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2.数学準備室

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「先生が数学も…なんて知りませんでした…」
「そりゃ、あの当時は生物しか教えてなかったから」

職員室を出て階段を上った。こうして廊下を歩いていると、なんだか懐かしい気持ちになってしまう。「先生にガチ恋とかありえないよね~」と我が物顔で友達と廊下で話していたあの頃が一瞬にして戻ってきたようだった。

二階に上がってすぐの数学準備室は職員室の真上に位置する。
準備室の前まで来ると、先生は白衣のポケットからカギを出して私に手渡した。

「はいこれ。この部屋を使っていいから」
「あっはい」

木製の札がついた小さい鍵。札にはマジックで「数学準備室」と書かれてはいるがすっかり色あせてしまっている。「今時こんな古い鍵を使っている学校なんてないだろうな」とひそかに思ってしまうほど古めかしい。せめてプラスチック製のキーホルダーにするとかすればいいのに…。

鍵を開けて中に入ると、懐かしい匂いが余計に強く感じられた。この教室は入ったことがなかった。いつも鍵がかけられていたし、数学の先生に呼び出されるようなことがなかったからだ。

入り口を入ると、真ん中に机を合い向かいにしているのと背丈の小さいスチール製本棚をくっつけてあるのが目に飛び込んできた。村上先生がここで勉強を見てあげることがあるのかもしれないと思った。

「村上先生の荷物はこっちの机に動かしておいたから、黒板側の机を使ってくれ」
「はい」
「ロッカーは職員用がいっぱいだからここに荷物を置く許可をもらっておいた」
「ありがとうございます」

先生の指を指す方を見ると、確かに縦長のロッカーが2つ並んでいた。

「使っていいのはどっちですか?」
「両方空いてるから好きな方を使って」
「はい」

黒板側の席に移動して、バッグを置いたとき、急に先生と生物室で2人きりになったときのことを思い出した。

あの日、クラス委員に回収済みの生物ノートを先生のところに持っていくことを頼まれて。昼休み、生物室を訪ねた。ノックしてドアを開けると、先生は5時間目の実験の準備をしていた。

「先生、ノート持ってきましたよ」
「おお、ありがとう。準備室の方に置いてくれるか?」
「はい」

続き部屋になっている準備室はいつもの通り薄暗かった。薬品の匂いがする。部屋の奥にある人体模型の目が光っていて、不気味な雰囲気にはいつまで経っても慣れなかった。薬品棚と生物の各種見本が置かれている棚の間を静かに通り抜けながら一番奥にある先生の机に向かった。狭いので棚にぶつからないように歩かなければならず、無事にノートを机の上に置くことができて息をついた。さっさと戻ろうと、振り返った瞬間、何かにぶつかり後ろに倒れそうになった。

「きゃ!」
「おい、大丈夫か?」

先生だった。私が先生の胸に飛び込むような形でぶつかったせいで、勝手に後ろに倒れそうになったのだ。しかし、後ろには倒れなかった。正確に言えば、先生が私を両腕で抱き支えてくれていた。先生が私を抱きしめているような形になっていることに気づいたのは、先生の腕が私の背中をしっかりと捉えているとわかったからだ。
時が止まったかのような感覚に陥った。私と先生以外の世界がグルグルと回り始め、包み込まれているような感じが脳裏から離れなかった。

「……」
「……」

少しの沈黙の後、先生は私の肩をぐいと引き離し、「危なっかしいな。気を付けないとケガするぞ」と言って準備室から出ていった。私は心臓のドキドキが止まらずその場にしゃがみ込んだ。
先生からしてくる少し薬品っぽい匂いとあのシャンプーの香りが混ざって、現実に起こった出来事がまるで夢の中かマンガの世界のようだった。考えれば考えるほど顔がほてって自分に起こった、このトキメキが現実味を帯びていくのと同時にほてりが強くなっていった。



今は、「そんなことがあったなぁ」なんて思い出して、自分がいかにピュアだったかを思い知らされた。大学ではしっかり足をつけて人生を歩いてきたからだろう。

ここは数学準備室であって、生物準備室ではない。私は教育実習生であって高校生ではない。
思い出して浸っていられるほどの時間はないのだ。
数学準備室は、机が2つ合い向かいになっている。ここで私は2週間過ごす。先生と2人きりの時間もあるけど、現実に向き合わなければならない。

「足立先生は今、数学を担当していらっしゃるのですか?」
「これまではごくたまに不在の先生の代行で入ることはあったけど、今は他の先生と交代で村上先生の代理で授業をしている」

椅子に腰をかけながらそう話してくれた。
机に置いたバックを慌てて床に置いて、合い向かいの席に座った。

「リクルートスーツ姿、初めて見た。」

頬杖をつきながら笑っている。

「だって今日は初日ですし、ちゃんとしないとって思って…。その……変ですか?」
「いや、新鮮でびっくりした。ちゃんと大人になったんだなぁって」
「私はもう成人していますから」
「そうだね、生物準備室で顔を赤くしていた高校生とは違う」

ハッとして顔を上げると先生が笑顔を見せていた。

「足立先生、なんで今そんなこと言うんですか!」
「いや、そんなことがあったな~って、さっき教室に入る時に思い出したんだよ。藤原がかわいかったなってさ」
「……」
「あれ?また赤くなってる」

恥ずかしくて顔を隠そうにもうまくいかなくて、そんな時に先生は机越しに頭をポンポンと撫でてくれた。

「もう!やめてください。思い出話より今後の実習の進め方を指導してください!」
「わかってる、だからこれ資料」

バサッと机の上に書類を出してきた。
それ以降、今度の授業の進め方や学校生活において必要なルールなどを淡々と説明してくれた。大学で大方のことは知っていたつもりだったが、内容が密でやらなければならないことが山積みになるなと思ってしまった。

資料に目を落としながら、私は先生のことを気づかれない程度に盗み見していた。
以前よりもくしゃくしゃしている髪に触ってみたいとか、資料をめくる指先が長くて関節がゴツゴツしている指に触れたいとか、先生のくちびるに触れたいとか、くちびるの横にある黒子にそっとくちびるを這わせたいとか。
そんなことばかりを思ってしまった。

先生に恋をしているかと言えば、きっと「どうだろう?」と答える。触れたいというただの衝動。それだけだ。
彼氏がいるのにそんなこと考えてはいけない。それはわかっているけど、彼氏にも抱いたことのない感情を持っている。しかもこの気持ちが膨らんできている。私は破廉恥なのだろうか。でも、もしそれが叶うのなら、今すぐにでも衝動のままに行動するだろう。


「以上だけど何か質問ある?」

いつの間にか説明が終わっていた。私は慌てて「何もないです」と首を振った。

「明日からクラスに入ってもらうからちゃんと授業内容を頭に入れてきて。それから明日以降実習期間は弁当持参で、ここで食べて。オレも来るから」
「え?どうしてですか?」
「授業の振り返りだよ。オレ時間が昼休みしか取れないからその時に詰め込み気味でやるからそのつもりで」
「え?あっでも先生と2人でご飯ってまずくないですか?」
「大丈夫、教頭の許可は取ってある」
「あっそうなんですね。わかりました」

そう返事した。先生と2人きりでランチできることが素直にうれしくて自然と口角が上がり、笑顔になった。
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