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第3話(2) 闇の書庫
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「ど、どう? あの書簡を解読する手がかりになりそうな文献はない?」
「まだ何とも……あまり見かけない文字ですからニーア王国と交易の薄い国を探せばたどり着けそうな気もしますが」
「確かにそうね」
当然のように真面目に調査を始めたシドをよく観察する。
もしフィリアの占いと推理が正しいならば彼こそが運命の人であり、あの書簡を落として行った『黒髪の騎士』の可能性が高いのだが――――これは演技なのだろうか。
書庫はかなり広く、等間隔に並べられた書棚も天井まで届く高さがあり、圧倒されるほど大量の蔵書が至極大雑把に種類分けされて詰め込まれている。実際に一冊ずつ手にとって調べようなどと思うなら恐らく何ヶ月もかかってしまうだろうが、彼は今後もすっとぼけたまま頑張るつもりなのだろうか。
シドは意図して自分に会いに来たわけではないかもしれない……とか、もしかすると、正体を明かせない事情があるのかもしれない……など、あれこれ考える。
こっそり背後から(あなたは私を迎えに来たんでしょ。正体を明かすなら今がチャンスよ!)とテレパシーを送ってみたら「あちらの書棚に交易に関する文献があるようですよ」と返事が返って来た。
その棚へ行くにも、フィリアはシドの袖を掴みっぱなしだった。
「なかなか見つからないものね。きっとマイナーな小国の言葉だと思うのだけれど」
「そうでございますね……字体からして表意文字を主体とする東方の国ではないと思います。あれはどちらかというと、アイル文字やレタリー文字など、我が国と同じ表音文字に近いかと」
「そうね、私もそう思うわ。だとしたら大陸の内側か近隣の島国が怪しいわね。暗号の類ではないと思いたいけれど……」
「まさか、そんなことはないと思いますが」
しばらく近隣諸国について話してみると、シドはかなり勉学の心得があるらしく、一介の使用人とは思えないほど地理の知識を豊富に持っていた。
その上、闇の中では声に感情が伴って聞こえることがフィリアを感動させた。他の人達の前では教科書通りのセリフと、もっと抑揚の少ない話し方だったような気がするから新鮮だ。勘違いの可能性も捨てきれないが、フィリアに恋をして潜入してきた影の騎士である可能性がゼロから5%くらいまで急上昇した。
フィリアはそれとなく、用意してきた自然なセリフをシドへ投げた。
「ねえ、シドは外国へ行ったことがある?」
「……え? ええ、以前少しだけ」
怪しいわ、と彼女は目を光らせた。生涯をオリーズ家に捧げて多忙のはずのアイボット家の人間が侯爵領を出るなんて変だ。
「まあ、いいわね。私は領内の田舎の方へしか行ったことがないわ。どんなところへ行ったの?」
「例えば……一度ルシアール公国を旅しました」
「……!」
ルシアール公国! 随分前にこちらの国と小競り合いがあったと聞いたことがある。つまり、その時騎士として派兵されたに違いない。
「そ、それは大変だったでしょう。あの戦は協定を結ぶまで半年かかったと聞くわ。怪我などしなくて良かった」
「……? いえ、私が行ったのは戦よりずっと後です」
「……え、でもどこかへ戦には行った事があるでしょう?」
「まさか。戦など行ったことはありません。ルシアール公国では広い海と、とても綺麗な港を見て参りました。あれは本当に素晴らしい所だった」
不毛な問答に負けフラグが立った。
フィリアは現実から目をそらした。シドの正体より、話の最後に一瞬彼の顔が優しくゆるんだことの方に全力で意識を傾ける。
「そ、そうなの、素敵ね……! 私、海を見たことがないの。海って本当に広かった?」
「ええ、信じられないほど青くて、広くて――穏やかな日にはいつも静かな漣の音が聞こえるのです。お嬢様も行かれれば、きっとお気に召されると思いますよ」
「行ってみたいわ……! そこにはたくさんのおかしな生き物がいるんでしょう? 本当に魚よりもおかしな姿をした生き物がいるの?」
「はい、生き物も大変興味深いものが多い所ですが、一番の見所は抱えきれないほど大きな水平線と空、そして静かに通りすぎて行く潮のにおいです。沖から吹く気持ちの良い風と、それにのって聞こえて来るかもめの声や汽笛の音も良い。驚くほど雄大でありながら凪の海は足元に優しい波を寄せてくれるのです」
どうやら海が好きなのか、シドはしばらく話をしてくれた。見てきた情景を熱っぽく語り、その度に目を細め、硬く結んでいた唇が少しだけ笑んでしまうのが分かった。
意外と心の中は少年っぽいのかもしれない。思いがけず可愛い面があることに気付いてフィリアも和んでしまった。
「すごいのね……。いつか海を見ることが私の夢の一つだわ。シドには何か夢がある?」
「……夢、ですか。……いえ、私はもう叶いませんので……」
ランタンの明かりの中、一瞬、シドの表情が微笑の中に翳を落とした気がした。夢が叶わない……彼の夢とは何だろう?
