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氷術師の春

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 おかわりも数回して、鍋を空っぽにする頃には二人ともかなり打ち解けていた。
 リルが話を振ってサリウスが相槌を打つ。沈黙がまったくないわけではなかったが、それでも流れる空気は重すぎず心地良い。

 パチパチと暖炉で薪が燃える音を聞きながらの食事はいつになくサリウスに充実感を与えたが、それもやはりリルの存在あってのことだろう。

 腹いっぱいになったところでソファーに凭れると再び眠気の魔の手が伸びてくる。

「サリウスさん、こんなところで寝ちゃったら身体を痛くしますよ」

 完全に寝入る前にと、リルがサリウスの肩を揺らす。

 夕飯前の仮眠はほんの小一時間ほどだったらしく、サリウスの身体はまだ睡眠を欲している。
 その上、暖かい体温に触れられるともうダメだ。馬を走らせたことも手伝って体力だって限界に近い。

「せめて歯だけでも磨きましょう?」

 乳母のようなことを言うんだな。

 ぼんやりとした頭で幼き日々を思い出す。もう何年も自分にそんな言葉をかける人なんていなかったのに。
 リルが母親だったら、なんて。ありえない妄想が脳裏を過った。

「んぅん」

 なんとか応えてやろうとするものの、やはり口が上手く動かない。唇からはもごもごと不明瞭な音が小さく漏れ出るのみ。
 それでも、慣れとは恐ろしいもので。浄化魔法だけは展開できたので、リルと自分を覆うようにかけて面倒なことは終わらせる。

「魔法!?」

 突然のことにリルは驚きの声を上げるが、眠気に襲われたサリウスに説明する余裕なんてない。
 が、敏いところのあるリルはこれが浄化効果のあるものだと悟ったらしい。

「いくら魔法で綺麗になるからって、ちゃんと歯磨きしないといけないんですからねっ」

 このままサリウスが寝てしまうのを阻止しようとしてくる。

 確かにリルの言う通り、生活を魔法に頼りすぎるのは推奨されていないので、この手のことにはめったに使わないが、今日くらいはいいだろう。
 氷や炎を扱うような特殊魔法ならまだしも、これは点灯ライトと並ぶくらい基礎中の基礎。多少の魔力があれば子供でも難なく繰り出せる程度の術なのだから。

 そうサリウスは自己完結で決定づけると、リルの子守歌のごとき小言を背景に、今度こそ泥のような睡魔へと意識を沈めていった。

*
 腕の中にモコモコとしたものがいる。暖かい上に手触りまで良くて。「もっと」と求めるようにぎゅっと抱きしめる。
 すると、今までにも漂っていた花橘の甘く優しい匂いが途端に濃くなって、サリウスの鼻孔をくすぐった。
 きつい香りは苦手だが、これは清らかな風を想わせ、ちっとも嫌じゃない。むしろずっと嗅いでいたいくらい。

 しばらくそのままの態勢でいたサリウスであるが、それでも徐々に覚醒してきて次第に状況を把握していった。
 昨夜はあのままソファーで寝落ちてしまって。それなのに横たわっているということは……大方リルがベッドに運んでくれたというところだろう。

 悪いことをした。

 反省しつつも自身を引きずる毛玉を思い浮かべたら、その光景がなんだかおかしくも可愛くてサリウスの口元が綻んだ。
 そうしているうちに、カーテン越しに陽が射し込んでいるのか、瞼を下していてもサリウスは光を感じた。

「もう朝、か」

 薄く目を開くと、胸の中に閉じ込められるようにしてリルがいた。
 なんとなくそんな予感はしていたが、実際に抱きしめていると自覚したら、途端にむず痒くなってくる。
 リルの毛並みのせいではない。このくすぐったさはサリウスの心の奥から染み出たものだ。
 試しに、もう少しだけ近くに抱き寄せてみると胸から甘酸っぱい何かが滲んだような錯覚に陥った。

