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第2章:side足立良平

4.狂おしいほどの想い

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紅子が出て行ってから数時間、なぜだかうまく動けなかった。
玄関に鍵をかけ、リビングに入るとソファーに座り込んでしまった。時計のカチコチという音に身を任せるように思考が静かに停止していった。

ふと時計を見上げると、9時を過ぎている。先ほどまで紅子と話をしていた台所に目をやると、すっかり冷めてしまった総菜たちが色を失って、テーブルの上にいた。

太ももに振動を感じた。ポケットからスマホを出すと、莉子からだった。
紅子がいたからバイブにしていたのをすっかり忘れていた。

「もしもし」
「先生、こんな時間にすみません」
「大丈夫だよ、どうした?」
「就活のことで相談したくて。今大丈夫ですか?」
「明日会って話さないか?」
「いいんですか?」
「あぁ大丈夫。飯でも食いながら話そう」
「はい」

莉子の声が心地よかった。心に染み込んでいくようだった。

紅子には悪いことをしたと思っている。
だけど今は初めて自分から恋心を抱いた女性と関係をスタートさせたいという思いの方が大きい。
当時から教え子以上の感情を持っていた彼女が数年経って再開した今、同じ気持ちでいてくれた。こんな低確率なことが起こったことが信じられなかった。オレのことを好きだと言葉にしてまっすぐに伝えてくれたのは彼女だけだ。オレにとって非常に尊い存在だ。

初めて莉子とくちびるを交わしたとき、自分でいいのかと不安になった。しかしくちびるを離して目を開いたときに見た莉子の笑顔が、まるでオレのすべてを全肯定してくれているかのように思えた。だからこそ大事にしたいと心から思った。
紅子と別れた今、莉子にはっきりと思いを伝えられる。自分の持てる力で彼女を支えたいとさえ思っている。


明日、紅子と別れたことを話そう。莉子に直接伝えたい。
自分の逸る気持ちを抑えて、次の日に備えた。



翌日、学校で紅子と会うのが気まずかった。席も隣だし受け持っている学年も一緒だ。どう接していいか正直わからなかった。

職員室に入るのに少し戸惑ってしまった。
扉に手をかけたはいいがタイミングよく開けられずぶつかってしまった。そのまま少ししか開けていないところから自分をねじ込むように入ろうとしたところを生徒に見られたようで、「やば、変人が朝からおかしい!」と後ろから生徒の声と笑い声が聞こえてきた。

慌てるから余計に動きがうまくいかない。ドタバタしてしまったせいで、紅子と目が合ってしまった。一瞬気まずい感情が背中を駆け巡ったが、紅子は何事もなかったかのように挨拶をして普通に接してくる。一定の距離を保ったまま。同僚としての距離感だった。
オレなんかよりもずっと大人だ。そう思わされた。
そのおかげでこっちも何とか切りぬけることができた。



帰りのホームルームを終え、職員室に戻ると時計ばかり見てしまう。いつもなら小テストの採点や授業の準備、事務作業などちゃちゃっと手をつけてやるのだが、浮足立ってしまっている感情を抑えることができなかった。

「足立先生どうしたのですか?」

教頭が急に声をかけてきた。

「なぜですか?」
「足をバタつかせているのが見えましてね。どこか行かなければならないところでもあるのではないかと思いまして」
「え?」

教頭に言われて思わず自分の足を見た。いつもなら癖で足を組んでいる。しかし、足を組んでいなかった。

「ずっと足をパタパタさせていましたよ」

そう言われて、大学生の頃、心理学の授業で習った記憶がよみがえった。
教授は、手足や表情に心が反映されると言っていた。足をバタつかせるということは、両足に弾みをつけて上下に動かすという行動。うれしさや喜びの表れだ。

その時、昔教授が言っていた言葉を思い出した。「体の中で最も正直な部分は足だ。人が本当にしようとしていることを一番物語っている」と。
どうやら、自分が思っている以上に莉子に会いたくなっていると理解した。

「今日はどうしても行かなければならないところがありまして。多分そのせいです。すみません、気をつけます」
「そうでしたか、なら業務をさっさと終わらせないといけませんね」
「はい。あの、お騒がせしてすみませんでした」

