漢方薬局「泡影堂」調剤録

珈琲屋

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深き霧 まとう

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夏祭り当日は思ったより曇天で、時々雨交じりでジメッとした日だった。

「……おにい、これ晴れるかな? 雨天中止にならないといいけど……」

浴衣だかワンピースだかよくわからない服を、あれこれ鏡の前に引っ張り出していた妹が、ひょいと俺達の部屋の窓を覗いて言う。

「……どうだろうな、まあ……雨にならないといいな」

参考書から顔を上げて、キィッとイスを回すと俺も同じく窓の向こうを見上げた。
家の方は白い雲で覆われてるけど、空の向こう側は重たるく暗い雲が出始めてるから、もう一雨二雨きそうだ。

「ウーン、どうしよ……。雨で濡れちゃうなら、こっち止めてそっちにしようかなあ……。せっかくお友達とお揃いの作ったのにー」

咲子がウンウン言いながら、衣装を端っこに置いてスマホを弄るのを背に、俺もそっとスマホを出した。


一日に一つずつ。
俺とセンセのやり取りが一個ずつ並んでいて、指で上にスワイプすると、この前送ったお土産の返事が出てくる。
待ってます、と一言だけ。

センセに無理やり押し付けた約束も、俺はあの時聞いた言葉からセンセの瞬き一つだって鮮明に思い出せるけど、文面で約束したわけじゃないから、本当は破られても俺にはわからない。
でも、センセはそういうのちゃんと守る人だって知っている。
知っていても、ちょっと不安だったから、全然別の「待っている」だって解ってても、この返事はなんとなく嬉しかった。
しばらく眺めてからそっと画面を撫でて、改めて参考書に視線を戻す。
試験まであとひと月もない。


俺がセンセとこの先にすすめるかもしれないチャンスをしっかりつかむためにも、これは負けられない戦いだった。








センセんちに行く前に一時間だけ時間を作って、俺は家のメシと別にサッパリした野菜のおかずとセンセの好物のこってり肉料理をいくつか作って、タッパーに詰めておいた。
たぶん、そろそろバイトの最終日に作っておいた冷凍のストックが切れる頃だ。
タッパーの中身はフリーザーバッグで一回分ずつ小分けにしてあるし、そのまま冷凍庫に入れてもらうだけだから、センセでも多分できると思う。たぶん。

たった一か月二か月前なのに、咲子と並んでセンセんちの裏口を抜けるとすごい緊張感がある。
チャイムを押す前に、俺が深呼吸していると隣からフリフリのレースがたくさんついた浴衣の袖がスイッと出てきて、勝手にチャイムを押してしまった。

「…………咲子」

「ごめん、おにい。でも待ってるとずーっとかかりそうだったんだもん」

ペロッと一瞬舌を出す妹に深くため息をついて、玄関の戸に視線を戻すと、むこう側からいつものセンセのふわふわした「はーい」という声が聞こえて、続いていつもみたいにバタバタと戸が引き開けられる。
玄関前で待ってた咲子がキャイキャイと挨拶するのを見ながら、垣間見えたセンセに俺も一つ頭を下げておく。
たった数か月でそんなに変わることもないだろうと思ってたけど、確かにセンセはいつも通りのふわふわな笑顔だった。元気そうでちょっと安心する。

「お久しぶりです、センセ」

土産と一緒に持ってきたタッパーの入った袋を一緒に差し出す。
咲子はとっくに先に居間へと行っていて、今、廊下には俺とセンセしかいない。
嬉しそうに受け取ってくれたセンセの笑顔とか、その優しい声とかをずっと確認していたかったけど、それだとせっかくの俺の決意が鈍ってしまいそうで、でも触りたくもあって。
逡巡しているうちに、センセが土産を持って台所にいってしまったので、俺はすごすごと居間へ入った。

「……おにい、今日来てよかったでしょ?」

「良かったというか、なんというか……」

「……え、でもセンセに会えてあんなに嬉しそうだったのに」

会話しながらもスマホをいじり始めた妹をチラッと見て、もう一度出入り口に視線を移す。
スイカ切るとか言ってたけど、俺がやった方が早かったんじゃないだろうか。

「……嬉しくないとは言ってない」

「まったくもう、素直じゃないんだから、おにいは……」

そこでセンセの足音が聞こえたので、お互いにふつと声を切って黙った。

……確かに会いたかった。
一目見れればそれでいいと思ってたけど、会ってしまうと話をしたくなるし、触りたくなるし、もう受験は取りやめてセンセのとこで働けばいいんじゃないか、なんて最低な発想まで出てしまう。
でもそれは今まで頑張ってきた俺自身も、待ってくれるとあの日頷いてくれたセンセも裏切ることで、絶対に出来ない。
だけど、今日あと少しくらいは。

センセが明るいやさしい声で咲子と会話をしているのを聞きながら、俺はもう少しだけ、あとちょっとでいいからセンセと長くいられないかをずっと考えていた。






色々考えた割にパッと思い付いたのは、平凡な去年とほぼ似たようなコースだった。
それでも特に文句も言わずにセンセがついてきてくれる。
人混みに入る前につないだ手は、人気がなくなっても離す気はなくて、少しでもこの時間を引き延ばしたくて、無理やり小学生の頃よく通った、猫の通り道みたいな回り道をして連れ回した。
センセがきょとんとした顔で、夢うつつみたいな表情で、それでもずっと俺の湿った手をしっかり握りしめてくれるのが嬉しい。
辿り着いたのは、去年と同じ廃ビルの屋上だったけど。


去年はカラッと晴れていたのに、今日は雨が何度か降った後で曇天だったから、違いはコンクリがじんわり湿っていることくらいだ。
それでも、服が濡れるほどではなくて、二人してしばらく屋台の食い物を黙々と食べた。
お好みとタコ焼きだったから、湿った空気に濃いソースの匂いが乗って、風ですぐに流れていく。
こういう時、ちゃんと告白さえ出来てれば、もし俺の気持ちが受け取って貰えていたなら、キスとか出来たんだろうな。
……俺がまだ一人前じゃなくて、センセに対等に見てもらえてない状態だと、そこまでも持ってけやしないけど。
隣同士の少しの距離を、肩が触れる程度に詰めてもう一度センセの手を握る。


勇気を出してセンセの顔を見れば、なんだかいつものふわふわな笑顔にほんのり寂しさが見えて、思わず俺も口を開いた。

「もうちょっとだけ待っててください。絶対受かるんで。もうちょっとだけ」

「……うん」

寂しい色に混じって、ハジメさんの顔が少し大人の顔になる。思いつめたような、そんな色。
センセが数年に一回くらいなる、自己反省して痛い所をわざとグリグリつつくような、そんなことをしそうな顔だった。


俺にとってのハジメさんは、別に大人でなくていいのに。
しっかりしてなくていいし、ふわふわで、だらしなくて、おっきな傷を隠しきれなくて、優柔不断で、辛いことから全力で逃げているセンセで全然いい。
ただ、そのままで、誰にもこの手を繋いだり隣に座ったりするような位置を、明け渡さずに待っていてほしいだけだった。


だから、もう一度だけ「待っててくださいね」と呟いた。
きっと本人に、俺の意図は伝わらないんだろうけれど。
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