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9.恋という名の下心

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振り返ると、見覚えのあるカーキ色のジャケットが目に入った。足立先生だった。

「先生!」

思わず呼んでしまった。別れを切り出している局面なのに、視界に入ってきただけで心の声が漏れてしまった。
暗闇の中で一筋の光を見た、そんな気がした。ずっと欲しくてたまらない人が目の前に現れたのだから当然かもしれない。ただ、後ろめたさもあった。祐樹にはっきりと別れを告げたわけではない。ただ好きな人がいると言っただけだったから。心の中に複雑な気持ちが入り乱れているのを感じていた。

「藤原、大丈夫か?」

先生が駆け寄ってきた。私と視線を合わせるように膝に手を当てて黙ったままじっと目を合わせる。学校では見たことのない表情で、先生というよりは一人の男性と話をしているかのように感じた。眼鏡の奥の瞳が私を本気で心配していた。

「あなたが変人先生ですか…」

祐樹が突然私たちの間に割って入るように声を出した。まるで先生を値踏みするような言い方をした。祐樹らしくない言葉のチョイスに違和感を覚える。

「君は誰だ?」と鋭い目つきの先生がさらに細くなっていく。私は慌てて止めに入った。

「祐樹、やめて!」
「理子さ、俺より変人先生の方がいいって言ったよね。何、俺のこと弄んでたわけ?」
「彼女のことを貶めるような言い方はやめなさい」
「オレは変人先生に負けたってことね」
「自分が生徒から変人呼ばわりされていることは知っているが、君は私の生徒ではない。失礼な言い方はやめてもらいたい!」

眼鏡を人差し指で押し上げた。

「二人ともお似合いだよ!理子は心に人を入り込ませないし、本当の自分を見せない。変人先生は論点がずれているし。オレ、もうついていけねーわ」
「先生のこと悪く言わないで!」
「こわ!急に感情出してくるじゃん。それだけ本気ってことだろ、バカくさくてやってらんないよ。理子は別れたがってたし、いいよもう別れよ。はい、これで終わり」

2人で話をしていたときとはまるで別人のようで驚いた。こちらが本心なのかと思ってしまうほど祐樹の感情的な一面を見たようだった。温厚な祐樹がここまで怒る姿は初めて。
確かに、私は祐樹のことを先生に感じるような熱量はなかった。自分のテリトリーに入れたくない気持ちがあったのも事実。でも、これが普通だと思っていたし、祐樹も何も言ってこなかったからこれでいいと思っていた。

でも、人を好きになるということは、恋をするということは、強い思いで相手を切望し、自分のものにしたいと思う気持ちで相手にぶつかっていくことだと知った。
これまでの私は甘く考えすぎていたのだと思う。相手に合わせるだけで、自分を見せる必要はないと頑なだった。恋の熱量を理解できていなかった。

「祐樹、本当にごめんね!」

そう声をかけると、こちらを見て一瞬いつもの笑顔を見せたがプイっと行ってしまった。
じわじわと苦しみが襲ってきた。これが別れの苦しみなのだろうか。私の中には祐樹に対して好きの感情はほとんどなかった。それなのに胸の中にドロドロの黒いものが張り付いて取れない。そんな重苦しい気持ちでいっぱいになってしまった。

地面に崩れ落ちそうになったところを先生がとっさに肩を支えてくれた。

「大丈夫か?」
「はい…」

重苦しい気持ちが少しずつだけど薄れていく感じがしていた。足立先生の声と匂いに包まれているせいで頭がクラクラしているせいもあるのかもしれない。

「あれは演技だな」と先生がつぶやいた。

「え?」
「いや、何となくだけど。藤原にわざと嫌われるような言い方や話し方だったから」
「あ…」
「いつもあんな風に話す人だった?」
「いえ、もっと優しい話し方をする人でした。でも、私が祐樹…、彼を傷つけるようなことを言ったから」
「そう思いたいならそれでもいいけど、多分、藤原が早く立ち直れるようにって突き放した言い方をしたんじゃないかな」
「……」

先生が言っていることはまんざらではないかもしれないと思えてきた。
いつもは優しく接してくれる人だったし、あんなふうに怖い話し方をしたことはなかった。私にあんな事件が起こって心配してきてくれるような人だったし。
ただ、話をしている最中に先生がやってきて私が先生しか見えない感じで話している姿を見て馬鹿らしくなったのかもしれない。もしかしたら、先生の言うように私のために嫌な彼氏を演じてくれたのかもしれない。どちらが本当かはわからない。普段とは違った祐樹の態度や言葉で私と接して別れを切り出して行ってしまったという事実があるだけだ。