気持ちが出てしまっているなんて自分らしくない。急いで仕事を終わらせて向かわなければ。終業時間になるとすぐに学校を後にした。
いつもなら駅前の本屋に寄ったり、コーヒーを飲みながら本を読んだりと急ぐことはなかった。でも、身体が勝手に動いてしまう。
駅までの道のりを速足で歩いた。駅に着くと、ホームまで小走りになり電車に飛び乗った。
額の汗をぬぐいながら、スマホでメッセージを送った。

「今、電車に乗った。20分くらいで着くと思う」

兼ねてから頼まれていた、就職相談をするためだと自分に言い聞かせてはいる。しかし、彼女に会えるという強い欲求は抑えることができなかった。できないのではない、どんどん強くなっていく。
「最初に尋ねたとき、あんなことをしてしまったから、今日は相談事を聞くだけだ」と自分に何度も何度も言い聞かせた。

電車を降りてからも駅の階段を駆け上がり、急いで改札を抜けようと思った。帰宅ラッシュのせいか改札直前で列ができていた。苛立ちを抑えながら、やっとの思いで改札を抜けると、小走りで商店街を駆け抜けていた。

何とか気持ちを抑えなければいけないことはわかっている。しかし、莉子に会いたい気持ちがどんどん強くなっていく。
信号につかまってしまった。進みたいのに進めない苛立ちが沸いてくる。
赤信号でも車が来ていないのなら渡ってしまおうかと思い、左側から車が来ないか見ようとしたらパン屋が目に留まった。

「私、クロワッサンサンドがすごく好きなの!」という彼女の声が耳によみがえった。当時まだ高校生だった莉子が、中庭のベンチで友人とパンを食べていた。
当時、クロワッサンサンドのことがなんだかわからなかった。だいぶ経ってからサンドウィッチの一種だと知った。

思い出してすぐ、「手土産を持っていこう」と思った。自分の気持ちを抑えるためでもあったが、純粋に彼女の喜ぶ笑顔が見たい。
自然と足がパン屋へ向いていた。


素朴な木造の外観だが、大きな植物が濃茶色の窓枠をつたっている。まるで海外映画に出てくるような街の一角にある店みたいで、きっと莉子が好きなのではないかと思った。
大きな窓から見えるパンたちは本当においしそうだ。

中に入ると、パンのいい匂いに包まれた。焼きたてなのかと思ってしまうほどだ。パントレーに手書きのポップに商品名で値段が書かれている。ざっと見た感じではクロワッサンサンドは見つけられなかった。急いでいたから店員に声を掛けた。

「あの、すみません。クロワッサンサンドはありますか?」
「クロワッサンはありますが、サンドはうちでは作ってなかったです」
「じゃあ、クロワッサンをください」

少しがっかりはしたが、クロワッサンだけでも買っていこうと思った。受け取ったときの彼女の笑顔が見たいのだ。それだけで自分の気持ちが報われるし、喜んでもらえたら自分もうれしい。
お金を払ってパンの入った紙袋を手に、急いで彼女のアパートに向かった。

パン屋から彼女のアパートまでそんなに遠くない。ゆっくり歩いたって5分もかからないのに、速足で歩くことがやめられなかった。

アパートに着くと階段を駆け上がり、莉子の部屋のチャイムを鳴らした。
ピンポーンと音が響く。鍵をあける音がしてドアが開いた途端、莉子の香りに包まれた気がした。

「こんばんは、先生」と出てきた莉子の笑顔。自分の中の何かがはじけた。
ただ、好きだという気持ちがとめどなく溢れてしまった。

玄関を入るやいなや、笑顔を向けてくれている彼女をただ抱きしめた。

「先生…」

莉子の声が耳をくすぐる。彼女が愛おしくてたまらず、くちびるを奪うことに夢中になってしまった。彼女がオレを受け入れ、キスを返してくれた。気持ちが通じたことがうれしく、彼女を玄関の壁に押し付け、莉子に触れることに夢中になった。
両手で彼女のあちこちに触れた。髪を撫でたり頬を包み込んだり。
触れる部分のすべてが熱を帯びていて、彼女を自分のものにしたいという欲求に駆られていた。こんな強い気持ちを抱いたのは初めてだったから自分でも制御できなかった。

「莉子、好きだ。ずっと好きだった」

彼女の耳元で囁くように思いを告げた。目を見て思いを告げる勇気のないオレに莉子は優しかった。

「私も先生のことが好き」

そう耳元で応えてくれた。まるで子猫が頭をこすりつけて甘えるようにオレに寄り添い気持ちにこたえてくれたことがうれしくて、彼女のくちびるを求めた。
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