おはよう・おやすみ・おやすみなさい

2：こまった・きょうき・おねがいだⅠ

　ネロ・スミスは魔族である。しかしもう長いこと人間として生活をしていた。魔族としての資格を褫奪されて随分久しい。魔族の生活は堅苦しくてかなわない。今でこそそう思えるが、当時は随分荒れたものだったなと、数多の物に囲まれた部屋でぼうやり思い返していた。

　アレが欲しい、コレが欲しい、愛おしい、手離したくない。そういった欲求は、ネロの理性を蝕み、本能を急き立てた。美しいものが欲しい。珍しいものが欲しい。他人を傷つけてでも、他人の物を奪ってでも、他人を蹴落としてでも。ネロは欲した物のためにその他すべてを敵に回せる男となっていた。
　魔族は数千年と生きるその寿命のためか感情の起伏が薄いため、感情豊かな個体は生態研究の贄となることが常であったが、ネロほど他者に危害を加える個体となると話は違ってくる。彼はひどく危険な個体であると、魔族の住まう国を追われ、地上へを落とされた。
　魔族の国――空の国と呼ばれている――は、かつて地底に封印されたひとりの魔族の力が強大すぎるために宙に浮かんでしまった空中大陸であり、今は魔族の他は数種類の鳥と、実験動物だけが住まう小国だ。空は元来鳥のものであるからと自由にさせているが、それ以外の生き物はすべて厳しく管理されている。様々な事情で繁殖力の弱い魔族自身もその限りではなく、ネロにとってはひどく窮屈な生活であった。
　一方地上はといえば、二、三千年ほど前に魔族が研究の果てに生み出した愛玩動物、『人間』の住まう地で、現在四つの国に分かれ、それぞれを魔族が管理している。管理といっても数や住処の面倒を適度に見るだけで、特に何かを搾取するわけでもない。家畜とも違う、ただただ鑑賞し、愛玩するだけの存在のための地だ。
　愛玩動物のための地のほうが圧倒的に広いがそれはそれ。繁殖能力の違いでもあるし、単に、広々とした花畑を観察するような心地でいるためでもある。地上に降りて働く飼育員たちもいるが、基本的には好きなように生活させているので、とかく、見ていて飽きない。姿は似通っていれど、魔族の数十分の一程度しか寿命を持たない愛しくも愚かな生き物たち。その中に、ネロは投げ出された。
　飼育員として地上の各国で生活している魔族も数多くいれど、それでも空の国との行き来は頻繁にしているし、出入りの制限もない。しかし権限を褫奪されたネロは違う。もう二度と、彼の地の土を踏むことはできないのだ。
　くそ、いつか絶対に舞い戻って、お前たちの持つすべてを片っ端から奪い取ってやるからな。そんな怒りに燃えていたのも今は昔。現在のネロは人間の世界で、誰に自由を侵されることもなく、どれほど求めても批判を受けることもなく気ままな暮らしをしていた。フランクリン・マーチャント。それが、人間に合わせて生きるネロの、今の仮の名前だった。