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本編
迷子な大人
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「勘弁してくれ」
文字通り押しつけられた書類の束を前に思わず声が漏れる。
長年の不眠を一夜にして解消した上に、栄養満点のスープまで飲み干したおかげで身体が軽く、通常の倍の業務をこなしてしまったのが災いして、サリウスの仕事は拒否権もないままに増えていた。
ただでさえ多忙な魔塔だ。人手はあればあるだけ良い。使えるものは全て使えと、少し余裕があると見れば、次から次へと面倒事が寄越される。しかも、そのほとんどがサリウスの不得手とするデスクワークときた。
寝不足のために頭はガンガンと痛み、空腹で集中は続かない。
しかし、ベッドに入る時間もなければ、横になったとしても上手く寝付けない。それなら食事はというと、偏食の気もあって粥さえも喉を通らないでいた。
「まずい」
あの出来事さえなければサリウスの「つまらない平穏」が崩されることなどなかったというのに。知ってしまってはもう後には引き返せない。
陽だまりの匂いがする掛け布と抱き枕なら眠れるかもしれぬと、使用人に用意させたが何かが違う。同じ野菜で同じメニューを作らせても、あの日に食べたスープの方が遥かに美味かった。
あの場所にしか「本当の平穏」は存在しないのか。
リルの家を離れてからもうじき二週間が経とうとしている。
王城に辿り着いた直後ならいざ知らず、快眠もバランスのとれた食事もない現状ではさすがのサリウスも限界を迎えつつあった。
「あの毛玉……」
去り際、もう二度と会うことはないだろうと思ったにも関わらず、すでにログハウスでのことが恋しくて堪らない。
出る時に玄関から見送ってくれた狼獣人の、控えめに手を振る姿がしきりに瞼の裏へ浮かぶばかり。
こんなこと今までになく、どうしていいかわからず戸惑うサリウスであったが、ただ一つ確かなのはリルの元へ戻りたいということだけだった。
いつになく手元が疎かなせいで同僚の間で「サリウスにも春が来たんじゃないか」と噂が飛び交った時には素直になれなかったが、自分の心にまでは嘘はつけない。
これを「春」というのかはわからないけれど、リルのことを想えば胸の奥はポカポカと熱を持つ。
寒い日が続いているおかげで身体は氷の魔力に満ちているのに。本来なら冬の方が調子は良いはずなのに。どうして今までにないくらい調子が悪いのか。
それもこれも、リルのことを考えるだけで温かな気持ちになってしまうせいなのか。
その答えをサリウスは密かに求めていた。
*
反旗を翻したのはそれからすぐのことだった。
「もう限界だ」
それだけ言い残すと、サリウスは馬を駆り王都から抜け出した。
魔塔課に宛がわれた部屋を去る直前、背後から阿鼻叫喚が聞こえた気がするがそれも全部無視だ。
自分の持ち分は終わらせたのだから文句を言われる筋合いもない。同僚の制止も上司からのお叱りも今はもうどうでもよかった。
ただ一刻も早くリルの傍に行きたかった。あの安らかな温もりを享受したかった。
馬車とは違って速度を出せるだけあって、目的の地には三刻を少し過ぎたあたりで着いた。それも日暮れ前。
職務放棄して来たものだから当然のことではあるが、ログハウスに人の気配はない。
他に民家も近くにはないので、人に尋ねることもできないけれど、リルはまだ仕事の最中のようで間違いないだろう。
それなのに、サリウスは拗ねた子どものようにムッとしてしまう。
「なんだ、留守か」
せっかく自分が王都から遠路遥々訪ねてやったというのに、家を空けるなんて。
先触れも出していないので理不尽なこととはわかっているが、期待を裏切られたような気になる。
「遅い、遅すぎる」
最初の十分ほどは足元の小石を蹴飛ばしたり、囀る小鳥の姿を探して辺りを見渡したりしたものだが、サリウスは段々と痺れを切らしていった。
「こんな時間まで仕事なんて店主はいったい何を考えているんだ」
