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カザリキヌバネドリ・タテガミヤマアラシの刺青
しおりを挟む彼等には刻まれていたという、おぞましい魔獣の刺青が。
「カザリキヌバネドリの刺青」
「タテガミヤマアラシの刺青」
毒の霧の向こう側、鉄壁に囲まれた小国に男勝りの、美しい女の狩人がいた。
女の傍には、心優しい両親も兄弟もいなかったが、代わりに、頼もしい相棒と、相棒が拾ってきた、白い仔犬がいた。
家族だった。
女は、いつものように愛用の長弓と、10本の矢を手に、相棒と共に狩りに出掛けた。
女が狩る獲物は、鉄壁の囲いの外にいた。
相棒が言った。
「今夜の獲物は、けたたましく笑う豚、一匹だけよ」
女は、相手が動く獲物ならば、ただ射ぬくだけだ、と狩場に向かって、黙って歩いた。
月が二人を不気味に見下ろしていた。
真夜中だった。
黒い鳥が女の頭上を過ぎていった。
女は見向きもしなかった。
今夜の獲物も、昨夜の獲物と同じで、空は飛べないと分かっていたからだ。
そう、女の獲物は食える豚でもなければ、空を飛べる鳥でもない。
役立たずの家畜。
豚以下、人間なのだ。
女は、泥道の中を進む闇色の馬車を見つけて、眉を寄せた。
馬車は狩場に向かって、暗い森の中に入っていった。
暫くして、馬車が止まった。
馬車が止まった場所には、3本の木が不自然に並んで立っていた。
たすけて…。
微かに聞こえたその哀しい声に、女は耳を傾けた。
声は3本の木の内の、1本の木から聞こえていた。
女は眼を見開いた。
声の主が見えたからだった。
そこには泥塗れの縄で、自由を奪われた、哀れな男の姿があった。
その男の眼は、酷く濁っていた。
女は愛用の長弓を握り締めた。
待ちなさい、女の行動を相棒が止めた。
狩るべき獲物は、まだ姿を現していない、だから待て、と。
女は相棒の言うことを聞かずに、狩場に飛び出した。
それは豚の仕向けた汚ない罠だった。
女は、哀れな男の縄を急いで解くと、男の顔を見た。
次の瞬間、何かが、女の腕の皮を削いだ。
女は呻いたが、男の身体を庇うように倒れた。
けたたましい笑い声が聞こえてきた。
女が見上げると汚ない豚が、女と男を見下ろしていた。
男は厄介な女狩人を釣る、ただの餌だったのだ。
豚は餌だった男をつり上げると、男は邪魔だと、男を木の下へ放り投げた。
豚にとって、男は無用だった。
欲しいのはこっちなのだ。
豚は女を嘗めるように見回した。
そして、唾液を垂らしながら、その汚ないぶよぶよの手で女に触れた。
悲鳴が、暗い森の中に響いた。
だが、それは女の悲鳴だけではなかった。
女が眼を覚ますと、相棒が女に手を差し伸べていた。
女の周りには、怪物にでも食い散らかされたような、赤黒い肉の塊が、辺り一面に飛び散っていた。
相棒は、女を見て優しく微笑んだ。
豚一匹じゃなくなっちゃったわね、と。
女は涙を伝わせて、そうね、と笑った。
―数年後―
女の変化に気付いたのは、女自身ではなく、女の事をずっと見てきた、相棒だった。
女が、数年前の、腕の怪我を理由に、狩りをしなくなったのだ。
だが、一家の誰かが、生計を立てなければ、生きていく事は出来ない。
二人と仔犬一匹なら養えたが、今この小さな家に住んでいるのは、大人の女二人と、大きな白い犬。
そして、新しく家族に加わった、あの時の男。とてもじゃないが、相棒の力だけではこの家族を守りきることは出来ない。
それでも相棒は、女の微笑みを、もう一度見るために、必死で働いた。
出稼ぎ先は、鉄壁の囲いの外。
毒の霧の向こう側にあった。
相棒は豚の皮を剥いで、その皮で鼻と口をぐるぐる巻きにした。
毒の霧に侵されないように…。
相棒は、出稼ぎ先の宿屋で、不思議な噂を耳にした。
罪と罰を捧げると、何でもひとつだけ望みを叶えてくれる小説家がいる、と。
相棒はその小説家が宿屋に来るのを待っていた。
その時は直ぐに来た。
怪しい黒いローブで身を包んだ男は、分厚い本のページをめくって、相棒に近付いてきた。
そして、読み聞かせた。
ある青年が、生涯を懸けて書き上げた、他人の不幸を。
そこには「タテガミヤマアラシの刺青」と黒文字で書かれていたという。
私とこの主人公似てる。
相棒が読み聞かせられた物語は「他人の幸せを願い生きる」哀しい女の物語だった。
相棒は仕事を終え、ベッドに崩れた。
体力の限界が近付いていたのだ。
あの男を救ったのが間違いだった。
私は間違っていた。
相棒は苦痛に顔を歪めていた。
答えは自分でも分からなかった。
相棒の耳に誰かが囁いた。
【人の幸福を願う哀れな女よ、己の身を犠牲に、振り返らぬ女の首をこちらに向けさせるのだ、そうすれば己の愛が虚しいものだったと気付くだろう、だが忘れるな、微笑むのは愚か者一人だけだ】
数日後。
相棒は、全身に「タテガミヤマアラシの刺青を刻んで」死んだ。
死因は感性病だった。
女は、男と共に酷く相棒の死を哀しんだが、
流れたのは、哀しみの涙だけではなかった。
あの声が囁いたとおりに、女は微笑んでいた。
数日後。
白い犬が家を飛び出した。
もう二度と帰って来なかった。
相棒が亡くなった事で、女は以前のように働くようになっていた。
―ある嵐の日―
女はいつものように愛用の長弓と、10本の矢を手に、新しい相棒の男と共に、狩りに出掛けた。
獲物は「けたたましく笑う豚」
女が狩場に足を踏み入れた途端、激しい目眩が女を襲った。
男は女に駆け寄った。
触れるな。
女はその男の手を振り払った。
そこにいたのは、あの時の男勝りの女狩人だった。
男は女の後をついて歩いた。
道中、男が少し休みたいと、切り株に腰掛けた。
女は男を置いて、更に森の奥へ入っていった。
また目眩が女を襲った。
女は、ぼやけた世界に囚われていた。
黒文字だけが目の前に浮かび上がり、その文字を読むと、黒文字が薄れて塵のように消えていった。
女に誰かが囁いた。
【くだらぬ愛に囚われ、真実の愛に触れられぬ愚か者よ、己が犠牲にした者の大切さを知り、長弓を捨てよ、そうすれば短い時を微笑み、愛した者と暮らせるだろう、だが忘れるな、長弓を捨てなければ、二度と愛する者を抱けない】
酷く気分が悪かった。
長弓を捨てろと言われたから。
女にとって長弓は、命の次に大切な物だった。
女は男のもとに帰ろうと来た道を引き返した。
だが、歩いても歩いても、男がいた場所には出られなかった。
女は、森の中で方向感覚を失い、更に更に森の奥へ入っていった。
気が付くと、女は紫色の霧が立ち込める不気味な場所に足を踏み入れていた。
もう何もかも遅かった…。
森の奥深くで、誰かが、女に向かって手を振っていた。
女は鼻水をだらだらと垂らしながら、深い森に消えていった。
男はいなくなった女の事を、必死になって探した。
そして見つけた。
全身に「カザリキヌバネドリの刺青」を刻まれた女の亡骸を。
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