いすに座ったまま、ベッドに頭置いてうたた寝してしまったでしょ? 私ちょうどバイタル測定に入って、見かけちゃったんです。神崎さん、すごーくかわいかった」
「知らなかったな」
そうだったのか。気づかなかっただけで、天音はずっと自分の存在に気づいてリアクションしてくれていたのだ。
いかに、自分が狭い視野で息をしていたのか思い知らされた。
この2ヶ月、同僚との会話など、聞く耳を持たなかった。ただ、ひたすらに、天音だけを見つめていた。
それなのに、視野を広げた方が、簡単に新しい情報を得られた。
涼の言う通り、自分は天音そのものにこだわりすぎていたのかもしれない。
そう、感じた。
ほんの少し、涼の意見を聞き入れてみようか。
幸い、天音の状態は安定している。
明日の休みに、涼と会ってみるか。
そう思えたら、やるべきことが多すぎることに気づく。
急いでリストを作り、消化することにした。
天音を想うあまりに、その他のことをおざなりにしていたツケが、大量にたまっていた。
意識を取り戻したわけではない。ほんの、わずか1ミリか2ミリ、口角が上がっただけだ。
それでも、絢斗が驚くのも無理はなかった。この2ヶ月、表情のない天音の顔しか見なかったからだ。
丸いすから立ち上がり、もう一度顔をよく見ようとしたが、すでに感情のない天音に戻っていた。それは絢斗に、苦しいほどまでに虚無感を与えた。今の天音は青白いビスクドールが横たわっているのと変わらないのだ。まぶたの下にはガラス玉が入っているのではないかと、恐ろしくなった。
匂い、だろうか。
天音が微笑む前、絢斗はポケットからシガレットケースを取り出した。
病室でタバコを吸うつもりはもちろんなかったが、この病室から離れさせようとする涼に腹を立て、つい天音のそばでタバコを出してしまった。
市販されていない、お手製の巻きタバコ。
この匂いに気づいて、天音は反応したのだろうか。
絢斗はもう一度ポケットからケースを取り出した。そこから1本取り出し、指先に匂いをつけると、天音の顔のそばへ指を近づけた。すると、また天音は優しく微笑んだ。
まだ意識があったころ、絢斗は天音に吸いすぎだとたしなめられた。かなりのヘビースモーカーだった絢斗だが、天音に言われてからほとんど吸わなくなった。特に、天音の前では喫煙を避けた。
それなのに、そのタバコの香りに反応するなんて。
滑稽な話だと、一人笑った。
付き合う前の印象が、よほどこのタバコに持っていかれたのだろう。いつ見てもタバコを片手に煙を吐く自分を、きっと天音は強く覚えていたのだ。
いつものように、休憩が終わるギリギリの時刻まで、絢斗は天音の手の甲を包み、優しく撫でた。
「神崎さん、先生が病室にいると、わかるんでしょうね」
エレベーター前で、内科病棟の看護師が声をかけてきた。
「そうか?」
「先生が病室にいらっしゃる時は、穏やかな、柔らかな表情になってますよね」
いつも無表情だと思って怯えていたが。自分がいる時といない時で変わっているのか?
「今井さんて、いるじゃないですか。最近シーツ交換してくれるヘルパーさん。何度か神崎さんの病室で見かけましたけど、どうも苦手みたいで、ほんの少し、緊張した顔つきになりますよ。声に反応してるのかな?」
田中の話を聞いていると、今度は別の看護師も話し始めた。
「先生、私も神崎さんが嬉しそうに微笑むの見ましたよ。先生、昨日は丸いすに座ったまま、ベッドに頭置いてうたた寝してしまったでしょ? 私ちょうどバイタル測定に入って、見かけちゃったんです。神崎さん、すごーくかわいかった」
「知らなかったな」
そうだったのか。気づかなかっただけで、天音はずっと自分の存在に気づいてリアクションしてくれていたのだ。
いかに、自分が狭い視野で息をしていたのか思い知らされた。
この2ヶ月、同僚との会話など、聞く耳を持たなかった。ただ、ひたすらに、天音だけを見つめていた。
それなのに、視野を広げた方が、簡単に新しい情報を得られた。
涼の言う通り、自分は天音そのものにこだわりすぎていたのかもしれない。
そう、感じた。
ほんの少し、涼の意見を聞き入れてみようか。
幸い、天音の状態は安定している。
明日の休みに、涼と会ってみるか。
そう思えたら、やるべきことが多すぎることに気づく。
急いでリストを作り、消化することにした。
天音を想うあまりに、その他のことをおざなりにしていたツケが、大量にたまっていた。
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