冬の夕方は短く、日没に備えて影が伸びるのだって早い。いくら狼の獣人といえども、リルには獰猛さの欠片もない。変なやつでもいたら、あんな子なんて簡単に捕まってしまう。そうしたら……悪い想像が勝手に頭の中で膨らんで、サリウスは胸が苦しくなった。
「仕方がない。迎えに行ってやるか」
別にリルのことが心配なわけではない。あのパンを買い求めるついでだ。
さっきまで気にも留めていなかったパンを出しに、サリウスは馬をさらに走らせた。
リルの家は外れも外れ。あまり開けていないところに、ひっそりと佇んでいるが、それでいて街の中心まではそう遠くない。徒歩でも二十分とかからないであろう距離まで馬を進めると、静寂から一転、賑やかな街並みが広がっていた。
前回の大雪はすでに跡形もなく消え去り、ずらりと商店が立ち並ぶ通りの石畳もはっきりと姿を現している。
「さて、リルはどこか」
軒を連ねた一帯には似たような店などいくらでもある。郊外とはいえ、それなりに栄えた街だ。
それを認め、ここに来てサリウスは急激に不安になってきた。
土地勘のないサリウスにとっては看板を一つ一つ確認していくのは途方もなさすぎる。
いつもならそんなことをしなくとも、使用人に一言告げればこれしきのこと簡単に解決するというのに。
サリウスは己の非力を密かに恥じた。
そもそもパン屋だということしか聞き及んでいない。仮にパン屋を引当てたとして、そんなものこの商業地区にはいくらでもある。つまり、そこにリルがいるという保証はないのだ。
柄にもなく、無計画でここまで来てしまったツケが回ってきてしまったのだろうか。
身分に甘んじ、無意識に権威にあやかってきたサリウスにとって地道な調査はほとんど初めてのこと。
出鼻を挫かれたようなやるせなさに項垂れる。
急に手綱を放されたような覚束なさに襲われ、子供のように目に見えて落ち込むサリウスであったが、いつまでもそうしてばかりではいられない。
日暮れは近いのだ。リルを一人であんな森へ返すわけにはいかない。
商店街だって永遠に続いているわけではない。看板くらいいくらでも読んでやる。
そう決心し顔を上げた時、
「おじさん、どうしたの?」
サリウスはふいに声をかけられた。思わず周囲を見回すも誰もいない。
おかしい。
確かに呼ばれたのは自分のはずだ。それなのに立ち止まっているのは自分だけで、この街の住人はみな忙しなく行き交っている。
聞き違いだろうか。
不可解な現象にサリウスが眉を顰めると、
「こっちこっち、もっと下」
今度は別の声に誘導される。
その通りにグッと目線を下におろすと、果たして本物の子供たちがサリウスの足元にいた。
「おじさん、迷子?」
人間と獣人が一人ずつ。友達同士なのか種族を気にすることなく仲睦まじげに手を繋いでいる。
「迷子ってわけじゃ」
獣人と同じくらいサリウスは子供とも縁遠い。
内心タジタジになりながらも、心細さを悟られぬように努めて答えるが、幼き者は人の心に敏いらしい。
「僕たちに任せて!」
「大丈夫だよ!」
その甲斐虚しく、サリウスは彼らの中で見事迷子認定を受けてしまったらしい上に、慰められる始末。
ポンポンと尻尾で足を叩かれたり、物珍しそうにローブへと手を伸ばされたり、馬によじ登ろうとしたり。子供たちに好き放題されてはいるが、賢く躾けられた馬は動じていないし、サリウスとしても咎める気にならないのは、
「何を探しているの?」
「どこに行きたいの?」
この街をよく知っている彼らならリルのいる店がわかるかもしれないという打算のためだ。
情けなくはあるものの、魔塔の「使えるものは使え」精神を継ぐサリウスにとって、子供たちの存在は降って湧いた僥倖そのもの。利用しない手はない。
「リルという獣人がいるパン屋に行きたいんだが」
サリウスが目線を合わせるように腰をかがめると、子供たちは何を勘違いしたのか背中に飛び乗ってきた。
「リルお兄ちゃんのところ?」
「それなら僕わかるよ」
「僕も知ってる!」
