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ラッコの刺青

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彼等には刻まれていたという。


おぞましい魔獣の刺青が…。


「ラッコの刺青」


潔癖症の貝泥棒


―冷たい部屋―


汚れを怖れる男、


何もない部屋がお気に入り、


二人より一人の方が楽、


嫌いなのは、貝と鏡、


―潔癖症の男―


「ある男」がいた。


その男は、汚れに敏感だった。


治せない病を抱えて産まれてきたから、汚れに気づけば、掃き掃除、拭き掃除の毎日。


そうしていなければ、手や脚がふるえた。


汚れを放置する者の気が知れなかった。


家の中。


男が身体を拭いて出てくると、家のどこかで色んな音がした。


物をどかす音。


掃き掃除の音。


拭き掃除の音。


母親が床を掃除した後には、いつも濡れたホコリが残っていた。


眼と段取りが悪い。


しばらくして、父親が家に帰ってきた。


父親は仕事に疲れてそのまま床へと寝転がり、なかなか身体を洗わなかった。


次に姉が帰ってきた。


姉の中は、開けばどす黒い。


あの汚れには触れたくなかった。


向こうにいる弟など、ホコリだ。


あんな汚れを放置する家族が気に食わない。


前の女もそうだった。


あの女は掃除が下手で、いつも足裏が汚れていた。


だから、いつも女が掃除した後を二三度掃除した。


「最低」と言われて泣かれたが、気にしない。

 
掃除下手の方が悪い。


男は、要らないものを捨てようと考えた。


だが、家族は捨てれない。


男は、自分の部屋を綺麗に掃除してから、実家から出ていった。


―長い休みと仕事さがし―


「今日から長い休み」


男は、そう呟いて、寂しい家の中にいた。


噂では、どこかの神経質が、口うるさい客と、衛生面の事でもめたらしい。


だから、あの仕事場には行きたくないし、不潔だ。


男は、長い休みを利用して、足音とホコリだらけの町へと出掛けた。


男がしばらく歩いていると、ヒビだらけの壁に「張り紙屋」が貼った求人の張り紙が見えた。


「精肉店」に「理髪店」


理髪店は、ただの宣伝のようだ。


だが、これが例え理髪店の求人でも、この男ならば行かない。


他人の毛が床に散らかる場所で仕事なんて不快だし、あれは手が荒れる。


血生臭い精肉店など論外だ。


ああ、想像するだけで脳の中が汚れる。


男は、他の張り紙を見る事にした。


そこには、こう書かれていた。


「宝石店・売るのは輝き」と。


男が、他の張り紙を見ようとすると、誰かが後ろで呟いた。


「生きる事とは、汚れる事」


男が振り返ると、そこには「黒いローブの男」が立っていた。


黒いローブの男は、男へ「分厚い本」を差し出しながら言った。


「汚れたくないのであれば、この分厚い本を読み解き、汚れの正体を知った上で掃除をすればいい、掃除は得意であろう」



―不幸な兄―


男は、黒いローブの男から分厚い本を受け取った。


そして、汚れない方法を探そうと分厚い本を開いた。


そこには「ラッコの刺青」と、黒文字で書かれていた。


男は、ある文章を黙読する。


「その兄は潔癖症、


流れ続ける透き通るお水がお気に入り、


汚れが嫌いだから、水面は見ない、


だから沈んでいく、


自分の輝きを代償に」


男は、そこで分厚い本を閉じた。


そして考える。


輝きを代償にとは、つまり「汚れる」ということ。


汚れる事が、汚れの正体を知る事に繋がるのだ…


だが、不快だった。


男は、分厚い本を黒いローブの男へ返すと、先程から気になっていた張り紙をもう一度見た。


「宝石店・売るのは輝き」


今は仕事探しが優先だ。


男は、その宝石店の張り紙を壁から剥がすと、張り紙に書かれていた地図を頼りに、バツ印の付けられた場所へと向かった。


黒いローブの男は、無表情で分厚い本を閉じた。


そして呟いた。


「厄介な汚れだ」と。


―裏路地にある宝石店―


裏路地に入ると、店らしきものに入っていく中年女の姿が見えた。


男は、それを追うようにして店の前に立つと、また地図を見た。


ここだ。


男は店の扉を開いた。


宝石店へ入ると、顔立ちのよい男性店員が作った笑顔で迎えてくれた。


