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第15話(2) 執事の信条
しおりを挟むシドは瞠目していた。
「運命の相手が……私……?」
青藍の瞳の奥深くにひっそりと隠されていた鷹ではないもっと弱々しい何かがフィリアを見ていた。まだ焦点が定まらず半信半疑を伴って混乱しているようにも見える。何を言っているのか、ヴェールの下で今、どんな目で自分を見ているのか、どんなつもりでそれを述べているのか――そう語りかけているような。
「こんなこと言われたら、シドは迷惑?」
「…………、いいえ、しかし……」
「だったら抱きしめて」
身じろぎしたシドをよそに、フィリアは肩の手を退けて執事であるはずの人の胸に抱きついた。
もはや命令に近いものがあったが、心臓の辺りに顔を押し付けて細い腕を回す。強引な女の子は好かれないことだって分かっている。でももう時間が迫っているから四の五の言っていられない。
当然男性にこんなことをしたのは初めてだから恐ろしいくらい恥ずかしかった。
薄いシャツごしに接触する全ての箇所から否応なくシドの温かい体温が伝わって来る。逆に自分の隠しおおせない震えが知られてしまうことも、耳元の心拍数が上がっていることも、普段は気付かなかった俄かな香水の香りがすることも、それらのせいで理性が吹っ飛んでしまっている自分も全部、全部、恥ずかしい。
「貴方よ絶対……貴方なのよ、だって私こんなに……」
「………………」
完全に一杯一杯で、自分が何をさせようとしているのかさえ考えられなくなっていた。
いっこうに身動きしないシドの無言と重苦しい空気から、やっとそれが答えなのだと認識し始めた時、じわりと汗が滲んだ。自分は一体何を考えているのだろう。
シドは応えられようはずがない。
応えてはならない。
応えれば終わる。
忠誠を誓っているはずの使用人が侯爵家の娘に手を出せば、それは当然ただで済むはずがない。終わってしまうのだ、最悪の場合、シドの命が。そんなことすらもフィリアの頭からは消え去ってしまっていて。
「お嬢様……」
シドが苦しげに口を開く。
その様子にやっと我に返り、フィリアが離れようと身じろぎした時、行き場もなく垂れ下がっていた執事の腕がおもむろに持ち上がった。
「貴女は……何もお分かりでない……」
フィリアの背にその手が回される。
まさかと思った次の瞬間には雪崩落ちるように思い切り抱きしめられていた。
信じられないほど強く、熱く、息ができないほどギュッと締め付けられて、訳が分からないままフィリアもシドにすがりついた。
命令に従っただけの使用人が、こんなに強く抱きしめるものだろうか?
なかなかやめようとしないのはなぜ? 全身から力が抜けて夢の中へ落ちてしまいそう。
「お嬢様……私はどうすれば良いのでしょう……オリーズ家どころかアイボット家の誇りも、自分の信条さえも裏切り、貴女を謀り切れもせず――」
自分の不甲斐なさに打ち震えるような声だった。
「どの道、今日で最後でございましょう……ならば私は……」
「……え?」
シドはフィリアの腰を強引に捕らえ、ヴェールを勢いよく捲りあげた。
暴かれたのは、淡いピンクの唇を色めかせた令嬢の素顔だったのか、それとも青藍の瞳の奥に潜んでいた執事の悲痛な本性だったのか。
フィリアがたまらず口元から小さく吐息を漏らすと、もはやどうにもできないといった勢いでシドはその頬に手を触れてきた。
想像すらしていなかった。シドが理性に抗いきれなかった男の顔を覗かせて自分を見下ろしているのだ。まるで獲物を狙い定めたような美しい鷹の顔。今にも襲い掛かってきそうなのに嬉しい。全然怖くない。
ただ――――一つだけ、そのとき残念に感じられたのは、頬に触れてくれた温かい感触が手袋だったこと……。
彼は自分の視界に入ったそれに気付いてか、突然顔色を変えた。
己が何者であるかを示す白い手袋が、まるでシドを魔法にかけたように硬直させ、端整な顔を強張らせる。フィリアが焦がれるような目でシドを見つめても、彼は身動きできないまま、眉間に皺を寄せて狼狽えた反応を返してくるばかりだ。
「もう手遅れよ……っ、」
シドが悪いわけじゃない。分かっているからこそ、悔しくてじわりと目に悲しい物が滲んでくる。
「どんなことをしても貴方を守るわ。私がどれだけ待っていたと思っているの……っ、誰も信じてくれなかった。誰一人として信じてくれなかったのよ……! せっかく巡り会えたのに、どうして貴方はこんなに遠いの。どうして私に嘘を吐いたの。どうして最後だなんて言うの。貴方がいなくなってしまったら全て夢で終わってしまうじゃないの。貴方は私を迎えに来てくれたんでしょう。あの時、中庭に現れたのはあなただった! 絶対に貴方だった……!」
「…………、」
