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タイリクオオカミの刺青

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彼等には刻まれていたという。おぞましい魔獣の刺青が…。

「タイリクオオカミの刺青」

毒の霧の向こう側、

鉄壁に囲まれた小国の一軒家に、人間が組み立てた小さな家があった。

彼は、その中から家族と呼ばれるあたたかいものを

ずっと見てきたという。

-白黒の太陽が昇った朝-

彼が、延びをしながら目覚めると、

普段と何ひとつ変わらない家族がおはようと、

彼の首もとをぐしゃぐしゃと撫でてくれた。

彼は、それがとても心地よかったのか、お腹を家族に見せて、息を切らしながら、服従のポーズを見せた。

暫くすると、家族が愛用の長弓と10本の矢を手に、仕事と呼ばれるものに出掛けた。

彼は、この時間が一番嫌いだった。

それは彼がまだ幼かった頃の話だ。

家族が初めて仕事に出掛けた時、彼は異常な行動で家族を引き止めようとした。

家族と自分が離れてしまうという恐ろしさから、家族の腕に噛み付いたのだ。

白黒の涙が家族の腕を伝って、ぽたぽたと涙のように地面に落ちていった。

彼は、その腕をなかなか離さなかったという。

その時は決まって、家族のもうひとりが、彼のお尻を鞭で強く叩いた。

彼は、それが哀しくて、いつも訴えるかのように大きな声で鳴いた。

それでも彼の訴えはいつも届かなかった。

彼は、何度もそんな事を繰り返してる内に、ある事に気付き始めた。

それは、家族が仕事に出掛けた10回目の事だった。

白黒の太陽がいつものように空に昇った。

家族がいつものように仕事に出掛けた。

白黒の太陽がいつものように沈んだ。

家族がいつものように仕事から帰ってきた。

空には白黒の太陽が見えた

彼は、その時ハッとした。

あの空に浮かぶ丸いものが、欠けたり沈んだりすると家族が自分のもとに帰ってきてくれる。

だから、あの空に浮かぶ丸いものが家族に何かしているのではないか、と。

-白黒の太陽が昇ったある朝-

彼は、白黒の太陽をずっと見上げていた。

暫くすると、鳥の群れが空を飛び回り、どこかに帰っていくのが見えた。

彼は、白黒の太陽が欠けながら沈んでいくのを

じっと待っていた。

白黒の太陽が雲に覆われて欠けたように見えた時、

彼の眼が、闇の中で煌めいた。

あと少し、あともう少し。

暫くして白黒の太陽が沈んだ。

そしてまた空に浮かぶ丸いものを見つめた。

それは、彼が白黒の太陽と思い込んでいる「月」と呼ばれるものだった。

彼は、白黒の月を見つめながら、いつものように眠りついた。

家族が帰ってきた。

家族は生暖かい何かを皿にのせて、ただいまと、彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

彼はその時、また、白黒の月を見上げた。

彼の思った通りだった。

あの丸いものが欠けたり沈んだりすると、家族は帰ってきてくれる。

その日から彼は、家族の腕を噛むのを止めた。

そして、人を信じる事を覚えた。

目覚めて食って、眠って、家族の帰りを待って、また食って、寝る

そんな幸せな日々が続いたある日、家族のひとりがいつものように首もとをぐしゃぐしゃと撫でて、もう一人の家族に言った。

今夜の獲物は、けたたましく笑う豚、一匹だけよ、と。

いつものように家族は仕事に出掛けた。

暫くして、彼の頭上を黒い鳥が過ぎていった。

いつもは見掛けない種類の鳥だった。

彼は、身体を伏せて家族の帰りを待った。

白黒の太陽が沈んで、白黒の月が見えた。

あともう少し。

だが、いくら待っても家族は帰って来なかった。

彼は、白黒の月がまた何かしたんだと思い、白黒の月に向かって遠吠えを上げた。

家族を返せ。

白黒の月は、彼に脅えたかのようにその姿をくらませた。

彼は、そんな白黒の月を追うかのように、小さな家から飛び出していった。

高い塀が彼の行く手を塞いでいた。

「かまうものか…俺は家族に会いたいんだ…そこをどけ」

彼は、塀に身体を激突させた。

全身に激痛が走った。

何十回も何十回も、痛い思いをした。

それなのに塀は崩れてくれなかった。

白黒の傷痕から溢れるものを舌でぺろぺろと舐めながら、彼は小さく鳴いていた。

家族が帰ってきたのは、鳥の鳴き声がけたたましく聴こえた次の日だった。

その日、彼に大きな弟が出来た。

弟の姿はあの頃の彼のように冷たくボロボロだった。

-冷たい朝-

家族の変化に気付いたのは、他の誰よりも家族を見てきた彼だった。

家族の一人が突然仕事に出掛けなくなったのだ。

彼はこれを嬉しく思っていた。

寂しい思いをしなくてすむからだ。

だがそれは、これからやってくる冷たい寂しさの前触れでしかなかった。

ある朝、家族の一人が彼の首もとを優しく撫でながら、泣き声のような声で言った。

「同じもの同士が仲良くするのって変だと思う?私はね、変じゃないと思うの、でもね、世間はそれを認めてはくれないの、だから私は、家を出るわ、でも帰って来る、あの子と貴方の笑顔をまた見るために、本当に愛しているわ、家族になってくれて本当にありがとう、そして、さようなら」