生粋の武人に比べると軟弱なサリウスの足は、その衝撃で若干ぐらつくが、それでもなんとか持ちこたえる。
「悪いが降りてはくれないか」
子守りのために身を低くしたわけではない。あくまでも、リルを探す手伝いをさせるためだ。
しかし、こんな片田舎の都市くらいじゃそんな貴族の処世術など通用しない。まして純粋な子供相手なら尚更。
「えー」
「やだぁ」
すでに遊び道具としての地位を確立してしまったサリウスは、しばらくの間、奔放な彼らに好き勝手されるがままになってしまったのであった。
*
「ここだよ、ここ」
子供の案内でサリウスがようやくリルの店と思しき場所に着いたのは、街全体がこぞって店仕舞いを始めた頃だった。
陽はすでにほとんど落ちている。薄暗い最中に、思わず手を伸ばしたくなるような、ぼんやりとした灯りが内側から漏れ出ている。
例のパン屋も路面に接する窓から覗いた限り客はおらず、商品もほとんど残っていないようだ。
馬を適当なところに括りつけるなり、ウインドウガラスに張りついたサリウスに、
「おじさん入らないの?」
子供が不思議そうに尋ねる。
「そういうわけじゃ……」
ここまでリルに会うことだけを考え、真っ直ぐ、とはいかなかったが、それでもひたむきにこの地を目指してきた。
しかし、それがいざ目の前に現れるとサリウスは言い様もない居心地の悪さを感じざるを得なかった。
温かなレンガと木から成った小屋に、温かな照明と温かなパンの匂い。
それが自分には不釣り合いに思えて、扉を開けるのをためらってしまう。
「ふーん」
「変なの」
そんな心の葛藤をよそに子供たちはサリウスの背中で素直な感想を漏らす。
「せっかく来たのにねぇ」
「ねぇ」
年端も行かぬ者にはわからないだろう。
サリウスが内心溜息を零すと、
「じゃあ、僕たちだけでも入っちゃおう」
「賛成! 寒いもんね」
子供たちが勢いつけて、それまでしがみついていたサリウスの背から飛び降りた。
一遍に二つの高い体温に離れられ、先ほどまでは感じてもいなかった寒さに襲われる。
これくらいの方が慣れているはずなのに。むしろ氷魔法には最適な状態であるはずなのに、どこか虚しい。
「おじさんは来ないの?」
「中の方があったかいよ」
入口の鈴を鳴らし、戸を開いた隙間から子供が顔を覗かせていれば、さすがのサリウスも堪えかねて、ついに店の中へ踏み入ってしまった。
*
子供の言う通り店内は外よりも格段に暖かく、その上道端で嗅ぐよりもずっと濃くバターの香りがした。
すでにレジは閉めたのか、表には誰もいなかったが、奥の方ではガサゴソと人の気配がする。
さて、これからどうしようか。
そうサリウスが策を巡らせるまでもなく、
「リルお兄ちゃん!」
「お客さん連れて来たよ!」
子供たちは二人だけでさっさと裏手に入っていってしまう。
そんなところ関係者以外立ち入り禁止ではなかろうか。そう思わないでもないけれど、この短い間では彼らと店の関係は計りきれない。知り合いみたいだし、ここは任せてしまおう。
その選択は間違ってなどいなかったらしく、ほんの数秒のうちに、子供たちは目当ての人物をサリウスのところまで連れて来た。
「僕にお客さんって……?」
戸惑う素振りを見せながら、店の奥から姿を現したのは、紛れもなくリルだ。
毛が舞わないようにか、家で身に着けていたのとは違う割烹着のようなエプロンと三角巾を装備していたが、それでも彼であることは一目瞭然。
向こうもすぐにサリウスが誰か気づいたらしく、目が合うと、
「わぁあ! 来てくれたんですね」
にこやかに微笑んでくれた。
歓迎されていないわけではないようだ。
「あ、ああ」
あれほどまでにリルを求めていたサリウスであるが、実際に彼を前にすると何と声をかけていいのかわからなかった。
ただ再会できたことへの妙な感動というか、リルの存在が幻なんかじゃなかったことへの安堵というか。そんな言葉にしようもない感情がサリウスの胸を押し流す。
「どうしたんですか、サリウスさん。そんなところに立ってないで、こっちへいらしてください」
