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カバの刺青

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彼等には刻まれていたという。おぞましい魔獣の刺青が…。

「カバの刺青」

ある大森林の沼地の村にやつれた女がいた。

女は、娘の右手を握りしめ、船着き場に停泊したままの無人の渡し船を見つめていた。

無人の渡し船はゆらゆらと揺れていた。

女が呟いた。

わたしは疲れた、あなたはどこにいってしまったの、と。

娘は、そんな女を見て、無邪気に笑っていた。

そして、勝手に無人の渡し船に乗り込もうとしていた。

女はいつもここで娘の右手を引っ張り、それを止めていた。

これで29回目、もう我慢の限界だった。

娘はひとよりも知恵が遅れている。

そんな娘とわたしを二人にして、こんなところに置いていくなんて…女はある男を憎み、そしてそれと同じくらい、その男を愛していた。

男は「渡し守」

この船着き場で、ある商売をはじめ、その商売を切っ掛けに行方不明になってしまった。

あれほど、ひとの道をそれた商売はしてはいけないと言っておいたのに…。

女は眉間をおさえ、苦悩していた。

そんな時。

また娘が訳の分からないことを言い出した。

「パパが向こうからくるわ」

娘が指差した先には一隻の船が見えた。

眼を凝らして見てみると、それは渡し守の船で、誰かを乗せていた。

女は渡し守の名を叫び、呼び掛けた。

だが、返答はなかった。

やはり、あのひとではない。

女は船着き場に停まった船に近付き、渡し守の船から降りてきた黒いローブの男に問い掛けようとした。

すると、黒いローブの男が「分厚い本」を女に差し出して言った。

「妻ならばこれを読み解き、母親ならばここを立ち去れ」

黒いローブの男はそう言い残し去っていった。

女が分厚い本を開くと、そこには黒文字で「カバの刺青」と書かれていた。

女は読み解きはじめていた…。

―渡し船と大木の橋―

その男は渡し守だった。

大森林の中を流れる沼を 渡し船で渡り、船着き場から幾つかの船着き場へと人や荷物を運ぶのが仕事だった。

安全第一で仕事を行う渡し守は、この沼地の村には、なくてはならない存在だった。

だが、人とは残酷なもので、渡し船よりも便利なものがあれば、自然とそちらを選び、渡し守を苦悩させた。

「大木で作られた橋」が、幾つかの船着き場と渡し守の船着き場を繋いだのである。

通行料が無料で、人や荷物を運べ、時間も関係なしの大木の橋。

流れに身を任せてばかりのものたちが、そちらを選ばないわけがなかった。

渡し船は完全に大木の橋に負けた。

渡し守自身、その橋の便利さは体感していた。

だから余計に悔しかった。

大木の橋を夜中のうちに壊してやろうとも考えていた。

だが、そんなことをして真っ先に疑われるのは、橋に仕事を奪われた渡し守である。

そんな愚かなことはできない。

家族まで疑われる。

では、どうすれば。

渡し守は、橋には不可能な商売を考えていた。

次の日。

渡し守は、橋を渡る客たちを見ながら、たったひとりで沼へと出た。

もちろん、新しい商売を求めてである。

この渡し守の商売も行動を起こしたからこそ見つけられた商売。

次の商売も行動を起こして見つけるもの。

渡し守の商売人の血が騒いでいた。

―血の騒ぐ沼―

異臭が鼻を突き刺した。

何かが渡し船に当たった。

何かの死骸が見えた時、渡し守は眼を見開いた。

膨らんで原形はとどめていないが、たぶん人である。

だが、渡し守は意外にも冷静だった。

以前にもこれと同じものを見た事があるからである。

渡し守は手にしていたオールでそれを突き放すと周囲を見渡した。

そこは「沼地墓場」と呼ばれる場所で、正常な人間が来る場所ではなかった。

この沼地には、獰猛な肉食生物は潜んではいない。

死骸は何処からか流れてきて、この沼に仕掛けられた網にかかる。

つまり、どこかの沼で敗者となったものが流れ着く場所がこの沼地墓場なのだ。

今の渡し守にはお似合いの場所だった。

しかし…不気味なのは、あの網である。

赤黒く、禍々しい網は蜘蛛の巣のように死骸を捕らえている。

このような不気味な網、誰が何のために仕掛けたのだろうか…。

渡し守はオールを武器のように握り締め、陸地に降りた。

新しい商売の良い香りはしないが、何かを見つけられる気がしたのだ。