 不思議と落ち着くのに心臓はトクトクとうるさい。起こしてしまわないだろうか。
 そんな懸念をよそにリルは健やかな寝息を立てている。

 小さく「キュンキュン」と鳴いているのは狼獣人の特徴なのだろうが、それも大変愛らしい。

 幼少期に読んでもらった絵本に載っていた狼と同じくらい大きな口。だけど、ちっとも怖くはない。それよりも、そこからチラリと覗く桃色の舌が美味しそうで。ついつい指を伸ばしそうになってしまう。

 寝姿の観察なんてバレたらまた怒られるかもな。

 またお叱りを受けた時のことを想像しつつも、サリウスはリルから目が離せないでいた。
 フサフサの毛は柔らかく、リルの人柄を表すかのように愛嬌たっぷりだし、ピクピク動く耳も食んでみたくなるほど。
 まさか自身にそんな衝動が隠れていただなんて考えたこともなかったから、サリウスは内心動揺を禁じ得なかったが、それもこれも全部リルのせいだと思うことにした。

「危機感とかないのか?」

 いくらベータでも無用心がすぎるのではなかろうか。こっちが見るからに高位アルファなのを理解していないのか。
 未だ深い眠りに攫われたリルの頭を撫でると、甘えるように「くぅん」と擦り寄られる。
 可愛い。狼じゃなくて犬、それも昔図鑑で見たポメラニアンの間違いなんじゃないかっていうくらい可愛らしい。

 これはもう認めるしかない。
 サリウスはリルが可愛くて仕方がないらしかった。

*
 いつもの不眠が嘘みたいにぐっすり眠って、栄養をたっぷり摂れば、年若いサリウスは一晩で本来の輝きを取り戻した。
 リルといるだけで、みるみるうちに疲れが吹き飛ぶ。心なしか肌の調子さえも良い気がする。
 
 何より決定的に普段と違うのは、食欲があるということに他ならない。
 リルが用意してくれた朝食を「おかわり」までしたのだから、本人としても驚きである。
 午前中はコーヒーで済ますことが多く、十五時を回ってからようやく固形物を口にすることなんてざらなのに。
 
 この変わり様を同僚が知ったら「サリウスの偽物だ!」と騒ぎ立てるレベルだろう。
 そして、その予想は大方当たっていた。

*
 リルにも仕事があるし、押しかけた身で長居し続けるわけにもいかず、サリウスはリルの出勤に合わせ街を発った。

 預けていた馬も休めたことで調子が良いのか、王都までの道のりは来た時よりも遥かに速かった。
 そのせいで、門番から知らせを受けた魔塔の長に持ち場まで引きずられるはめになったのは誤算だったが、身体の軽い今なら何でもできる気がして、上機嫌で書類を捌いていく。

 そんなサリウスの様子を、

「おいおい、どうしちまったんだよ。サリウスのやつ」
「まるで別人じゃないか!」

 同僚たちは不思議な面持ちで眺める。

 わずか一日の間に何があったのか。
 つい昨日まではここにいる皆と同じく屍同然だったのに。今はむしろ|艶々《つやつや)さえしている。

 完全復活を遂げたサリウスの姿に、

「何か良いポーションでもあったのか」

 と同僚たちが押し寄せても、サリウスは頑として口を開かなかった。

 そのうちに彼らも諦めたのか、次第にそのことを話題に出す人も減っていったのだが。
 サリウスが頻繁に出て行っては英気を養って帰ってくるものだから、魔術師たちは「氷術師サリウスの春」を否が応でも察知した。

 それでも無粋なことは言わず、そっとしてやっているのはひとえにそれがサリウスに好影響を与えているためだ。
 もちろん、中には険しい表情かおが和らぐようになったことを喜ぶ者もあったけれど、それよりもサリウスが書類仕事もこなすようになったことの方がずっと重要だった。
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