訊ねる前にシドが口を開く。
「お嬢様の夢は城域の外へ自由に出かけられることでしょうか。いつか外国へ旅をされるのも良いかもしれませんね」
「そうね、私の夢はたくさんあるけれど、色んな景色を見ることもその一つよ。色んな人と出会って、色んなことを知りたいの。きっと外国には私の知らないことがたくさんあるわ。だから、その為にまず、やらなくちゃいけないことがあるの」
「……といいますと?」
「結婚相手を探すのよ。私を自由にさせて下さる優しい方をね!」
フィリアは僅かに眉尻を下げて微笑するとシドが持っていたランタンを奪い、自分の物と合わせて後ろ手にゆらゆらと揺らした。お互いの顔は見え辛くなくなり、二人の影が書棚に揺れる。
今、自分はどんな顔をしているだろう。
シドが影の騎士である確率は今のところ5%……なのに相変わらず執事にこんな話題を振っている自分がそろそろ恥ずかしくなってきた。
「お父様とお母様と約束したの。二十歳の誕生日までに運命の人を見つけるって。見つからなかったら両親が決めた人と結婚することになってしまうわ」
「……さようですか。それで、見つかりそうなのですか」
「残念ながらまだよ。早く現れて欲しいのだけど」
ほぼ懇願の眼差しでシドを見上げると、薄暗い闇の中で彼は不思議そうに視線を返して来た。
「……しかし運命とは、自分の思い通りにはいかないものです」
「……え?」
「お相手をご自分でお探しになることも良いことだとは思いますが、もし見つからなくとも、ご両親のお決めになった男性が運命のお相手だったと思えば気に病む必要もございませんよ」
「ダメよ!」
思わず不機嫌な声をあげてしまった。何を言い出すのだこの執事は、と心中が急激に怒りに燃える。否定されたからではない、シドの運命観が許せなかったからだ。
「諦めさせるようなこと言わないでちょうだい。私はお父様やお母様には絶対負けないんだから。そんな風に諦めちゃ駄目。運命というのはすでに決まっている物だけれど、未来を自分で掴みに行くか行かないかもすでに決まっているの。それは今、現在の自分が動くかどうかで決まるのよ」
「…………」
「さっきシドは自分の夢が叶わないと言ったでしょう。諦めてはだめよ。できる限りの努力をしなくちゃ!」
まくし立てるように声を荒げてしまった。暗闇に自分の声が余韻を残して響く。
シドは少し驚いて、それから切なげに小さく笑った。
「……どうして笑うの? 私、変なこと言った?」
「いえ、おっしゃる通りだと思いまして。お嬢様はお綺麗ですね」
「……え?」
「その……お心が。でしたら、お嬢様も早く運命の人を見つけませんと」
「…………え、ええ、そうね」
ランタンはフィリアの後ろ手にあるから、シドに狼狽えた顔が見えてしまったかどうかは分からない。でも、闇の中でフィリアの方からはシドが切なげに、けれど優しく微笑みかけているのが分かった。
一つ、言葉にできない溜息をついてからシドにランタンを返す。なぜ切なげなのか、その表情の意味が気になって仕方ないのだが、このまま深入りするのはまずい気がした。ただの執事を好きになってしまいそうで。
互いの顔が見えるほど明るくなると、フィリアは誤魔化すように笑って執事服の袖を引っ張った。
「たくさんおしゃべりしたら夢中になってしまったわ。今日は時間切れよ、もうお部屋へ帰らなくちゃ……。また次回も付き合ってくれる?」
「ええ、それはもちろん。お嬢様のご希望とあらば、どこへでもお供させて頂きますよ」
フィリアの執事は再び形式的な儀礼でもって左手を腹に当て、軽く一礼した。するりと落ちた前髪の下に、今日一番の優雅で品のある優しい笑顔が見えていた。
心にフツフツとシチューのように煮立って来た熱っぽさが息苦しい。
これはまずい…………。
結果、不自然なほど態度を元の淑女然としたものに戻し、眉尻を下げて「バゼルにそっくりね」と整った微笑を返した。
「まだ何とも……あまり見かけない文字ですからニーア王国と交易の薄い国を探せばたどり着けそうな気もしますが」
「確かにそうね」
当然のように真面目に調査を始めたシドをよく観察する。
もしフィリアの占いと推理が正しいならば彼こそが運命の人であり、あの書簡を落として行った『黒髪の騎士』の可能性が高いのだが――――これは演技なのだろうか。