そうリルは勧めるが、初めて体感するようなあまりに大きな感情の波にサリウスはその場から一歩も動けずにいた。
しかし、リルもそれを咎めることはない。
彼は彼でサリウスに何かあったからこそ、リルとは住む世界の違うサリウスが王都から遥々訪ねて来たのだと察していた。
高貴な人の気苦労なんて知らないが、普段通りに振舞うことがリルにできる最大限のもてなしだ。
サリウスとてそんな事情を平民に見破られたなどと思いたくはないだろう。
だからリルは何気ない風を装って、
「もうほとんど売り切れちゃったんですけど、この間と同じものなら賄いでもらった分を取ってあるので……」
そう言って昼に食べそびれたパンを取り出しに行こうとしたのだが、
「待て」
サリウスの手が腕に伸ばされ、引き留められてしまった。
「え?」
まさかそんなことをされるなんて夢にも思っていなかったのであろう。リルは戸惑いの表情を浮かべるが、柄にもなく余裕のないサリウスはリルの困惑にも気づかず、勢いのまま口を開く。
「俺はお前に会いに来たんだ」
告げてしまってから「しまった」とサリウスは胸にわずかな後悔を滲ませたが、時すでに遅し。言葉に取り消し機能は存在しない。
「あ、いや、その」
リルが逃げてしまうのではないかと無意識のうちに危惧していたせいだ。本当はもっと取り繕った、気の利いた台詞を披露するはずだったのに。どうしてか、リルの前では格好がつかない。
皇帝の前でさえ動じたことなんてないのに、不思議と今はリルに変と思われたくないだけで緊張している。しかも、それも空回っているから救えない。
「おじさん、変なの」
「真っ赤だね」
子供たちにすら指摘される挙動不審ぶり。
こんなはずではなかった。颯爽とリルを迎えに行って、共にあの場所へ帰りたいだけだった。それなのにこのザマとは。
サリウスは地面に埋まってしまいたくてたまらなくなったが、
「そうだったんですね。おかえりなさい」
リルが満面の笑みで受け入れてくれたから。サリウスはもう何だって良かった。
文字通り押しつけられた書類の束を前に思わず声が漏れる。
長年の不眠を一夜にして解消した上に、栄養満点のスープまで飲み干したおかげで身体が軽く、通常の倍の業務をこなしてしまったのが災いして、サリウスの仕事は拒否権もないままに増えていた。
ただでさえ多忙な魔塔だ。人手はあればあるだけ良い。使えるものは全て使えと、少し余裕があると見れば、次から次へと面倒事が寄越される。しかも、そのほとんどがサリウスの不得手とするデスクワークときた。
寝不足のために頭はガンガンと痛み、空腹で集中は続かない。
しかし、ベッドに入る時間もなければ、横になったとしても上手く寝付けない。それなら食事はというと、偏食の気もあって粥さえも喉を通らないでいた。
「まずい」
あの出来事さえなければサリウスの「つまらない平穏」が崩されることなどなかったというのに。知ってしまってはもう後には引き返せない。
陽だまりの匂いがする掛け布と抱き枕なら眠れるかもしれぬと、使用人に用意させたが何かが違う。同じ野菜で同じメニューを作らせても、あの日に食べたスープの方が遥かに美味かった。
あの場所にしか「本当の平穏」は存在しないのか。
リルの家を離れてからもうじき二週間が経とうとしている。
王城に辿り着いた直後ならいざ知らず、快眠もバランスのとれた食事もない現状ではさすがのサリウスも限界を迎えつつあった。
「あの毛玉……」
去り際、もう二度と会うことはないだろうと思ったにも関わらず、すでにログハウスでのことが恋しくて堪らない。
出る時に玄関から見送ってくれた狼獣人の、控えめに手を振る姿がしきりに瞼の裏へ浮かぶばかり。
こんなこと今までになく、どうしていいかわからず戸惑うサリウスであったが、ただ一つ確かなのはリルの元へ戻りたいということだけだった。
いつになく手元が疎かなせいで同僚の間で「サリウスにも春が来たんじゃないか」と噂が飛び交った時には素直になれなかったが、自分の心にまでは嘘はつけない。
これを「春」というのかはわからないけれど、リルのことを想えば胸の奥はポカポカと熱を持つ。
