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番外編 最後に見る夢
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※これは本編の、第72話あたりおよび第93話~94話あたりの朱虎視点の話です。
読まなくても、本編には全く支障ありません!
「一番大事なところの朱虎視点抜けてたなあ」と思い追記しました。
よろしければどうぞ……。
手酷く痛めつけられている自分を、俺はどこか他人事のように感じていた。
痛みを感じないようにするのはそんなに難しいことじゃない。殴ったり殴られたりするのは昔からお手の物だ。
とはいえ、こんな風に薄暗くて狭い船底で、マフィアどもに殴り殺される羽目になるなんてひと月前には想像もしていなかった。
どこで間違えた?
あの刑事を倉庫に呼び出したことだろうか。
それとも、マフィアとの銃撃戦になった時にとっととお嬢を連れて逃げなかったことか。
撃たれて気を失って――船の中で目覚めた時、あの医者の口車に乗っちまったことか。
オヤジに電話で組を抜けると伝えて、激怒させたことか。
「……へっ」
知らず知らずのうちに、苦笑がこぼれた。
どれも、その時はそれが最善だと思ってやった。
ということは、ここでこうやってサンドバッグになってる未来はどう転んでも逃れられなかったってわけだ。
俺のような男には似合いの最後なのかもしれない。
死ぬ覚悟が決まってなかったわけじゃない。ヤクザなんてものをやってる以上、いつ死んでもおかしくはない。
ふと、頼りなげにこっちを見た医者の眼差しが浮かんだ。
多分、俺が間違えたのはあそこだ。マフィアどもが踏み込んできた時、あそこは医者を見捨てて自分が逃げるべきだった。そうすれば、サンドラを助けられる可能性がかなり上がっていたはずだ。それなのに俺はなぜか、自分が囮になってあの医者を逃がしてしまった。
「サンドラのことは迷惑なんだ」
マフィアが踏み込む直前に聞いた医者の声が妙にくっきりとよみがえる。
「本当に迷惑だ。今更……目の前に現れるなんて……」
ひときわ大きな衝撃が襲ってきて、俺の意識は途切れた。
〇
「『サンドラと何度寝たんだ、東のネズミ野郎』とレオに言われたのは、母の葬式の時だったよ」
椅子に腰掛けた医者は、穏やかな表情で言った。
「母が亡くなった時、サンドラは8歳だったよ。まあ、そのころからすでに美人ではあったけど。そして、僕のことをとても愛してくれていた。そのことにレオは酷く神経をとがらせていたんだ」
俺はベッドで黙って話を聞いていた。少しでも体を動かすと、ふさがれたばかりの傷が痛む。
「あの頃からレオはサンドラに異常なほど執着していた。だから彼は、母が亡くなるとすぐに僕を追い出しにかかった。僕は母の葬式が終わるか終わらないかのうちに、ほとんど逃げ出すようにしてイタリアを出て行ったよ。サンドラにろくな挨拶も出来なかった」
「とんだ腰抜けだな」
俺の言葉に医者は怒るでもなく笑った。
「確かに。でも、本当に怖かったのは自分自身だった。……あの子を愛していた。それは兄として、というつもりだったけど……少しずつ違うものになりつつあった。だから僕は、すべてを置き去りにして逃げたんだ。それで終わりのはずだった……」
医者のため息が薄暗い部屋に妙に大きく響いた。
「あの子が目の前に現れた時、迷惑だと思った。せっかく普通の、静かな生活を手に入れようとしていたのに、どうして僕を逃がしてくれないんだと腹が立ったよ。でも、同時にもう逃げられないことも分かった」
まとまりもなく垂れ流される医者の話は、不快極まりなかった。
こいつは何を女々しくごちゃごちゃと言っているんだ?