異臭のする大森林をしばらく進むと沼色の小屋が見えてきた。

人が住んでいるようには見えない。

だが好奇心からその小屋に近付いてみた。

やはり、人の気配はしない。

なにやら見たこともない虫が辺りを飛び回り、雑音を散らしているだけである。

渡し守が開かれたままの小屋の扉から中に入ると、嗅いだこともない異臭が鼻から侵入し、吐き気を感じさせた。

これ以上進むのはさすがに無理である。

それに何か、みてはいけないものを見てしまった気がする。

渡し守が急いで逃げ帰ろうとすると、何かの皮で顔面を覆った集団が既に渡し守を取り囲んでいた。

これでは逃げられない。

渡し守は安全第一を考え、集団に悲願した。

わたしには家族がいる、ここで見逃してくれれば、そちらの言う通りに行動する、と。

集団は皮の隙間から覗かせた野生の眼を見開いて、何やら呪文のようなものを唱え始めた。

そして、集団のひとりが網にかかっていた腐肉を渡し守に見せ、その場で食いちぎった。

どうやら、網にかかった「あれら」は集団の餌のようだ。

渡し守は、そのことに気付き、集団と取り引きをした。

わかった、見逃してくれれば、網にかかってるやつらを運んでくる、しかも生きたままでだ。

渡し守は集団と、ある約束を交わすと、村へと逃げ帰った。

だが、渡し守の逃亡劇はそこまで、渡し守は集団との約束を何かの商売に使えないかと、考えていた。

わたしは商売人だ、不利益なことはしたくない、だが、殺傷も苦手、前にもそのことで死にかけた、だから、あの集団を商売として使うしかない、やつらは餌を求めるだけで「金」には興味がない、つまり、あのイカれた連中に後始末を任せればいい、あいにくだが、わたしは生肉は苦手だ、丁度いい。

渡し守は新しい商売を始めた。

それは、ひとの道をそれた商売だった…。 
 
―陸地から墓場へ―

集団に渡す肉は何だってかまわない。

ただ、食えればいい。

だが、渡し守が選んだのは二本足で歩き、誰にも食われないと思い込んでいる「人間」。

中には人間としての生き方を諦めたい人間もいるはず、

渡し守が眼をつけたのはそこだった。

渡し守は、そのような人間が集まる場所を選んでは、商売をはじめた。

金さえあれば、人間をやめられるという、嘘のような真実を並べて。

―敗者の流れ着く場所―

商売は、やはり大成功をおさめた。

ただ、いつになっても、客が途中になって泣き叫ぶ「生きたい」という叫びには、なかなか慣れなかった。

痛々しいものは得意ではなかった。

「やつらも心変わりしたやつらくらいは救ってやればいいのに…

だが、これだけ儲けたんだ、文句を言える立場でもないな、

しかし、あの集団はいったい何者なんだ?

まあいい、そろそろこの商売も終わりにしたいし、

家族とどこか遠くへ旅行にでもいくか…」

渡し守が船着き場に帰ると、渡し守の帰りを待ち続ける、やつれた妻と娘がいた。

おい、ふたりともどうした?

渡し守が問い掛けても返答はない。

ただ、最期の文章を読み上げる声がどこからか聞こえてくるだけだった。

【ひとのみちをそれた愚か者よ、沼地墓場に流れ着くは敗者と死者、流れ着いたら最期、化けの皮を剥がれ、命を削られる、助かりたければ、生者に死を否定されること、だが、忘れるな、生者の心変わりは他の何よりも恐ろしい、彼等のように、生きたいと泣き叫び、悲願してみろ】

女は分厚い本を読み終えた。

そして物語を読み解いた。

わたしの夫だったこの男が「渡し守」で、何人ものの命を化け物に捧げてきた沼地の殺人鬼、

ひとのみちをそれた愚か者、

この子の父親には相応しくない、と。

女は哀しく渡し船を見つめていた。

「私はあなたの妻だけど、この子の母親なの、さようなら」

女と娘は船着き場から去っていった。

この世のどこかにあると噂される。 

「沼地墓場」

そこは敗者と死者が流れ着く場所。

渡し守は沼地墓場へと帰ってゆく、

そして、不気味にわらう、

そっか、もう死んでたのか、

じゃあ、死んだらできる商売を考えないとな、

ぎひっっっ。

これから忙しくなりそうだ…。

曖昧な存在になってもなお、新たな商売を求める渡し守、その渡し守の全身には、獰猛な一面を時には見せる水中の獅子「カバの刺青」が刻まれていたという…。

ねえ、パパはいきているよね。
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