寒い日が続いているおかげで身体は氷の魔力に満ちているのに。本来なら冬の方が調子は良いはずなのに。どうして今までにないくらい調子が悪いのか。
それもこれも、リルのことを考えるだけで温かな気持ちになってしまうせいなのか。
その答えをサリウスは密かに求めていた。
*
反旗を翻したのはそれからすぐのことだった。
「もう限界だ」
それだけ言い残すと、サリウスは馬を駆り王都から抜け出した。
魔塔課に宛がわれた部屋を去る直前、背後から阿鼻叫喚が聞こえた気がするがそれも全部無視だ。
自分の持ち分は終わらせたのだから文句を言われる筋合いもない。同僚の制止も上司からのお叱りも今はもうどうでもよかった。
ただ一刻も早くリルの傍に行きたかった。あの安らかな温もりを享受したかった。
馬車とは違って速度を出せるだけあって、目的の地には三刻を少し過ぎたあたりで着いた。それも日暮れ前。
職務放棄して来たものだから当然のことではあるが、ログハウスに人の気配はない。
他に民家も近くにはないので、人に尋ねることもできないけれど、リルはまだ仕事の最中のようで間違いないだろう。
それなのに、サリウスは拗ねた子どものようにムッとしてしまう。
「なんだ、留守か」
せっかく自分が王都から遠路遥々訪ねてやったというのに、家を空けるなんて。
先触れも出していないので理不尽なこととはわかっているが、期待を裏切られたような気になる。
「遅い、遅すぎる」
最初の十分ほどは足元の小石を蹴飛ばしたり、囀る小鳥の姿を探して辺りを見渡したりしたものだが、サリウスは段々と痺れを切らしていった。
「こんな時間まで仕事なんて店主はいったい何を考えているんだ」
冬の夕方は短く、日没に備えて影が伸びるのだって早い。いくら狼の獣人といえども、リルには獰猛さの欠片もない。変なやつでもいたら、あんな子なんて簡単に捕まってしまう。そうしたら……悪い想像が勝手に頭の中で膨らんで、サリウスは胸が苦しくなった。
「仕方がない。迎えに行ってやるか」
別にリルのことが心配なわけではない。あのパンを買い求めるついでだ。
さっきまで気にも留めていなかったパンを出しに、サリウスは馬をさらに走らせた。
リルの家は外れも外れ。あまり開けていないところに、ひっそりと佇んでいるが、それでいて街の中心まではそう遠くない。徒歩でも二十分とかからないであろう距離まで馬を進めると、静寂から一転、賑やかな街並みが広がっていた。
前回の大雪はすでに跡形もなく消え去り、ずらりと商店が立ち並ぶ通りの石畳もはっきりと姿を現している。
「さて、リルはどこか」
軒を連ねた一帯には似たような店などいくらでもある。郊外とはいえ、それなりに栄えた街だ。
それを認め、ここに来てサリウスは急激に不安になってきた。
土地勘のないサリウスにとっては看板を一つ一つ確認していくのは途方もなさすぎる。
いつもならそんなことをしなくとも、使用人に一言告げればこれしきのこと簡単に解決するというのに。
サリウスは己の非力を密かに恥じた。
そもそもパン屋だということしか聞き及んでいない。仮にパン屋を引当てたとして、そんなものこの商業地区にはいくらでもある。つまり、そこにリルがいるという保証はないのだ。
柄にもなく、無計画でここまで来てしまったツケが回ってきてしまったのだろうか。
身分に甘んじ、無意識に権威にあやかってきたサリウスにとって地道な調査はほとんど初めてのこと。
出鼻を挫かれたようなやるせなさに項垂れる。
急に手綱を放されたような覚束なさに襲われ、子供のように目に見えて落ち込むサリウスであったが、いつまでもそうしてばかりではいられない。
日暮れは近いのだ。リルを一人であんな森へ返すわけにはいかない。
商店街だって永遠に続いているわけではない。看板くらいいくらでも読んでやる。
そう決心し顔を上げた時、
「おじさん、どうしたの?」
サリウスはふいに声をかけられた。思わず周囲を見回すも誰もいない。
おかしい。