店の中に、先程の女の姿はない。


男は、奥の部屋へと案内された。


その部屋のテーブルには、灯りの消えた燭台が見えた。


男性店員は、男の容姿を確認した上で、仕事内容について説明すると、男へ契約書を手渡した。 


男は、受け取った契約書に書かれていた報酬額を見て驚いた。

 
多額だ。


男は、その夜から働いた。


―商談―


男は、客を蝋燭の灯る部屋へと案内した。


はじめの客は婦人だった。


男と婦人は、赤いソファーに隣同士に腰掛けると、テーブルに用意されていた不思議な色のワインで乾杯して、商談を始めた。


男は、男性店員から受けた指導を思い出しながら、宝石の入った黒いケースを目の前のテーブルの上に置いて、ゆっくりと開いた。


まるで、「人魚を閉じ込めた貝」だ。


婦人は、その高価な宝石を見て、頬を赤らめていた。


婦人は、言う。


この銀色の輝きは、この宝石店一番の星。


けれど、やがては消える石ころ。


男のふるえる手は、婦人の手で覆われた。


婦人は、男の耳元で囁いた。


「頂くわ」と。


宝石は高価で売れた。


「その輝きを代償に」


―輝きを売る―


男の手足がふるえていた。


天井のシミが、男のことを見下していた。


上下する頭部に。


のみこまれる自分。


だが、それを拒むことは出来ない。


あの契約書に指印を押したから。


男は、その宝石店で働いた。


病に耐えながら、色気付いた石ころを高価で売り、何人ものの客を騙して、時には誰かを泣かせた。


その間も、自分の心や身体は汚れた。


これでは、「あの姉」と何も変わらない。


やはり、同じ血が流れていた。


男は、最後の男性客を床へと突き飛ばすと、宝石の入ったケースを抱えたまま、あてもなく走り、遠回りして「実家」へと帰った。


―家族―


家では、あの家族が男の帰りを待っていた。


男は、両親に悪い商売に手を貸したとだけ伝えた。


男娼や、詐欺を働いた事、
 

宝石ケースを持ち逃げしたことは言わなかった。


だから、隠し事をしていると疑われ、少しだけ叱られた。


だが、どちらも「心優しい両親」


いつだって味方で、それ以上は訊かなかった。


男は、涙が出そうになった。


体調が悪そうなふりをして自分の部屋へと向かった。


部屋はあの時のままだった。


なぜか「嬉しかった」


男は、自分の部屋を掃除しながら、あの宝石の入ったケースをベッドの下にある引き出しの中へと隠した。


―黒い宝石ケース―


それから数日が経った。


男が、いつものように自分の部屋を掃除していると、ベッドの下にある引き出しが少し開いていた。


誰かに見られたのだろうか。


母親、父親、姉、それともアイツ。


男は、宝石の入ったケースを開いた。


そこには、男の人生を汚した石ころが綺麗に収まっていた。


「これこそが汚れの正体だ」


男は、宝石の入ったケースを閉じると、紙に「一番の汚れを捨ててくる」と書いて、テーブルに置き手紙をした。


―貝泥棒―


そこは、男が独り暮らしをした、あの寂しい家だった。


男は、家の中に入ると、その床に宝石の入ったケースを投げ捨てた。


これで厄介事は無くなる。


だが、違った。


男が、家から出ようとすると、家の外で見覚えのある男たちが待っていた。


宝石店の店員たちだ。


だが、今はただの強面の男…


はやく逃げなくては。


男が家の中へ引き返すが、薄い窓ガラスは簡単に叩き割られ、男は、強面の男たちに捕まった。


強面の男たちは、あの宝石の事を言っているようだが、今はそれどころではない。


首を羽交い締めにされて息が苦しいし、何よりも男に触られるのが嫌だ。


強面の男たちが下品に笑う。


「掃除は得意か」と。


男は、恐怖に眼を見開いた。 


そして、声は聞こえてきた。


【汚れを恐れる愚か者よ、輝きを代償に見つけたか、水面の鏡に映る汚れた自分を、


その汚れを綺麗にしたければ、


その神経質な自分を捨て去るのだ、


口を開いた貝の配置に注意しろ】


男は、口の開いた黒い宝石ケースを見つけて、絶叫をあげた。


汚れを怖れて人を傷付け、汚れに自由を奪われた男、


その鏡に映る上下する裸体には、ただ、漂うだけの「ラッコの刺青」が、冷たく刻まれているという…。


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