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78. だっせえヤツ
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「ウソ、ヤバっ……」
あたしは慌ててマスクを直しながら振り返った。
階段を下りてきたのはイタリア人(多分)の男の人だった。朱虎よりもう一回り縦にも横にも大きい。船内にたくさんいる黒スーツと違って派手なシャツを着崩したラフな格好で、逆立てた金髪がまるでタテガミみたいだった。
鋭い目つきで周囲を威圧する雰囲気は、明らかにマフィアだ。しかも、多分わりと偉い人っぽい。
金髪マフィアは咥え煙草のまま、廊下の真ん中をずんずんと歩いてきた。ミカが慌ててカートを壁際に引き寄せて道を空ける。あたしも壁際に寄ると、視線を合わせないように軽くうつむいた。
こういう人たちにとって清掃員なんて置物か背景と同じだ。とにかく無難にやり過ごそう。
ひたすらじゅうたんを見つめる視界を靴のつま先がよぎった時、不意に隣でミカが飛び上がった。
「あ、熱ッ……!」
「えっ!?」
びっくりして顔を上げると、ミカが顔を押さえて悶えていた。その足元に、火のついたままの煙草が転がって薄く煙を上げている。
状況を理解するのに少しかかった。分かった瞬間、カッと頭が熱くなった。
「……ちょっと!」
考える前に声が出ていた。ミカがぎょっと顔を上げる。
「火のついたタバコぶつけるなんて、何考えてるのっ!?」
叫んだあとで後悔した。遅い。
マフィアが足を止めた。ゆっくりと振り向く。
赤い瞳と目が合った瞬間、うなじがチリッと逆立った。
ダメだ、マズい。
叫んじゃったのものもまずいけど、この人――この目は、本当にヤバい。絶対にかかわっちゃいけない類の人種だ。
脳内アラートが一気に鳴り響いている。それでも、一度合ってしまった目はそらせない。
あたしの視線の先でマフィアは軽く眉を顰め――次の瞬間、あたしの胸元を掴んで引きずり寄せた。
「きゃっ……!」
「何だお前」
至近距離で囁かれた流暢な日本語に驚く間もなく、あたしはそのまま壁にたたきつけられた。
「あぐっ……!」
思わずこぼれた悲鳴が途中で潰れた。背中から走った衝撃に目がくらみ、チカチカと火花が散る。
そのまま片腕一本で壁に縫い止られ、あたしは喘いだ。胸が押し潰されて息ができない。
「今のはなんだ? まさか俺に言ったのか?」
赤い目が、まるで虫でも見るような目つきでこちらを見ている。荒々しい暴力を奮ってるのに声音はあくまでも冷静で、そのギャップに全身が冷えた。
もがいてもマフィアの腕はびくともしない。容赦なく締め上げられて、胸元でブチブチと服が千切れる音がした。
「……っ、……」
苦しい。
視界が赤くかすむ。
駄目だ、もう――
「まことにすみませんでしたっ!」
廊下に響き渡った大声が、ぼやけかけた意識を引き戻した。
マフィアの足元で、掃除道具を放り出したミカが土下座している。
「お客様への大変失礼な言動、申し訳ありませんっ! そいつ、入りたての新人なんです! 僕の教育不足です、よく言って聞かせますのでどうか許してください!」
ミカは額を床にこすりつけたまま叫んだ。
「責任は僕がとりますので、放してやってください! お願いします!」
マフィアは目を細めた。ミカの目の前に、片足をぬっと踏み出す。
「舐めろ」
短く投げられた言葉にミカの肩が小さく跳ねた。
「舐めて綺麗にしろよ。それがお前らの仕事だろうが」
「ミ……ッ」
叫びたいのに声が出ない。
ダメ。やめて。
お願いだから。
「……はい! 分かりましたっ!」
ミカが靴に顔を寄せる。あたしは思わず目を閉じた。
永遠みたいに長い時間が過ぎた後で、クッ、と喉にこもるような笑い声がした。
「顔を上げろ。チップをくれてやる」
次の瞬間、鈍い音とくぐもったうめき声が聞こえた。続いてあたしの体が無造作に放り出される。