独り言なら部屋に戻って鏡の前でやれ。
そう怒鳴りたかったのに、声は出なかった。代わりに何故か、よく見知った顔が脳裏をよぎった。怒ったりふくれっ面をしたり拗ねたり、ごくたまに笑ったりする女の子。
今ごろどうしているだろうか。あのあと、怪我なんてしなかっただろうか。
俺が今からすることに対して、あいつはどんな風に感じるだろう。
「彼女は君のことが気に入ったようだ。傍にいて、守ってくれ」
「そんな必要があるか? お前の話だと、レオって奴はサンドラのことが好きなんだろう」
俺の言葉に医者は苦笑した。
「確かにレオはサンドラを愛しているよ。だからこそ本気で殺したいと思ってるんだ、そういう男なのさ」
「イカれてるな」
「ああ。マフィアなんてそういう奴らの集まりだよ。僕ではとても太刀打ちできない。……しょせん、普通の人間だからね。――雲竜組に頼むつもりだったけど、君が引き受けてくれてよかった」
「情けない男だ」
立ち上がって背を向けた医者に、気がついたら勝手に言葉が飛び出していた。
「惚れた女くらいてめぇの手で守れないのかよ」
普段ならこんなことは絶対に言わない。でも俺は、多分ものすごく疲れていた。
そして、助けられたとはいえ、雲竜組を――お嬢を盾に動かされたことがどうしても気に食わなかった。
医者は驚いたように振り返った。目が合う。
「――これが僕の守り方だ。どんな手を使っても、必ずあの子を守る。たとえ、自分のものにならなくても」
静かな色の瞳の奥に激怒の炎がちらついた。医者も怒っていた――おそらくは自分の無力さと、それから俺への嫉妬に。
俺たちは視線で相手を殺し、互いに顔をそむけた。
気に食わない奴だ、とドアが閉まる音を聞きながら俺は思った。
まるで自分を見ているようで、無性に腹が立った。
〇
どこかで子供が泣いている。
重苦しい夢の底で、俺は微かにその声を聞いた。
「朱虎! ねえ、朱虎ったら!……」
あいつの声だ。ほとんど泣いているようなその声が、まどろみかけている俺をしきりにゆすぶった。
ああ、面倒くさい。でも起きないと、あとで余計に面倒なことになる。
反射的にそう考えた頭の隅で、「これは夢だ」と冷静な自分が言った。
ここはマフィアの船の底で、俺は八割がた死にかけている。
俺がここに居ることなんて知らないはずのお嬢が来るはずがない。
「……何で全部、一人で抱え込んじゃうのよ! だからこんなことになっちゃうんでしょ! ちゃんと話しなさいよ!!」
夢の中でもこいつは怒っている。もう少し可愛らしいところを切り取って出てきてほしい。おそらくは、これが最後の夢なのだから。
「起きてよ……あんたが起きないと、あたし達ここで死んじゃうんだから」
それにしても、結局最後に出てくるのはこいつなのか。俺も医者のことを笑えない。
一人の女に、しかも妹と言ってもいいくらいの子どもに嫌になるほど縛られている。
「……朱虎の、バカッ」
またそれか。
あんたいつもそればっかりだ。
うっすらとぼやけた視界に、不意に見慣れた顔が浮かんだ。びっくりしたような丸い瞳がこちらを見ているようだ。
ずいぶん鮮明に見えるもんだ。そう思うと、なんだかおかしくなってきた。
く、く、と笑い声が漏れると、お嬢の目がますます丸くなった。
「あのね、朱虎っ! あたしはねっ、……あたしは、」
大きな目から不意に涙がこぼれた。ボロボロと、声もなくお嬢が泣く。
これは酷い。俺は腹が立った。
何で最後の最後で泣き顔なんだ? よりによって、俺が一番苦手な顔だ。
「……志麻」
ムカムカする。俺は手を伸ばして泣いているお嬢を引き寄せた。そのまま、ほとんど噛みつくように唇をふさぐ。
その時初めて、俺は自分がずっとこうしたかったことに気が付いた。
医者の言葉がよみがえる。
