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ワニガメの刺青

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彼等には刻まれていたという。おぞましい魔獣の刺青が…。

「ワニガメの刺青」

その男は「死」を求めていた。

そして「死」に否定されていた。

だから何をしても死ぬことを許されなかった。

最初は恋人と二人で高台から飛び降りようとした。

だが、先に恋人が飛び降りて一緒には逝けなかった。

次に雷雨の中を傘をさしてさ迷った。

落雷が妻の脳天に直撃して逝けなかった。

次に重りを足に巻いて湖に飛び込んだ。

助けに来た娘たちが代わりに溺れて死んだ。

男は逝きたかったのだ。

最初の恋人が一緒に逝こうと言ってくれた、あの場所へ。

男はそこに逝くための手段をよく理解していた。

だが、「死」に嫌われる理由までは理解していなかった。

男の職業は罪人の首をはねる

「首切り役人」だった。

人の命を大鎌一振りで終わらせるその姿は、まさに魂を狩り取る死神だった。

この男にはねられた首は110を越えるという。

その内の幾つかは無罪者の首で、その死で他人を不幸にしたのは一度や二度では済まない。

男は言う。

生者が亡者に変わる「あの瞬間」が堪らなかった、と。

無罪者の家族からすればこの男の発言は酷く許せなかった。

だからだろう、この男は罰を受けた。

死よりも辛い罰を…。

それは、無罪者の首を飛ばす直前に起きた。

ある一人の女が、首切り役人の男に向かって叫んだのだ。

その男は死神でもなければ、人でもない。無罪者の首をはねる化け物だ、と。

男は他の首切り役人たちの手で取り押さえられた。

そして、首切り役人の命でもある「首切り鎌」を奪われた。

男は酷く哀しんだが、この時ふと思った。

男はやはり愚か者なのだろう。常人には理解しがたい言葉を口にした。

「これで恋人のもとへ逝ける」

男は至福の笑みを浮かべていた。

だがその笑みは、女の言葉に消えた

その男を死刑にするのではなく、50年間、牢獄に閉じ込めてほしい。絶対に死ねないように監視してほしい。舌も噛みきれないように…。

それは死ぬことを否定された瞬間だった。

首切り役人たちは上の者と相談したのち、男を牢獄に閉じ込めた。

―そして50年目、釈放前日―

年老いた男は牢獄の片隅で震えていた。余程辛い年々を過ごしてきたのだろう。その姿は囚人というよりも捕虜に近いものになっていた。

年老いた男に面会の時が訪れた。

また、あの首切り役人の事件について訊かれる。

男はそこから動こうとはしなかった。暫くして看守の男が近付いてきた。男は自然と顔を両手で覆い隠していた。何かが頭にぶつけられた。

それは堅くて痛い「分厚い本」だった。

男は看守を見上げた。

これは?と訊きたかったがその鋭い眼を見ると、とてもじゃないが訊けなかった。男は無言のまま、分厚い本を開いた。

―読み終えた男の頬には涙の筋が出来ていた。

この世には自分よりも不幸で愚かな人間が山程いる。自分はまだやり直せるかもしれない。明日、ここを出たら仕事を探そう。そして…恋人を

恋人…

今の今まで忘れていたのに何故思い出してしまったのだろうか。

あの分厚い本に自分と同じ男の物語が書かれていたからだろうか。

いや、違う。

ここに閉じ込められたあの日から何度も逝こうと考えていた。

明日になればあの看守の眼から逃れられる。自由になれる。男は「ワニガメの刺青」と黒文字で書かれたページを閉じると、明日に備えて小さくなって眠った。

―釈放―

50年前にも一度通った穴を抜け、男の全身は眩しい光に触れた。相変わらず看守たちの扱いは酷かったが、それも今日で終わり。男は看守たちの鋭い眼を最後に睨み付け、逃走した。

―かつての大都市―

自由になった男はかつての大都市を訪れていた。そこは男の故郷であり、男が首切り役人となった場所でもあった。大都市に足を踏み入れた男の背後で何か物音がした。男が身構えると、白髪の老婆が腰を抜かして倒れていた。