書庫はかなり広く、等間隔に並べられた書棚も天井まで届く高さがあり、圧倒されるほど大量の蔵書が至極大雑把に種類分けされて詰め込まれている。実際に一冊ずつ手にとって調べようなどと思うなら恐らく何ヶ月もかかってしまうだろうが、彼は今後もすっとぼけたまま頑張るつもりなのだろうか。
シドは意図して自分に会いに来たわけではないかもしれない……とか、もしかすると、正体を明かせない事情があるのかもしれない……など、あれこれ考える。
こっそり背後から(あなたは私を迎えに来たんでしょ。正体を明かすなら今がチャンスよ!)とテレパシーを送ってみたら「あちらの書棚に交易に関する文献があるようですよ」と返事が返って来た。
その棚へ行くにも、フィリアはシドの袖を掴みっぱなしだった。
「なかなか見つからないものね。きっとマイナーな小国の言葉だと思うのだけれど」
「そうでございますね……字体からして表意文字を主体とする東方の国ではないと思います。あれはどちらかというと、アイル文字やレタリー文字など、我が国と同じ表音文字に近いかと」
「そうね、私もそう思うわ。だとしたら大陸の内側か近隣の島国が怪しいわね。暗号の類ではないと思いたいけれど……」
「まさか、そんなことはないと思いますが」
しばらく近隣諸国について話してみると、シドはかなり勉学の心得があるらしく、一介の使用人とは思えないほど地理の知識を豊富に持っていた。
その上、闇の中では声に感情が伴って聞こえることがフィリアを感動させた。他の人達の前では教科書通りのセリフと、もっと抑揚の少ない話し方だったような気がするから新鮮だ。勘違いの可能性も捨てきれないが、フィリアに恋をして潜入してきた影の騎士である可能性がゼロから5%くらいまで急上昇した。
フィリアはそれとなく、用意してきた自然なセリフをシドへ投げた。
「ねえ、シドは外国へ行ったことがある?」
「……え? ええ、以前少しだけ」
怪しいわ、と彼女は目を光らせた。生涯をオリーズ家に捧げて多忙のはずのアイボット家の人間が侯爵領を出るなんて変だ。
「まあ、いいわね。私は領内の田舎の方へしか行ったことがないわ。どんなところへ行ったの?」
「例えば……一度ルシアール公国を旅しました」
「……!」
ルシアール公国! 随分前にこちらの国と小競り合いがあったと聞いたことがある。つまり、その時騎士として派兵されたに違いない。
「そ、それは大変だったでしょう。あの戦は協定を結ぶまで半年かかったと聞くわ。怪我などしなくて良かった」
「……? いえ、私が行ったのは戦よりずっと後です」
「……え、でもどこかへ戦には行った事があるでしょう?」
「まさか。戦など行ったことはありません。ルシアール公国では広い海と、とても綺麗な港を見て参りました。あれは本当に素晴らしい所だった」
不毛な問答に負けフラグが立った。
フィリアは現実から目をそらした。シドの正体より、話の最後に一瞬彼の顔が優しくゆるんだことの方に全力で意識を傾ける。
「そ、そうなの、素敵ね……! 私、海を見たことがないの。海って本当に広かった?」
「ええ、信じられないほど青くて、広くて――穏やかな日にはいつも静かな漣の音が聞こえるのです。お嬢様も行かれれば、きっとお気に召されると思いますよ」
「行ってみたいわ……! そこにはたくさんのおかしな生き物がいるんでしょう? 本当に魚よりもおかしな姿をした生き物がいるの?」
「はい、生き物も大変興味深いものが多い所ですが、一番の見所は抱えきれないほど大きな水平線と空、そして静かに通りすぎて行く潮のにおいです。沖から吹く気持ちの良い風と、それにのって聞こえて来るかもめの声や汽笛の音も良い。驚くほど雄大でありながら凪の海は足元に優しい波を寄せてくれるのです」
どうやら海が好きなのか、シドはしばらく話をしてくれた。見てきた情景を熱っぽく語り、その度に目を細め、硬く結んでいた唇が少しだけ笑んでしまうのが分かった。
意外と心の中は少年っぽいのかもしれない。思いがけず可愛い面があることに気付いてフィリアも和んでしまった。
「すごいのね……。いつか海を見ることが私の夢の一つだわ。シドには何か夢がある?」
「……夢、ですか。……いえ、私はもう叶いませんので……」
ランタンの明かりの中、一瞬、シドの表情が微笑の中に翳を落とした気がした。夢が叶わない……彼の夢とは何だろう?