『レオはサンドラを愛しているよ。だからこそ本気で殺したいと思ってるんだ、そういう男なのさ。――マフィアなんて、そんな奴らの集まりだ』
マフィアもヤクザも似たようなものだ。
この子を傷つける全てのものから守りたいと思っていたはずなのに、同時に自分こそが彼女に一番深い傷をつけてやりたいと願う。そんな俺は、レオの気持ちがよく分かるクソ野郎だ。
腹の中で自嘲して、俺はさらに深く食らいついた。手荒く容赦のないキスは、ほとんど捕食行為に近い。
「ん、んんっ……」
抵抗するように俺の胸を押していた腕が、ふと体に回った。そのまま、ぎゅっとしがみついてくる。
「……好き」
熱に浮かされたような声が息継ぎの合間に囁いた。回された手が優しく俺の背を撫でさする。
「大好き……」
俺を許すなよ。あんたに、こんなに酷いことをしているのに。
全く、都合のいい夢だ。
もう一度笑い出したくなった時、不意に耳をつんざくようなけたたましい音と揺れが襲ってきた。
「きゃっ!」
お嬢が俺の体に転がり込んでくる。とたんに鋭い痛みが全身を駆け巡り、俺は思わずうめき声を漏らした。
「あっ、ごめん! 痛かった!?」
「いや……ええ」
……いや、待て。
何だ今のは。
「怪我、酷いの? 立てるかな……」
俺はこちらを覗き込んでくる顔をまじまじと見つめた。
「……志麻?」
「は、はいっ」
「お嬢……ですか?」
「う、うん」
思わず飛び起きると、またしても全身に痛みが走る。
「朱虎!? 大丈夫?」
心配そうにのぞき込んでくるお嬢は、信じがたいことに本物だ。
「なんで」
「え」
「……何でここにいるんですかっ、あんた!!」
最悪だ。何もかも無茶苦茶だ。
何でこいつがここに居る?
俺の今までの苦労は全部水の泡ってことか?
いや、もっと悪い。このままだとこいつは俺と一緒にお陀仏だ。組にだって迷惑がかかる。
「迷惑なんかどうでもいい!!」
それなのにお嬢は俺の胸倉を掴んで、怒鳴りつけてきた。
「バカ、朱虎のバカッ! 何でわかんないの!? 自分ひとりで背負い込んで、おじいちゃんやみんなや、あたしの気持ちはどうなるのよ!!」
「なっ……」
「みんな朱虎のことがすごく大事なの!! 辛い目に遭ってるんじゃないかとか、脅されたんじゃないかってさんざん心配してたの!!」
こんなところで怒鳴り合ってる場合じゃない。
それは分かっていたのに、俺は阿呆みたいに間抜けな顔でお嬢を見つめることしかできなかった。
「てっきり朱虎が捕まって酷い目に遭ってるんじゃないかって心配で心配で……それなのにあんたはサンドラといちゃついてるし!……すっごく辛かったけど朱虎が幸せならそれでいいって思ったのに!! それなのに、こんなボロボロで、……バカ! バカバカバカ、朱虎のバカっ!」
俺を睨んで怒鳴るお嬢は、顔を真っ赤にしてボロボロと泣いている。
「これ以上あたしの朱虎をいじめたら、いくら朱虎だって絶対許さないんだから! バカーッ!」
ああ、駄目だ。逃げ切れない。
志麻の目に映る自分自身がそう宣告してきた。
目を背けて逃げてごまかして、それでもこいつから逃げることはできなかった。
こうなったら否が応でも自覚せざるを得ない。
俺はこの女がどうしても欲しい。俺のものにしたい。
誰にも渡したくないんだ、最初っから。
抱き寄せるより早く、志麻が俺の胸に飛び込んできた。しゃくりあげながらぎゅっと抱き着いてくる。柔らかな体がぴったりと押し付けられた。
「……すみません」
さっぱりと死ぬつもりだった。けれど、まだやらなければならないことがある。
「あなたを必ず、オヤジのもとに帰しますから」
今まで逃げてきたことに、きちんとけじめをつける――それまでは絶対に死ぬわけにはいかない。
俺は志麻を抱く腕に力を込めた。
※次回は本編完結後の、ミカ視点のお話です!