チッ、と舌打ちが降ってきた。
「靴を汚しやがって。――そこ、掃除しておけよ」
足音が大股で去っていく。あたしは咳き込みながら、何とか体を起こした。
「……み、ミカッ」
ミカは口元を押さえて転がっていた。慌てて這いずって近寄る。
「ミカッ……大丈夫!?」
「……おー、なんとかな」
ほっとしかけたあたしは、顔を押さえた指の間からぼたぼたと血が滴っているのを見て悲鳴を上げかけた。
「ミカ、血……血が出てるっ」
「あ、鼻血鼻血。あいつ、おもっくそ顔面蹴りやがってさ。何がチップだっつーの……」
「やだ、止まらない! 何か、拭くものっ」
カートからシーツを引っ張り出して、ミカの顔に押し当てる。「でけーよ」と呟くミカの口元からシーツは見る見るうちに赤く染まっていった。
「ごめんミカ、あたしのせいで、ごめん」
「や……俺こういうの慣れてるし。言ったろ? ボコられ役だって」
「でも」
あたしは馬鹿だ。あんなに風間君に言われたのに考えなしに怒鳴って、その結果がこれだ。
「……ごめん」
「いいよ。……それよりさ、あんたもう行けよ」
あたしははじかれたように顔を上げた。
「何言ってんの!? 手当しないと」
「そんなの自分でやれるって」
「ミカ置いて行けるわけないじゃない! あたしのせいなのに、そんな」
「時間ねえって言ってたろ、あんたの後輩も」
シーツで顔を覆ったまま、ミカはあたしの言葉を遮って手を振った。
「俺、血ィ止まるまでその辺の空き部屋に潜り込んでっから。行けよ」
「でも」
「行ってくれよ!」
不意にミカが怒鳴った。思わず息をのむと、ミカは壁に手をついて立ち上がった。ふらふらとドアへ向かう。
「これであんたが不破さんに会えなかったら、俺、アホみてーだろ。……行けよ」
丸まった背中が細かく震えている。
あたしはぎゅっと唇をかんだ。
「……分かった。後で迎えに来るから」
背中に向かって言うと、あたしは踵を返して走り出した。
「……はっ。俺って、マジでだっせえ……」
あたしは慌ててマスクを直しながら振り返った。
階段を下りてきたのはイタリア人(多分)の男の人だった。朱虎よりもう一回り縦にも横にも大きい。船内にたくさんいる黒スーツと違って派手なシャツを着崩したラフな格好で、逆立てた金髪がまるでタテガミみたいだった。
鋭い目つきで周囲を威圧する雰囲気は、明らかにマフィアだ。しかも、多分わりと偉い人っぽい。
金髪マフィアは咥え煙草のまま、廊下の真ん中をずんずんと歩いてきた。ミカが慌ててカートを壁際に引き寄せて道を空ける。あたしも壁際に寄ると、視線を合わせないように軽くうつむいた。
こういう人たちにとって清掃員なんて置物か背景と同じだ。とにかく無難にやり過ごそう。
ひたすらじゅうたんを見つめる視界を靴のつま先がよぎった時、不意に隣でミカが飛び上がった。
「あ、熱ッ……!」
「えっ!?」
びっくりして顔を上げると、ミカが顔を押さえて悶えていた。その足元に、火のついたままの煙草が転がって薄く煙を上げている。
状況を理解するのに少しかかった。分かった瞬間、カッと頭が熱くなった。
「……ちょっと!」
考える前に声が出ていた。ミカがぎょっと顔を上げる。
「火のついたタバコぶつけるなんて、何考えてるのっ!?」
叫んだあとで後悔した。遅い。
マフィアが足を止めた。ゆっくりと振り向く。
赤い瞳と目が合った瞬間、うなじがチリッと逆立った。
ダメだ、マズい。
叫んじゃったのものもまずいけど、この人――この目は、本当にヤバい。絶対にかかわっちゃいけない類の人種だ。
脳内アラートが一気に鳴り響いている。それでも、一度合ってしまった目はそらせない。
あたしの視線の先でマフィアは軽く眉を顰め――次の瞬間、あたしの胸元を掴んで引きずり寄せた。
「きゃっ……!」
「何だお前」
至近距離で囁かれた流暢な日本語に驚く間もなく、あたしはそのまま壁にたたきつけられた。
