上 下
6 / 9

6.この気持ちの行方

しおりを挟む
昼食は食べることができなかった。食欲が消え失せてしまったせいで、喉を通らなかった。それに、数学準備室には戻らなかった。先生に彼女がいることを知ってしまった以上、2人きりになるのはよくない。

私の一方的な片思い。やっと欲情ではなく恋だったと認識した途端に私の思いは泡粒のように縮れてしまった。しかし、消えてはなくなっていない。だから先生を思うと苦しくて涙が流れてしまう。

「彼氏がいる身で何をやっているの!」と自問自答しているが、私自身誰かをこんなに好きになったことが初めてで、どうすればいいかさえわからなかった。好きな気持ちを忘れることもやめることもできない。
彼氏に感じたことのない強い思いが私の心を独占していた。自分のことを最低だと罵りたくなる半面、先生を手に入れたいと強く思ってしまっている。そんな状態でも時間はどんどん過ぎていく。重苦しい気持ちを抱えたまま階段を下りた。

3階の踊り場を通り過ぎる際に、鏡に映った自分がいた。ひどい顔をしていた。これでは生徒たちに言われてしまう。それに足立先生も私の気持ちに気付いてしまうかもしれない。それを避けるために、一度職員室でメイクポーチを取りに行き、職員用トイレに入った。
ドアを開けると、今一番会いたくない人物が先客として鏡の前にいた。

一瞬、凍り付いてしまったようか感覚を覚えたが、他にメイクを直せる場所がなかったので仕方なく会釈をして三好先生の後ろを通り、2つ奥の洗面台でメイクを直すことにした。

三好先生は、アップにした髪を直しながら、「さっきのこと内緒にしてね」と鏡ごしに声をかけてきた。鏡越しの三好先生はいつも通りきれいだったし、いつもの優しい笑顔を見せた。しかし、目が笑っていなかった。私は「はい」と答えることしかできなかった。

これで2人が付き合っていると確信した。胸が苦しかった。人を好きになるとこんなにも苦しい思いをするのかと、軽いめまいが襲ってきていた。いつにもましてくちびるは渇き、いくらリップを塗ってもうるおってはこない。

「じゃお先に」
「はっはい」

三好先生がトイレを出て行ったと同時に、大きく息を吐いた。これまでまともに呼吸できていなかったことにやっと気付いた。



午後の授業は惨敗とまではいかないが、間違いを生徒に指摘されてしまうほど身が入っていなかった。

「りこちゃん!そこ違くない?」
「え?あ…!」

男子生徒が指さしたところを見ると、黒板に3次の乗法公式のaとbを逆に書いてしまっていた。慌てて消して訂正を入れた。

「ごめんなさい!これ間違い、こっちがaでここがbです。」
「りこちゃんドンマイ!」

と声をかけてくれた生徒がいたおかげでその場は和んだが指導教官の視線が怖かった。目を合わせることすらできないまま授業を続行することにした。
足立先生が怖かったのではない。彼を見てしまったらまた涙が流れてしまうかもしれないと思ったからだ。


授業が終わると、足立先生から早々に注意を受けてしまった。

「間違いは誰にでもあるけど、今回のような初歩的なミスには気を付けないと」
「はい」
「授業中は余計なことを考えない!生徒たちが間違って覚えてしまったら大変だろう。もっと自覚を持って挑むことを忘れないでほしい」
「はい、気を付けます。すみませんでした」