読まなくても、本編には全く支障ありません!
「一番大事なところの朱虎視点抜けてたなあ」と思い追記しました。
よろしければどうぞ……。
手酷く痛めつけられている自分を、俺はどこか他人事のように感じていた。
痛みを感じないようにするのはそんなに難しいことじゃない。殴ったり殴られたりするのは昔からお手の物だ。
とはいえ、こんな風に薄暗くて狭い船底で、マフィアどもに殴り殺される羽目になるなんてひと月前には想像もしていなかった。
どこで間違えた?
あの刑事を倉庫に呼び出したことだろうか。
それとも、マフィアとの銃撃戦になった時にとっととお嬢を連れて逃げなかったことか。
撃たれて気を失って――船の中で目覚めた時、あの医者の口車に乗っちまったことか。
オヤジに電話で組を抜けると伝えて、激怒させたことか。
「……へっ」
知らず知らずのうちに、苦笑がこぼれた。
どれも、その時はそれが最善だと思ってやった。
ということは、ここでこうやってサンドバッグになってる未来はどう転んでも逃れられなかったってわけだ。
俺のような男には似合いの最後なのかもしれない。
死ぬ覚悟が決まってなかったわけじゃない。ヤクザなんてものをやってる以上、いつ死んでもおかしくはない。
ふと、頼りなげにこっちを見た医者の眼差しが浮かんだ。
多分、俺が間違えたのはあそこだ。マフィアどもが踏み込んできた時、あそこは医者を見捨てて自分が逃げるべきだった。そうすれば、サンドラを助けられる可能性がかなり上がっていたはずだ。それなのに俺はなぜか、自分が囮になってあの医者を逃がしてしまった。
「サンドラのことは迷惑なんだ」
マフィアが踏み込む直前に聞いた医者の声が妙にくっきりとよみがえる。
「本当に迷惑だ。今更……目の前に現れるなんて……」
ひときわ大きな衝撃が襲ってきて、俺の意識は途切れた。
〇
「『サンドラと何度寝たんだ、東のネズミ野郎』とレオに言われたのは、母の葬式の時だったよ」
椅子に腰掛けた医者は、穏やかな表情で言った。
「母が亡くなった時、サンドラは8歳だったよ。まあ、そのころからすでに美人ではあったけど。そして、僕のことをとても愛してくれていた。そのことにレオは酷く神経をとがらせていたんだ」
俺はベッドで黙って話を聞いていた。少しでも体を動かすと、ふさがれたばかりの傷が痛む。
「あの頃からレオはサンドラに異常なほど執着していた。だから彼は、母が亡くなるとすぐに僕を追い出しにかかった。僕は母の葬式が終わるか終わらないかのうちに、ほとんど逃げ出すようにしてイタリアを出て行ったよ。サンドラにろくな挨拶も出来なかった」
「とんだ腰抜けだな」
俺の言葉に医者は怒るでもなく笑った。
「確かに。でも、本当に怖かったのは自分自身だった。……あの子を愛していた。それは兄として、というつもりだったけど……少しずつ違うものになりつつあった。だから僕は、すべてを置き去りにして逃げたんだ。それで終わりのはずだった……」
医者のため息が薄暗い部屋に妙に大きく響いた。
「あの子が目の前に現れた時、迷惑だと思った。せっかく普通の、静かな生活を手に入れようとしていたのに、どうして僕を逃がしてくれないんだと腹が立ったよ。でも、同時にもう逃げられないことも分かった」
まとまりもなく垂れ流される医者の話は、不快極まりなかった。
こいつは何を女々しくごちゃごちゃと言っているんだ?