「あぐっ……!」
思わずこぼれた悲鳴が途中で潰れた。背中から走った衝撃に目がくらみ、チカチカと火花が散る。
そのまま片腕一本で壁に縫い止られ、あたしは喘いだ。胸が押し潰されて息ができない。
「今のはなんだ? まさか俺に言ったのか?」
赤い目が、まるで虫でも見るような目つきでこちらを見ている。荒々しい暴力を奮ってるのに声音はあくまでも冷静で、そのギャップに全身が冷えた。
もがいてもマフィアの腕はびくともしない。容赦なく締め上げられて、胸元でブチブチと服が千切れる音がした。
「……っ、……」
苦しい。
視界が赤くかすむ。
駄目だ、もう――
「まことにすみませんでしたっ!」
廊下に響き渡った大声が、ぼやけかけた意識を引き戻した。
マフィアの足元で、掃除道具を放り出したミカが土下座している。
「お客様への大変失礼な言動、申し訳ありませんっ! そいつ、入りたての新人なんです! 僕の教育不足です、よく言って聞かせますのでどうか許してください!」
ミカは額を床にこすりつけたまま叫んだ。
「責任は僕がとりますので、放してやってください! お願いします!」
マフィアは目を細めた。ミカの目の前に、片足をぬっと踏み出す。
「舐めろ」
短く投げられた言葉にミカの肩が小さく跳ねた。
「舐めて綺麗にしろよ。それがお前らの仕事だろうが」
「ミ……ッ」
叫びたいのに声が出ない。
ダメ。やめて。
お願いだから。
「……はい! 分かりましたっ!」
ミカが靴に顔を寄せる。あたしは思わず目を閉じた。
永遠みたいに長い時間が過ぎた後で、クッ、と喉にこもるような笑い声がした。
「顔を上げろ。チップをくれてやる」
次の瞬間、鈍い音とくぐもったうめき声が聞こえた。続いてあたしの体が無造作に放り出される。
チッ、と舌打ちが降ってきた。
「靴を汚しやがって。――そこ、掃除しておけよ」
足音が大股で去っていく。あたしは咳き込みながら、何とか体を起こした。
「……み、ミカッ」
ミカは口元を押さえて転がっていた。慌てて這いずって近寄る。
「ミカッ……大丈夫!?」
「……おー、なんとかな」
ほっとしかけたあたしは、顔を押さえた指の間からぼたぼたと血が滴っているのを見て悲鳴を上げかけた。
「ミカ、血……血が出てるっ」
「あ、鼻血鼻血。あいつ、おもっくそ顔面蹴りやがってさ。何がチップだっつーの……」
「やだ、止まらない! 何か、拭くものっ」
カートからシーツを引っ張り出して、ミカの顔に押し当てる。「でけーよ」と呟くミカの口元からシーツは見る見るうちに赤く染まっていった。
「ごめんミカ、あたしのせいで、ごめん」
「や……俺こういうの慣れてるし。言ったろ? ボコられ役だって」
「でも」
あたしは馬鹿だ。あんなに風間君に言われたのに考えなしに怒鳴って、その結果がこれだ。
「……ごめん」
「いいよ。……それよりさ、あんたもう行けよ」
あたしははじかれたように顔を上げた。
「何言ってんの!? 手当しないと」
「そんなの自分でやれるって」
「ミカ置いて行けるわけないじゃない! あたしのせいなのに、そんな」
「時間ねえって言ってたろ、あんたの後輩も」
シーツで顔を覆ったまま、ミカはあたしの言葉を遮って手を振った。
「俺、血ィ止まるまでその辺の空き部屋に潜り込んでっから。行けよ」
「でも」
「行ってくれよ!」
不意にミカが怒鳴った。思わず息をのむと、ミカは壁に手をついて立ち上がった。ふらふらとドアへ向かう。
「これであんたが不破さんに会えなかったら、俺、アホみてーだろ。……行けよ」
丸まった背中が細かく震えている。
あたしはぎゅっと唇をかんだ。
「……分かった。後で迎えに来るから」
背中に向かって言うと、あたしは踵を返して走り出した。
「……はっ。俺って、マジでだっせえ……」
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