確かに呼ばれたのは自分のはずだ。それなのに立ち止まっているのは自分だけで、この街の住人はみな忙しなく行き交っている。
聞き違いだろうか。
不可解な現象にサリウスが眉を顰めると、
「こっちこっち、もっと下」
今度は別の声に誘導される。
その通りにグッと目線を下におろすと、果たして本物の子供たちがサリウスの足元にいた。
「おじさん、迷子?」
人間と獣人が一人ずつ。友達同士なのか種族を気にすることなく仲睦まじげに手を繋いでいる。
「迷子ってわけじゃ」
獣人と同じくらいサリウスは子供とも縁遠い。
内心タジタジになりながらも、心細さを悟られぬように努めて答えるが、幼き者は人の心に敏いらしい。
「僕たちに任せて!」
「大丈夫だよ!」
その甲斐虚しく、サリウスは彼らの中で見事迷子認定を受けてしまったらしい上に、慰められる始末。
ポンポンと尻尾で足を叩かれたり、物珍しそうにローブへと手を伸ばされたり、馬によじ登ろうとしたり。子供たちに好き放題されてはいるが、賢く躾けられた馬は動じていないし、サリウスとしても咎める気にならないのは、
「何を探しているの?」
「どこに行きたいの?」
この街をよく知っている彼らならリルのいる店がわかるかもしれないという打算のためだ。
情けなくはあるものの、魔塔の「使えるものは使え」精神を継ぐサリウスにとって、子供たちの存在は降って湧いた僥倖そのもの。利用しない手はない。
「リルという獣人がいるパン屋に行きたいんだが」
サリウスが目線を合わせるように腰をかがめると、子供たちは何を勘違いしたのか背中に飛び乗ってきた。
「リルお兄ちゃんのところ?」
「それなら僕わかるよ」
「僕も知ってる!」
生粋の武人に比べると軟弱なサリウスの足は、その衝撃で若干ぐらつくが、それでもなんとか持ちこたえる。
「悪いが降りてはくれないか」
子守りのために身を低くしたわけではない。あくまでも、リルを探す手伝いをさせるためだ。
しかし、こんな片田舎の都市くらいじゃそんな貴族の処世術など通用しない。まして純粋な子供相手なら尚更。
「えー」
「やだぁ」
すでに遊び道具としての地位を確立してしまったサリウスは、しばらくの間、奔放な彼らに好き勝手されるがままになってしまったのであった。
*
「ここだよ、ここ」
子供の案内でサリウスがようやくリルの店と思しき場所に着いたのは、街全体がこぞって店仕舞いを始めた頃だった。
陽はすでにほとんど落ちている。薄暗い最中に、思わず手を伸ばしたくなるような、ぼんやりとした灯りが内側から漏れ出ている。
例のパン屋も路面に接する窓から覗いた限り客はおらず、商品もほとんど残っていないようだ。
馬を適当なところに括りつけるなり、ウインドウガラスに張りついたサリウスに、
「おじさん入らないの?」
子供が不思議そうに尋ねる。
「そういうわけじゃ……」
ここまでリルに会うことだけを考え、真っ直ぐ、とはいかなかったが、それでもひたむきにこの地を目指してきた。
しかし、それがいざ目の前に現れるとサリウスは言い様もない居心地の悪さを感じざるを得なかった。
温かなレンガと木から成った小屋に、温かな照明と温かなパンの匂い。
それが自分には不釣り合いに思えて、扉を開けるのをためらってしまう。
「ふーん」
「変なの」
そんな心の葛藤をよそに子供たちはサリウスの背中で素直な感想を漏らす。
「せっかく来たのにねぇ」
「ねぇ」
年端も行かぬ者にはわからないだろう。
サリウスが内心溜息を零すと、
「じゃあ、僕たちだけでも入っちゃおう」
「賛成! 寒いもんね」
子供たちが勢いつけて、それまでしがみついていたサリウスの背から飛び降りた。
一遍に二つの高い体温に離れられ、先ほどまでは感じてもいなかった寒さに襲われる。
これくらいの方が慣れているはずなのに。むしろ氷魔法には最適な状態であるはずなのに、どこか虚しい。
「おじさんは来ないの?」
「中の方があったかいよ」
入口の鈴を鳴らし、戸を開いた隙間から子供が顔を覗かせていれば、さすがのサリウスも堪えかねて、ついに店の中へ踏み入ってしまった。
*