「先生、もう大丈夫です」
「そうか、じゃあ」

植え込みのところに座らせてくれて肩からゆっくりと手を離した。そのまま、隣に座った。

「先生、どうしてきてくれたんですか?」
「あんな状態で学校を飛び出して行ったんだ、心配するのが当然だろう。あんな辛そうな笑顔で去っていかれたら誰だって気になる」
「すみませんでした。あの時は自分がいなくなれば、先生が学校を辞めなくてもいいと思ったんです。それに…」
「それに?」
「先生の手に退職届が見えたから」
「え?」
「先生にやめてほしくなかったんです」
「そうか。見えていたか」
「はい…」

会話が途切れると、学校帰りの子どもたちの声やカラスの鳴き声に耳が向いた。もう、午後も遅い時間になってきている。

先生は下を向いていた。私のことがひと段落したし、私が去った理由もわかったことで、もう帰ってしまうかもしれないと気付いた。もう少しだけ先生と一緒に過ごしたいとおもってしまった。

「あの」
「ん?」

先生が顔を上げた。笑顔を向けた先生の口角にあるほくろが私を引き寄せた。二人きりしかいないところでゆっくりと先生と過ごしたかった。初めて下心というものを抱いた。

「先生、うちでコーヒーでも」
「いや、まずいだろう」
「私は卒業していますし、教育実習生でもありません。ただの大学生ですし、成人しています。相談に乗ってほしいことがあるんです!」
「そうだとしても…」
「私、先生に彼女がいるのは知っています。でも元教え子の就活を手伝ってほしいんです!私、ちゃんと自立した大人になりたいので先生に相談させてください!」

ふぅ~と息を吐き、膝を叩いて先生が立ち上がった。

「わかった。でも少しだけだぞ」
「はい!ありがとうございます!」

少し前にあんな重苦しい気持ちを感じていたはずなのに、先生と二人きりで過ごすという強い気持ちが勝っていた。私は、正当で大胆な方法で部屋に誘っていた。


腰を上げた先生をアパートの部屋に案内し部屋に上げた。部屋のドアを開けると少しこもった匂いがした。空気を入れ替えようと先に入りカーテンと窓を開けた。その時ふと気になったことが浮かんだ。
「うちの住所、どうしてわかったんだろう?」

その時先生が「オレ、指導教諭だよ。基本情報は知っていたよ」と言った。

「え?なんで?」
「だって、藤原が聞くから」
「え?声に出てました?」
「あぁ」
「え!恥ずかしい」
「普段からいろいろと声に出ているから気を付けた方がいい」
「そうだったんですか?」
「わざと言っているのかと思ったよ」

そう言うと先生が優しく微笑んだ。
口角が上がるたびにほくろも動く。触りたくなる衝動を必死に抑えながら、キッチンでコーヒーを入れようとカップを棚から出していると突然先生の「藤原すまなかった」という声がした。カップを持ったまま振り返ると、先生が私に向かって土下座をするかのように、頭を下げている。

「えっなんで?」
「オレのせいで藤原の将来を潰してしまったこと本当にすまなかったと思っている。これからどんなことでも藤原の力になるから」

カップを置き、慌てて先生に駆け寄って頭を上げさせようと腕をつかんだ。

「先生やめてください。そんなに謝らないで大丈夫ですから」
「いや、オレの責任だから」
「私は大丈夫です。教えることを辞めるわけではないです。だから先生に相談に乗ってほしかったんです。ね、だからこんなことしないで」

頭を上げた先生の顔が思っていたよりも近くて、眼鏡が当たるのではないかと思ってしまった。でも、離れなかった。この距離感が異様に心地よかった。
先生は私の目をまっすぐに見つめている。

「警察に相談しにいかないか?」
「は?」

この状況とあまりにも唐突な話がマッチしていないので頭の中はクエスチョンマークでいっぱいになっていた。

「いったいどういう…?」
「今回の盗撮の件だ。オレ達は人に後ろ指をさされるようなことは何一つしていない」
「それはそうですけど」
「そうすれば、藤原はまた実習に戻れるかもしれない。オレはあんなに一生懸命に打ち込んで頑張っている姿を見てきた。こんなことでなかったことにはしたくないというのが本音だ」

先生がこんなにも私のことを考えてくれていたと思うと、胸が熱くなり、目頭も緩んできてしまった。

「私、下心ありました」
「え?」
「私、先生に教えてもらうことが楽しくてうれしくて。一緒に過ごす時間が本当に好きなんです。私の頑張りなんて下心の上に成り立っていたから、私はそれを生徒たちに見透かされていたんだと思います。私の方こそ先生にご迷惑をかけてしまって…」
「……」

先生は何も言わないまま、私の腕を指先で撫でて慰めるかのように触れた。白いブラウスの上から先生のぬくもりが伝わってきた。
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