訊ねる前にシドが口を開く。
「お嬢様の夢は城域の外へ自由に出かけられることでしょうか。いつか外国へ旅をされるのも良いかもしれませんね」
「そうね、私の夢はたくさんあるけれど、色んな景色を見ることもその一つよ。色んな人と出会って、色んなことを知りたいの。きっと外国には私の知らないことがたくさんあるわ。だから、その為にまず、やらなくちゃいけないことがあるの」
「……といいますと?」
「結婚相手を探すのよ。私を自由にさせて下さる優しい方をね!」
フィリアは僅かに眉尻を下げて微笑するとシドが持っていたランタンを奪い、自分の物と合わせて後ろ手にゆらゆらと揺らした。お互いの顔は見え辛くなくなり、二人の影が書棚に揺れる。
今、自分はどんな顔をしているだろう。
シドが影の騎士である確率は今のところ5%……なのに相変わらず執事にこんな話題を振っている自分がそろそろ恥ずかしくなってきた。
「お父様とお母様と約束したの。二十歳の誕生日までに運命の人を見つけるって。見つからなかったら両親が決めた人と結婚することになってしまうわ」
「……さようですか。それで、見つかりそうなのですか」
「残念ながらまだよ。早く現れて欲しいのだけど」
ほぼ懇願の眼差しでシドを見上げると、薄暗い闇の中で彼は不思議そうに視線を返して来た。
「……しかし運命とは、自分の思い通りにはいかないものです」
「……え?」
「お相手をご自分でお探しになることも良いことだとは思いますが、もし見つからなくとも、ご両親のお決めになった男性が運命のお相手だったと思えば気に病む必要もございませんよ」
「ダメよ!」
思わず不機嫌な声をあげてしまった。何を言い出すのだこの執事は、と心中が急激に怒りに燃える。否定されたからではない、シドの運命観が許せなかったからだ。
「諦めさせるようなこと言わないでちょうだい。私はお父様やお母様には絶対負けないんだから。そんな風に諦めちゃ駄目。運命というのはすでに決まっている物だけれど、未来を自分で掴みに行くか行かないかもすでに決まっているの。それは今、現在の自分が動くかどうかで決まるのよ」
「…………」
「さっきシドは自分の夢が叶わないと言ったでしょう。諦めてはだめよ。できる限りの努力をしなくちゃ!」
まくし立てるように声を荒げてしまった。暗闇に自分の声が余韻を残して響く。
シドは少し驚いて、それから切なげに小さく笑った。
「……どうして笑うの? 私、変なこと言った?」
「いえ、おっしゃる通りだと思いまして。お嬢様はお綺麗ですね」
「……え?」
「その……お心が。でしたら、お嬢様も早く運命の人を見つけませんと」
「…………え、ええ、そうね」
ランタンはフィリアの後ろ手にあるから、シドに狼狽えた顔が見えてしまったかどうかは分からない。でも、闇の中でフィリアの方からはシドが切なげに、けれど優しく微笑みかけているのが分かった。
一つ、言葉にできない溜息をついてからシドにランタンを返す。なぜ切なげなのか、その表情の意味が気になって仕方ないのだが、このまま深入りするのはまずい気がした。ただの執事を好きになってしまいそうで。
互いの顔が見えるほど明るくなると、フィリアは誤魔化すように笑って執事服の袖を引っ張った。
「たくさんおしゃべりしたら夢中になってしまったわ。今日は時間切れよ、もうお部屋へ帰らなくちゃ……。また次回も付き合ってくれる?」
「ええ、それはもちろん。お嬢様のご希望とあらば、どこへでもお供させて頂きますよ」
フィリアの執事は再び形式的な儀礼でもって左手を腹に当て、軽く一礼した。するりと落ちた前髪の下に、今日一番の優雅で品のある優しい笑顔が見えていた。
心にフツフツとシチューのように煮立って来た熱っぽさが息苦しい。
これはまずい…………。
結果、不自然なほど態度を元の淑女然としたものに戻し、眉尻を下げて「バゼルにそっくりね」と整った微笑を返した。
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