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そう怒鳴りたかったのに、声は出なかった。代わりに何故か、よく見知った顔が脳裏をよぎった。怒ったりふくれっ面をしたり拗ねたり、ごくたまに笑ったりする女の子。
今ごろどうしているだろうか。あのあと、怪我なんてしなかっただろうか。
俺が今からすることに対して、あいつはどんな風に感じるだろう。
「彼女は君のことが気に入ったようだ。傍にいて、守ってくれ」
「そんな必要があるか? お前の話だと、レオって奴はサンドラのことが好きなんだろう」
俺の言葉に医者は苦笑した。
「確かにレオはサンドラを愛しているよ。だからこそ本気で殺したいと思ってるんだ、そういう男なのさ」
「イカれてるな」
「ああ。マフィアなんてそういう奴らの集まりだよ。僕ではとても太刀打ちできない。……しょせん、普通の人間だからね。――雲竜組に頼むつもりだったけど、君が引き受けてくれてよかった」
「情けない男だ」
立ち上がって背を向けた医者に、気がついたら勝手に言葉が飛び出していた。
「惚れた女くらいてめぇの手で守れないのかよ」
普段ならこんなことは絶対に言わない。でも俺は、多分ものすごく疲れていた。
そして、助けられたとはいえ、雲竜組を――お嬢を盾に動かされたことがどうしても気に食わなかった。
医者は驚いたように振り返った。目が合う。
「――これが僕の守り方だ。どんな手を使っても、必ずあの子を守る。たとえ、自分のものにならなくても」
静かな色の瞳の奥に激怒の炎がちらついた。医者も怒っていた――おそらくは自分の無力さと、それから俺への嫉妬に。
俺たちは視線で相手を殺し、互いに顔をそむけた。
気に食わない奴だ、とドアが閉まる音を聞きながら俺は思った。
まるで自分を見ているようで、無性に腹が立った。
〇
どこかで子供が泣いている。
重苦しい夢の底で、俺は微かにその声を聞いた。
「朱虎! ねえ、朱虎ったら!……」
あいつの声だ。ほとんど泣いているようなその声が、まどろみかけている俺をしきりにゆすぶった。
ああ、面倒くさい。でも起きないと、あとで余計に面倒なことになる。
反射的にそう考えた頭の隅で、「これは夢だ」と冷静な自分が言った。
ここはマフィアの船の底で、俺は八割がた死にかけている。
俺がここに居ることなんて知らないはずのお嬢が来るはずがない。
「……何で全部、一人で抱え込んじゃうのよ! だからこんなことになっちゃうんでしょ! ちゃんと話しなさいよ!!」
夢の中でもこいつは怒っている。もう少し可愛らしいところを切り取って出てきてほしい。おそらくは、これが最後の夢なのだから。
「起きてよ……あんたが起きないと、あたし達ここで死んじゃうんだから」
それにしても、結局最後に出てくるのはこいつなのか。俺も医者のことを笑えない。
一人の女に、しかも妹と言ってもいいくらいの子どもに嫌になるほど縛られている。
「……朱虎の、バカッ」
またそれか。
あんたいつもそればっかりだ。
うっすらとぼやけた視界に、不意に見慣れた顔が浮かんだ。びっくりしたような丸い瞳がこちらを見ているようだ。
ずいぶん鮮明に見えるもんだ。そう思うと、なんだかおかしくなってきた。
く、く、と笑い声が漏れると、お嬢の目がますます丸くなった。
「あのね、朱虎っ! あたしはねっ、……あたしは、」
大きな目から不意に涙がこぼれた。ボロボロと、声もなくお嬢が泣く。
これは酷い。俺は腹が立った。
何で最後の最後で泣き顔なんだ? よりによって、俺が一番苦手な顔だ。
「……志麻」
ムカムカする。俺は手を伸ばして泣いているお嬢を引き寄せた。そのまま、ほとんど噛みつくように唇をふさぐ。
その時初めて、俺は自分がずっとこうしたかったことに気が付いた。
医者の言葉がよみがえる。