私の気がそれていたのを足立先生に見透かされていた。

6時限目の授業が終わり、職員室に向かっていた。偶然3組の生徒たちが掃除に向かおうと教室を出てきたところに出くわした。

「りこちゃん元気出しなよ!」
「変人のくせに説教とかマジあり得ないよね。りこちゃん大丈夫?」

クラスの女子が声をかけてくれた。注意を受けていたところを見ていたのだろう。よく見ると、足立先生が夜な夜な実験しているから怖いしキモいと言っていた子たちだった。

「大丈夫よ、私が悪かったんだから。それよりさっきはごめんね」
「村上に比べたらマシなだって。りこちゃんの授業わかりやすいからさ、気にしないでよ」
「ありがとう」

優しい言葉に少し救われた気がした。

「変人ってさ、眼鏡に指紋ついてたり変なナル感入ってたりするし」
「そうそう、キモいだけなの気づいてないんだよね~」
「あとほら、実験の時の解剖!マジやばかったじゃん、お前たちは危ないからって言って解剖するところを見せられたりでさ。」
「あ~あったね!図でいいじゃんってなったやつ。わざわざ魚の内臓をピンセットで摘まんで決め顔で見せつけんの。解剖して説明しているかっこいいオレ!とでも思ってんじゃないの?」
「あれマジやばかった。しかも4時限目で食欲なくすっつーの!」
「それな!」

生徒たちは、口々に足立先生の変人っぷりを説明してくれた。ケラケラと軽い音の笑い声と先生を否定する口調には聞き覚えがあった。
私も高校生の時の友人たちがそう言っていた。当時の私も友人たちに賛同していて口に出していたことを思い出した。

しかし、今は恋心うんぬんより、教師がどれだけの思いで生徒たちと接しているかを理解できるまでになっている。だからこそ、当時の私をぶん殴ってやりたいとすら思う。でも、今は教師の仕事の大変さを知ることができてよかったと思っている。


「そういうところは当時からあったけどね、足立先生はみんなのことよく考えているよ。教え方も上手だし、どうしたら成績が上がるかとか、理解力をつけさせてあげられるかとか。もう少し…」

私の話を遮って「りこちゃんさ、もしかして変人のこと好きな感じ?」と一人の生徒が顔をのぞき込み、好奇心を絡めた顔で聞いてきた。

「え…そんな」
「なんか、最近一緒にいること多いじゃん。それにりこちゃんって変人が元担任でしょ」
「確かにそうだけど、私も勉強しに来ているわけだし。そんなこと思ってないわよ。それに、指導担当をするはずだった村上先生がお休みされているから…」
「なんか、変人のこと本気になってたりして~!」
「ガチ恋!やばいじゃん!」
「そんなんじゃないよ、先生からいろいろと指導してもらっているだけだし、あと少しで終わっちゃうし…」
「ふーん」

生徒たちは、一様に眉をひそめたり腕を組んだりしている。私の言葉を信じていないようだった。

昼にあんなことがあったせいか、うまく話すことができなかった。ただ、気持ちだけがどこかに行ってしまったような感覚がしていた。身体だけが勝手に動いて、笑顔を作ったり挨拶して帰ったりしている、そんな心がついてきていない状態だ。

失恋という言葉はありきたりかもしれない。でも、そのつらさを十二分に感じていた。



授業が終わると、逃げるように帰った。以前なら駅前のカフェで先生を待っていたであろう。今日はとてもそんな気にはなれなかった。
帰宅してトレンチコートを着たまま、バッグも持ったままの状態でベッドに倒れこんだ。
心のモヤモヤが消えていない。着替える余裕さえ残っていなかった。
どうにかこうにか、重い体を起こし、何とか着替え終えるとベッドに寝ころんだ。
頭の中で先生との思い出が流れる。先生がかけてくれた言葉の1つ1つを鮮明に覚えている。それが私には恋の可能性を感じさせるものだと信じて疑わなかった。
先生にとってはただの優しさでしかなかったという現実がつらくのしかかり、私を押しつぶそうとしていた。

「彼女がいるかもしれない」ことはわかっていたはずなのに、実際に目の当たりにしてしまったら、つらさというより痛みの方が強く感じていた。
気付くとまた、くちびるを触っていた。触りすぎて水分は失われカサカサしている。口紅がこすれ取れ、指を汚していた。まるで私の心の中を表しているように見えた。私の先生に対する思いは、好きの濃度が濃くなりすぎている。自分の物にしたいという欲求が沸いている。先生のくちびるがほしい、心がほしい、私だけを見てほしい。私は欲深な感情を抱いている。行き場のないこの気持ちをどうすればいいか、わからずに真っ暗に顔を押し当ててもがくしかなかった。
しおりを挟む

処理中です...