子供の言う通り店内は外よりも格段に暖かく、その上道端で嗅ぐよりもずっと濃くバターの香りがした。
すでにレジは閉めたのか、表には誰もいなかったが、奥の方ではガサゴソと人の気配がする。
さて、これからどうしようか。
そうサリウスが策を巡らせるまでもなく、
「リルお兄ちゃん!」
「お客さん連れて来たよ!」
子供たちは二人だけでさっさと裏手に入っていってしまう。
そんなところ関係者以外立ち入り禁止ではなかろうか。そう思わないでもないけれど、この短い間では彼らと店の関係は計りきれない。知り合いみたいだし、ここは任せてしまおう。
その選択は間違ってなどいなかったらしく、ほんの数秒のうちに、子供たちは目当ての人物をサリウスのところまで連れて来た。
「僕にお客さんって……?」
戸惑う素振りを見せながら、店の奥から姿を現したのは、紛れもなくリルだ。
毛が舞わないようにか、家で身に着けていたのとは違う割烹着のようなエプロンと三角巾を装備していたが、それでも彼であることは一目瞭然。
向こうもすぐにサリウスが誰か気づいたらしく、目が合うと、
「わぁあ! 来てくれたんですね」
にこやかに微笑んでくれた。
歓迎されていないわけではないようだ。
「あ、ああ」
あれほどまでにリルを求めていたサリウスであるが、実際に彼を前にすると何と声をかけていいのかわからなかった。
ただ再会できたことへの妙な感動というか、リルの存在が幻なんかじゃなかったことへの安堵というか。そんな言葉にしようもない感情がサリウスの胸を押し流す。
「どうしたんですか、サリウスさん。そんなところに立ってないで、こっちへいらしてください」
そうリルは勧めるが、初めて体感するようなあまりに大きな感情の波にサリウスはその場から一歩も動けずにいた。
しかし、リルもそれを咎めることはない。
彼は彼でサリウスに何かあったからこそ、リルとは住む世界の違うサリウスが王都から遥々訪ねて来たのだと察していた。
高貴な人の気苦労なんて知らないが、普段通りに振舞うことがリルにできる最大限のもてなしだ。
サリウスとてそんな事情を平民に見破られたなどと思いたくはないだろう。
だからリルは何気ない風を装って、
「もうほとんど売り切れちゃったんですけど、この間と同じものなら賄いでもらった分を取ってあるので……」
そう言って昼に食べそびれたパンを取り出しに行こうとしたのだが、
「待て」
サリウスの手が腕に伸ばされ、引き留められてしまった。
「え?」
まさかそんなことをされるなんて夢にも思っていなかったのであろう。リルは戸惑いの表情を浮かべるが、柄にもなく余裕のないサリウスはリルの困惑にも気づかず、勢いのまま口を開く。
「俺はお前に会いに来たんだ」
告げてしまってから「しまった」とサリウスは胸にわずかな後悔を滲ませたが、時すでに遅し。言葉に取り消し機能は存在しない。
「あ、いや、その」
リルが逃げてしまうのではないかと無意識のうちに危惧していたせいだ。本当はもっと取り繕った、気の利いた台詞を披露するはずだったのに。どうしてか、リルの前では格好がつかない。
皇帝の前でさえ動じたことなんてないのに、不思議と今はリルに変と思われたくないだけで緊張している。しかも、それも空回っているから救えない。
「おじさん、変なの」
「真っ赤だね」
子供たちにすら指摘される挙動不審ぶり。
こんなはずではなかった。颯爽とリルを迎えに行って、共にあの場所へ帰りたいだけだった。それなのにこのザマとは。
サリウスは地面に埋まってしまいたくてたまらなくなったが、
「そうだったんですね。おかえりなさい」
リルが満面の笑みで受け入れてくれたから。サリウスはもう何だって良かった。
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しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
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