男はその老婆を立たせると、老婆の眼をじっと見つめた。老婆の眼は白く濁っていた。男は老婆に訊いた。

50年前、無罪者の首をはねた罪で牢獄に閉じ込められた男の事を知らないか…と。

気が付くと老婆の白く濁った眼からは涙が溢れ出ていた。

老婆は辛い…辛い…と繰り返すばかりだった。

男はここで理解した。

この老婆が、50年前のあの女だと。

男は老婆に復讐したくて堪らなかった。だが、首をはねようとは思わなかった。ただひとことだけ老婆に言った。

あの時、首をはねてもらった方が幸せだった、と。

老婆は泣き崩れた。

老婆は痛感したに違いない。死よりも辛い罰があることを。自分が男に与えた最低な罰の意味を。

―三角の処刑場―

男はふらふらと歩きながら、かつての仕事場へと足を踏み入れていた。処刑台には最期に逝かされたであろう、亡骸があった。

それはあの事件に関与していた黒幕。

王族たちの亡骸だった。

この時、男は思い出した。

何故、恋人とずっと逝こうと考えていたのかを。

そうだ、こいつら王族たちの魔の手から逃れる為だった。

恋人は言ってくれたのだ。

「あの王族の首をはねるなんて、あなたには出来ない、けれど、自分の首をはねる事なら出来る、お願い、私と一緒にこんなくだらない世界から逃れましょう、そうすれば、あなたと私の犯した罪もきっと消えるわ」

男には愛する妻も娘たちもいたが、この恋人は特別だった。世界の裏側をよく理解していた。同じ気持ちになれた。

罪が消えると嘘をついてくれた。

はじめにも言ったがこの男は「死」を求めている。だから同じ考えの者は愛しくて堪らなかった。

男は覚悟を決めて、自分を逝かさせてくれるあの道具を探し始めた。

その時だった、誰かが男に囁いたのは。

【命を粗末にする愚か者よ、罪人であれ、お前にも生きる資格がある、それでもあの女に惑わされたければ、好きなだけ惑うがいい、お前が求めるものは、王族の穢れた手が握り締めている、それで人としての人生に幕を閉じよ、そうすれば恋人のもとへ逝けるだろう、だが忘れるな、お前は死んでも首切り役人、天職からは決して逃れられない】

男は首切り鎌を王族の穢れた手から奪い返すと、それを天に翳した。

そして自分のうなじ目掛けて……

力強く振り下ろした。

―別れの高台―

気が付くと、男は白黒の世界に独りで立っていた。

その手には王族から奪い返した「首切り鎌」が握られていた。

さっき死んだはずなのに。

男はこれが疑問で仕方なかった。

白黒の世界には無数の人影が見えた。

どの人も顔面蒼白で不気味な容姿をしていた。

男はその中から何かに苦悩する恋人を見つけた。

男が至福の笑みを浮かべて恋人に歩み寄ろうとすると、恋人が男に気付いて言った。

「うまく逝けなかった…痛かっただけだった…あなたは理解していた…死んでも何も変わらないこと…だから私だけを逝かせた…」と。

女は泣いていた。

男は、哀れな女を救ってやりたかった。

だから男は、首切り鎌を女に向けた。

女はそんな男を睨み付けて言った。

「その首切り鎌で私の魂まで狩り取る気、あなたは王族にまだ従うのね、なんて哀れな男なのかしら」

男は女に言った。

「哀れなのはお互い様だ、自分たちの罪から逃れようとしていたんだから、でも理解したよ、この世界の仕組みを 死んでも罪からは逃れられない、罪人が亡者となった場合は地獄に堕ちるんだ」

男は首切り鎌を握り締めると、襲い掛かろうとしてきた女の首をはねた。

転がった首は首だけになってもなお、男の足首に噛み付いてきた…。

だが、それで最期だった。

男は白黒の世界から脱出する方法を探し求めていた。

だが、この世界に出口があったとしても、生者でも亡者でもなくなった男にとって、出口などというものは無用なものだった。

男は気付いていない。

あの首切り鎌で本当は死ねていなかった事に。

男は今でも、襲い掛かる魂を狩り取りながら生死の狭間をさ迷っている。

そして時々不気味に笑うのだ。

あの瞬間が堪らない、と。

処刑場に遺された全身には「ワニガメの刺青」が刻まれていたという…。
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