「分かってるのよ。シド・アイボット! 四年前のあの日、私の中庭で黒い髪だけ覗かせてブーゲンビリアの庭木の後ろからこっそり私を見ていた。風の声や花の色めきがその人だと教えてくれたわ。いつもいつも星が、月が、ランタンの炎が、貴方だと教えてくれてるのよ! 忘れるものですか。声をかけたら逃げ去るように私を置いていった貴方を……! どれだけ……どれだけ待ったと思っているの!」
ボロボロと涙が溢れて止まらなくなった。
十五歳の時、中庭でフィリアはその人を見たのだ。貴方は誰、と問いかけたら、いなくなってしまったけれど。
上級使用人と護衛騎士だけが立ち入ることを許されたその場所に部外者がいるはずもなくて、誰もがフィリアは白昼夢を見たのだと噂した。
あれがシドだったかどうかなんて本当は分からない。ただのネズミモチだったかもしれない。身勝手に喚いたってシドには理解できないと、分かっているのに。
嗚咽を漏らしたフィリアの背に、シドの手が割れ物を触るようにふわりと触れた。そしてそのままもう一度抱きしめてくれた。その懐が温かくて、悔しいくらい優しくて。
「そうだったのですか……奇遇ですね……お嬢様……私も覚えておりますよ」
「え……?」
驚いたフィリアの背を、シドは子供をあやす様にさすりながら、優しい声で言った。
「貴女はあの時、白い花を持っていた」
「シド……」
刹那、バタバタと地面を叩くけたたましい足音が聞こえて二人は完全に夢から覚めた。サプラスがフィリアとミーナの入れ違いに気付いようだ。
シドは慌てて彼女を放したが、そちらを見遣ったときには時すでに遅く、横の路地から肩をそびやかした男が怒髪天を突く形相でこちらへ駆け寄って来るところだった。
「その手を放せ下郎がぁ!」
「サプラス、違うの! これは」
フィリアが止めるのも聞かず、頭の血を沸騰させた男はシドに掴みかかると、骨太な拳で顎に強烈な一撃を振り込んだ。
シドは避けることもしなかった。
まるで覚悟していたかのように、というよりホッとしたように、力なく自分の体を差し出したようにさえ見えた。
人が殴られるのを初めて見た。
遠慮のない豪腕の一撃はフィリアの目にすら火が出るほどの衝撃で――地面へ腰から崩れ落ち、苦痛に歪んだ顔を片手で押さえたシドの姿が酷く痛々しかった。
「シド……!」
迷わずシドの元へ駆け寄り、膝をついて肩を支える。口元から血が滲んでいるのを見て泣きそうになった。どんなことをしても守ると言ったのに……。
「やめてサプラス、違うの、私がいけなかったのよ!」
「ええい、お黙りください、フィリア様、こいつはさすがの私も許しておけん! どんな事情があろうと、下等な使用人風情が大事な侯爵家のお嬢様をたぶらかして触れるなど誰が見過ごせようか」
未だ立ち上がれないシドの胸倉を掴みあげ、フィリアから引き剥がすようにしてサプラスはもう一発同じ場所に食らわせようと腕を振り上げた。
その顔が怖かった。笑っているのだ、フィリアに向けて。こんなことは朝飯前だと、自分はいつも戦でこうして敵をねじ伏せてきたのだと、愚かな虫けらを一つ潰して御覧にいれましょうと、そんな心の声が聞こえるのだ。
サプラスのわき腹に、フィリアは抱きついてすがった。
「お願いよサプラス! シドは何もしてないわ。ごめんなさい。シド、ごめんなさい。私がいけないのよ、ごめんなさい。ごめんなさい……っ」
取り乱してヴェールが勢いよく剥がれ落ちる。結われていた白銀の髪が荒く散ったのも構わず、ほとんど泣きじゃくって取りすがった。
サプラスは驚愕しておののき、それ以上は何もできなくなり、振り上げた拳を渋々と下ろすとシドを無造作に地面へ放った。再び長身の体が腰から落とされ、鈍い音がした。
「シド殿……このことはオリーズ侯にご報告しておきますぞ。ご覚悟ください」
「サプラス、お願いよ、お父様には言わないで!」
「申し訳ありませんが、それはできかねます。さあ行きましょう」
そう言い捨てると、彼はシドに蔑むような一瞥をくれてからフィリアの手首を強引に掴み、肩を抱き、有無を言わさず踵を返して元の道を戻り始めた。
「シド……」
「フィリア様、目をお覚まし下さい。貴女は騙されているのですよ。あの男は自分で馬車まで歩けますから大丈夫です。逃げるやもしれませんがね。はっはっ」
サプラスは快活に笑った。逃げれば罪が極限まで重くなることを分かっているから拘束もしないのだ。
なんとか振り返ってシドの様子を見ようとしたが、彼女を掴む大きなゴツゴツとした手がそれを許してはくれなかった。
石畳の上を冷たい風が通り過ぎていく。
シドはどうなってしまうのだろう。
なんとか助けなければと、そればかり考えていた。
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