『レオはサンドラを愛しているよ。だからこそ本気で殺したいと思ってるんだ、そういう男なのさ。――マフィアなんて、そんな奴らの集まりだ』
マフィアもヤクザも似たようなものだ。
この子を傷つける全てのものから守りたいと思っていたはずなのに、同時に自分こそが彼女に一番深い傷をつけてやりたいと願う。そんな俺は、レオの気持ちがよく分かるクソ野郎だ。
腹の中で自嘲して、俺はさらに深く食らいついた。手荒く容赦のないキスは、ほとんど捕食行為に近い。
「ん、んんっ……」
抵抗するように俺の胸を押していた腕が、ふと体に回った。そのまま、ぎゅっとしがみついてくる。
「……好き」
熱に浮かされたような声が息継ぎの合間に囁いた。回された手が優しく俺の背を撫でさする。
「大好き……」
俺を許すなよ。あんたに、こんなに酷いことをしているのに。
全く、都合のいい夢だ。
もう一度笑い出したくなった時、不意に耳をつんざくようなけたたましい音と揺れが襲ってきた。
「きゃっ!」
お嬢が俺の体に転がり込んでくる。とたんに鋭い痛みが全身を駆け巡り、俺は思わずうめき声を漏らした。
「あっ、ごめん! 痛かった!?」
「いや……ええ」
……いや、待て。
何だ今のは。
「怪我、酷いの? 立てるかな……」
俺はこちらを覗き込んでくる顔をまじまじと見つめた。
「……志麻?」
「は、はいっ」
「お嬢……ですか?」
「う、うん」
思わず飛び起きると、またしても全身に痛みが走る。
「朱虎!? 大丈夫?」
心配そうにのぞき込んでくるお嬢は、信じがたいことに本物だ。
「なんで」
「え」
「……何でここにいるんですかっ、あんた!!」
最悪だ。何もかも無茶苦茶だ。
何でこいつがここに居る?
俺の今までの苦労は全部水の泡ってことか?
いや、もっと悪い。このままだとこいつは俺と一緒にお陀仏だ。組にだって迷惑がかかる。
「迷惑なんかどうでもいい!!」
それなのにお嬢は俺の胸倉を掴んで、怒鳴りつけてきた。
「バカ、朱虎のバカッ! 何でわかんないの!? 自分ひとりで背負い込んで、おじいちゃんやみんなや、あたしの気持ちはどうなるのよ!!」
「なっ……」
「みんな朱虎のことがすごく大事なの!! 辛い目に遭ってるんじゃないかとか、脅されたんじゃないかってさんざん心配してたの!!」
こんなところで怒鳴り合ってる場合じゃない。
それは分かっていたのに、俺は阿呆みたいに間抜けな顔でお嬢を見つめることしかできなかった。
「てっきり朱虎が捕まって酷い目に遭ってるんじゃないかって心配で心配で……それなのにあんたはサンドラといちゃついてるし!……すっごく辛かったけど朱虎が幸せならそれでいいって思ったのに!! それなのに、こんなボロボロで、……バカ! バカバカバカ、朱虎のバカっ!」
俺を睨んで怒鳴るお嬢は、顔を真っ赤にしてボロボロと泣いている。
「これ以上あたしの朱虎をいじめたら、いくら朱虎だって絶対許さないんだから! バカーッ!」
ああ、駄目だ。逃げ切れない。
志麻の目に映る自分自身がそう宣告してきた。
目を背けて逃げてごまかして、それでもこいつから逃げることはできなかった。
こうなったら否が応でも自覚せざるを得ない。
俺はこの女がどうしても欲しい。俺のものにしたい。
誰にも渡したくないんだ、最初っから。
抱き寄せるより早く、志麻が俺の胸に飛び込んできた。しゃくりあげながらぎゅっと抱き着いてくる。柔らかな体がぴったりと押し付けられた。
「……すみません」
さっぱりと死ぬつもりだった。けれど、まだやらなければならないことがある。
「あなたを必ず、オヤジのもとに帰しますから」
今まで逃げてきたことに、きちんとけじめをつける――それまでは絶対に死ぬわけにはいかない。
俺は志麻を抱く腕に力を込めた。
※次回は本編完結後の、ミカ視点のお話です!
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