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アンデスイワドリ雌・アンデスイワドリ雄の刺青

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彼等には刻まれていたという。


おぞましい魔獣の刺青が…。


「アンデスイワドリの刺青・雌」


「アンデスイワドリの刺青・雄」


童話館の老婆姫と、見えない老王子


―空へと妄想―


空へとのぼって、やがて見えなくなる妄想、


それは、魔法の豆の木よりも、高く、


魔女の呪いよりも厄介。


優しい王子さまも、ただ、見上げるだけである。


―館の中―


ある女がいた。


その女の頭の中には、いつも、「童話の世界」が広がっていた。


幼い頃に、母親が読み聞かせてくれた「灰かぶり姫」や、「白雪姫」の物語が、この歳になっても、頭から離れないらしい…。


とくに、「幸せに暮らしました」という、あの終わりの言葉が好きだった。


童話の世界に入れたら、どんなに幸せだろうか、


女は、自分の妄想を、一冊の絵本にした。


入れないのであれば、気持ちだけでも、と、その中へ「妄想」を閉じ込めた。


女の描いた物語は、「現実と妄想」が入り交じる。


 幼稚な考えで描いた絵と文字は、深く、「答え」は存在しない。


けれども、その終わりは、いつだって「幸せ」だった。


女は、自分の描いた物語を何度も読み返していた。


―魔法にかかる前―


その女は、館のお嬢様で、両親は金持ちだった。


女は、童話館と呼ばれる館で、たくさんの絵本と共に暮らしていた。


女は、広い館のお掃除を灰かぶり姫のように行い、時には、食器棚やタンスとお喋りをしながら、小鳥を人差し指にとまらせ、高らかに、人魚の歌を歌った。


そして、眠る時には、糸車の針で指を刺して、床へと倒れて、死んだように眠った。


―それが彼女の「妄想の中での生活」だった。


だが、そんな妄想が叶うことはなかった。


両親や、使用人、「婚約者」が、しっかりとしなさい、と、女の行う、妄想の邪魔をした。


いつもいいところで現実へと引き戻されるのだ。


女は、ため息をついた。


けれども、信じていた。


いつの日か必ず、カボチャパンツの王子さまが、私のことを迎えに来る、と。


でも、その前に「優しい魔法使いかしら」と、女は、少女のようにクスクスと笑っていた。


だが、女の目の前に現れたのは、優しい魔法使いではなく、黒いローブを身に纏った「黒いローブの男」だった。


―黒い魔法使い―


「あなたは、だぁれ」と、お姫さまのように訊く女に、黒いローブの男は、魔法の杖ではなく、「分厚い本」を差し出して言った。


【童心を保ち続ける、後の醜い老婆姫よ、


いずれは解ける魔法をかけてやろう、


魔法は、妄想と現実のはざまから生まれる、


その手で、贅沢な現実を終わせるのだ、


そうすれば、お前はその中で幸せに暮らせる、


だが、忘れるな、その幸せは妄想の中にしか存在しない、


その魔法は、王子の口づけで解ける


その先は、お前の嫌う大人の世界である】


女は、黒いローブの男から、分厚い本を受け取ると、それを絵本だと思って開いた。


だが、そこに書かれているのが、文字だらけの「退屈な本」だと気付くと、顔を顰めて、分厚い本を床へと捨てた。


黒いローブの男は、無表情だった。


床で開かれたそのページには、「アンデスイワドリの刺青・雌」と、黒文字で書かれていた。


―魔法の中で―


黒いローブの男がいなくなると、女は、魔法にかかった気でいた。


まるで、灰かぶり姫ね、と胸を踊らせた。


けれど、そこからどうすればいいかは、分からなかった。


あの魔法使いは、たしか、贅沢な現実を終わらせたらいいと言っていたが、


そもそも自分が贅沢な人間なのかさえも分からなかった。


やはり、現実は、あの文字だらけの本のように難しく、退屈だった。


女は、自分なりに考えることにした。