彼には、そのさようならの意味が分からなかった。

それでも、いつもと違うということだけは直ぐに行動で伝わった。

その人はもう二度と、帰って来なかった。

もう一人の家族が、大きな弟を連れて、彼の前に立った。

初めは外に連れ出してくれると思って、舌を出して喜んだ。

だが違った。

首に何かを嵌められただけだった。

息苦しい、

これが首輪。

もう一人の家族は、それを見てはしゃいでいた。

何が楽しいのか全く理解出来ない。

それでも彼は、もう一人の家族の笑顔を見るのだけは、とても好きだった。

気が付くと首輪は鎖で繋がれていた。

食事の時間も、散歩の時間も、不規則になっていた。

家族の笑顔も見れなくなっていた。

それでも彼は、家族を信じ続けて、その時を待っていた。

「いつか、いつか、きっと帰ってきてくれる」

もう一人の家族がいなくなって数ヶ月が経ったある日、家族のすすり泣く声が窓の向こうから聴こえてきた。

何か哀しい事があったのだろう。

彼はそう思って、窓の外から中の様子を窺った。

「私、独りぼっちね…」

「君には僕がいるじゃないか」

大きな弟がそう言って、家族の一人を抱き締めていた。

家族の一人は大きな弟に身を委ね、頬を赤らめていた。

何かが違う。

そう思った彼は、大きな弟に向かって牙を剥いた。

そしてグルゥゥと低く鳴いた。

その日の夜、家の中から、男女の重なりあう耳障りな声が聴こえてきた。

彼は、白黒の月に向かって、遠吠えを上げた。

もう一人の家族が帰って来れるように、もしも道に迷っていても、この遠吠えが、家へと続く道しるべになるように。

彼は、必死だった。

家族が疲れて寝静まった頃、誰かがランプの白い灯りを手に彼に近付いてきた。

闇の中で眼を煌めかせると、それは黒いローブに全身を包んだ人間のようなものだった。

「そうか、この物語は三つで一つなのか、どうやらこの分厚い本は、君を選んだようだ、でもまさか…君のような姿をしたものが、次の主人公とはね、あの青年は私が見込んだ通り、素晴らしい才能を隠し持っていたよ、さて、君に恨みは無いが、本は君を選んだんだ、私は自分自身を救うために、試させてもらうよ」

分厚い本は、彼の目の前で開かれた。

そこには「タイリクオオカミの刺青」と黒文字で書かれていたという。

黒いローブの男が、物語を読み終えた。

物語の内容は理解出来なかったが、彼はしっかりと、その立派な耳で聞いていた。

そして彼は、悪夢に落ちていった。

次の瞬間、彼の耳に誰かが囁いた。

【未熟な人の子に捕らわれた狼の子よ、偽りの家族との再会を願うならば、己の姿を犠牲に、本物の家族を、全員亡きものにせよ、そうすれば、二人の人間がお前のもとに還って来るだろう、だが忘れるな、その望みを叶えられるのは白黒の処刑人だけだ】

彼が目覚めると、白黒の処刑人が目の前に佇んでいた。

白黒の処刑人の背には大鎌が見えた。

白黒の処刑人は、白い指先で、塀のある方へ身体を向けると、塀に立て掛けられていた古びた梯子を指差して幽霊のようにスゥ…っと消えた。

彼は、梯子に近付き、両手で梯子を掴んだ。

彼が違和感に気付いたのは、この時だった。

自分の手が人間の手に変わっていたのだ。毛で覆われていた逞しい手が、逞しい人間の男の手と取り換えられている。

誰が、どうやって?

彼は疑問に顔を顰めながら、背後から聞こえてくる足音に恐怖を感じ、梯子を急いで登った。

彼は初めて塀を乗り越え、外を一人で歩いた。

彼は、白黒の処刑人に訊いた。

自分が何を成すべきなのか。

白黒の処刑人は、無言で指差した。

次の目的地を。

目的地に辿り着くと、そこにはいつも狼がいた。

狼は、彼の周囲をぐるぐると回ると決まって哀しい声で鳴いていた。

彼には、狼の言葉がもう分からなくなっていた。

だから何を言われても、成すべき事をやるだけだと、彼は刃を見せた。

「ごめんよ、家族に逢うためなんだ」

―数年後―

小国に悪い噂が広まった。

犬科の動物ばかりを狙う化け物が、夜な夜な獲物を求めて、さ迷っている、と。

その男は、一見人間の姿をしているが、鋭い牙を隠し持っており、手足と顔以外は大量の毛で覆われていて、長い尻尾が垂れ下がっているという。

その男は、獲物を食いちぎると、いつも哀しい声で言うのだ。

「あと1ぴき…あと1匹…いったい、どこにいるんだ…あっああ…家族に逢いたい…家族に逢いたい…家族に逢いたいだけなのに…うっうう…」

彼はまだ、気付いていないのだ。白黒の処刑人が死神で、ずっと「彼を指差していることを…」

あの声は確かに言っていた。

本物の家族を 全員亡きものにせよ、と。

そう、全員…。

最期の1匹の全身には「タイリクオオカミの刺青」が刻まれていたという…。
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