この退屈な世界を、童話の世界に変えればいいんだ、と。


女は、両親が仕事へと出掛けると、館の掃除をする、邪魔な使用人たちへ、嫌がらせをした。


使用人の服をハサミでズタズタに切り裂いたり、

 
使用人の顔面を手鏡で殴ったり、


使用人の足を、オノで切り落とそうともした。


使用人たちは、なぜこんな酷い事をされるのか、分からない。


その原因が「掃除」にあるなんて、思いもしなかっただろう。


さぼったりなど、していないのだから。


女は、使用人たちを館から追い出した。


その翌日。 


静かな館で、一人喋りをする奇妙な女の姿があった。


女は、汚ない食器棚やタンスとお喋りしながら、人差し指に縫い付けた小鳥をダランと垂らして、高らかに…ではなく、かすれた声で、うろ覚えな歌を歌った。


そして、眠る時には、寝室に置いた、糸車の針で指を刺そうとした。


眠り姫のつもりだ。


 館へと帰ってきた両親は、そのおぞましい娘の姿を怯えて見ていた。


何度も糸車の針で指を刺すものだから、指の肉が見えてきて、グチャグチャになっていた。


両親は、それを見て、絶叫をあげていた。


やはり、眠り姫のようには眠れない。


ただ、意識は段々と遠くなっていた。


女は、黒いまだら模様を目の前にブツブツと浮かび上がらせながら、床へと倒れた。


―見えない王子さま―


婚約者を乗せた馬車が、館へと向かっていた。


「どうせ、今夜も相手にされないだろう…」


婚約者は、自分が眼中にない事を理解していた。


馬車が急に止まった。


婚約者が馬車から降りると、そこには「黒いローブの男 」が立っていた。


黒いローブの男は、御者を無視して、婚約者へと分厚い本を手渡すと、こう、婚約者の耳元へと、囁(ささや)いた。


「姫へ、王子の口づけを」


黒いローブの男は、そう言い残して、去っていった。


婚約者は、分厚い本を開いた。


そこには、「アンデスイワドリの刺青・雄」と黒文字で書かれていた。


―静かな館―


婚約者は、静かな館へと足を踏み入れた。


いつもの出迎えはない。


あるのは、ズタズタにされた使用人の服や、割れた手鏡の破片や、血のついたオノと、床のホコリだけ。


婚約者は、階段を上がった。


そして、自分の足音だけが響く廊下を歩き、女の寝室への扉を開いた。


―眠り姫―


女は、床に倒れていた。


蒼白い身体で眠っていた。


その理由を、女の両親に訊ねても、泣くだけで、何も答えてくれなかった。


婚約者は、女を床で抱き抱えた。


そして、声は聞こえてきた。


【見えない王子よ、お前はその名の通りに、その女からは見えていない、


どんなに愛情表現を繰り返しても、王子ではないお前では、あの女とは結ばれない、


年老う前に他所へと羽ばたくのだ、


だが、諦めがつかないのであれば、女の妄想の中の王子になるがよい、


はじまりは、王子の口づけからである】


婚約者は、その女の蒼白い唇へと、口付けた。


―解けた魔法―


女は、眼を覚ました。


そして、婚約者の「口づけ」に奇声をあげた。


「苦手だった」


絵本の中では綺麗に見えた口づけも、現実の世界では、ねばついた唾液のせいで「汚なかった」


婚約者は、また、拒絶された。


―童話館の老婆姫と、見えない老王子―


数年後。


館から離れた町に、こんな噂が流れた。


「童話館」と呼ばれる館には自分のことを「姫」と呼ぶ老婆がひとりで住んでいて、


その女は、夜な夜な「王子」を求めて、館の近辺を徘徊しているという。


その絵本を抱え続ける老婆姫の手には、最高の愛情表現を求める「アンデスイワドリの刺青・雌」の刺青が刻まれ、


その後ろをついて歩く「見えない老王子」の曲がった背中には、愛情表現を無視された「アンデスイワドリの刺青・雄」の刺青が、切なく刻まれているという…。
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