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大雨 時々降る
61 ※先生視点
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薬局の入り口のドアを開くと、まだ早朝なのにもわっとした熱気が入ってきた。
例年通りとはいえ、8月に入っていくらか経った今日は特に暑くて、夏の高い青空の下、やる気いっぱいな太陽を恨めしげに見たくもなる。見ないけど。
すでに動き出している近くの商店街の賑わいを遠目に見ながら、いつも通りに店の開店準備をする。
基本、俺のルーチンワークに変わりはない。
誰が来ても、誰がいなくなっても。
キヨくんが薬局に来なくなって1か月と少しが過ぎた。
現状リンちゃん含めて二人しかいないため、彼がしてくれていた仕事は、俺の手に回ってくる。
頑張ればできない訳じゃないけど、ちょっとした掃除や在庫の整理でも、彼のしてくれていたのが相当手際が良かったのだと、自分でやってみるとよく分かった。
前にも一回あったことだ。
中学三年の最後にも彼は一度、「忙しいので」って理由でここから離れている。
あの時は薬局の掃除も家の手入れも、手を掛けると余計に彼の不在が目立ちそうで、意図的にやってなかった気がする。だからリンちゃんに「それは甘えだ」って言われ続けてたんだろうけど。
今度はもう彼は帰ってこない。
だから、俺がちゃんと、一人でも全部出来るようにならないと。
「……あーもー、暑! ……おはよ、ハジメくん」
午前中にポツポツと来た常連さんの対応をして、不足した分の調薬をしていると、ふらっと表からリンちゃんが入ってきた。
今日はシンプルな白のTシャツにサマーカーディガン、南の海みたいな色合いの青い長いスカートで、いつもここに来るとき着てる服より何だか私服っぽい。
「おはよう、リンちゃん。 ……どうしたの、今日早くない?」
いつもなら出勤してくるの、昼過ぎ回るか夕方近いくらいなのに。
まだ全然午前中終わったばかりで、なんなら、調薬終わったらこれからお昼にしようかな、なんて考えていたところだった。
「病院も今日は休みだもの。家から直行できたのよ。ハジメくんも、こんな暑いんだから今日はお休みにしちゃえばよかったのに」
「あ、そうか、世間的には夏休みなんだっけ。病院の方お休みなんだったら、連絡くれればリンちゃん休んでも良かったのに」
俺がそういうと、リンちゃんがいつものように長い髪をポニーテールにまとめながら、俺の方をチラッと見て器用に片眉を上げて見せた。
「……ふーん、ハジメくん一人で期限までにこの書類処理できると思う? 無理でしょ? これが無ければ私もとっくにおうちでゆっくりしてたけど」
そう言ってリンちゃんが指さしたのは、診察台の隣に積まれた書類の山だ。
いわゆる保険診療報酬、レセプトって奴で、俺が継いだ頃から大体リンちゃんに任せっきりになっていたから、リンちゃんの不在時を除き、俺があんまり手を出さなかったタイプの仕事だった。
ただ、この前みたいにリンちゃんから「いなくなるかもしれない可能性」を出された以上、これも俺が覚えておかないといけない仕事になった。
とりあえず今は手が空いた時間に、リンちゃんの横でやり方を見ながら教わっている最中だ。
「……毎回思うけど、症例的には合ってるのに、この方剤出すと審査通らないのおかしくない?」
「私に言ってもしょうがないでしょ、審査してる方にちゃんと文句言ってよね。……あー、もうハジメくん、ここ違うって言ってるでしょう!こっちの下の薬選んでよ……ほら、こっち」
「えー……。だって同じ方剤なのに……」
診療セットのパソコンを睨みながら、あーでもない、こーでもないと俺達がブツブツ言うのは、電子カルテの内容で、選択肢は全く同じなのに選び方によってエラーになってしまうという、よくわからない審査基準についてだ。
「ハジメくん、もうこれはねえ、機械的にやるしかないの。この症例だったら、このプルダウンの七個目、みたいな感じで覚えるしかないの。分かった?」
一応、俺に教えながらもテキパキと今月分の処理を終えて、すっかり疲れ切ったらしいリンちゃんが、ぐったり椅子に凭れながら視線だけ鋭く俺に向ける。
「なんで紙で提出できなくなっちゃったんだろ……。あれなら手書きするだけでよかったのに……」
「私もアレの方が処理楽だったけど、なくなっちゃったものはしょうがないでしょ! あー、疲れたー……。今、なんか甘いものある?」
「あ、うん、ちょっと待っててね、見てくる」
「……あ、じゃあ、ついでに冷蔵庫からハイビスカスティー取って来て。昨日作っといたの入れてあるから」
「はーい」
家と薬局を繋ぐ廊下を歩きながら、冷蔵庫の中身を思い出す。
昨日貰ったケーキは確か食べちゃったけど、一緒に貰った焼き菓子の箱は確かまだ入ってたはず。
急ぎ足で台所に向かって、冷蔵庫を開けると、思った通りに焼き菓子とリンちゃん特製のハイビスカスティーが入っていた。
取り出すのと一緒になんとなく空腹感を感じて、奥の方に入れておいたタッパーも取り出す。
そう言えば、昼ご飯も食べ逃してたんだった。
「コレ何だろ……鶏肉っぽいけど……、あ、チキン南蛮って書いてあった」
コレは、キヨくんが辞める直前に、たっぷり作って冷凍して置いていってくれたご飯の一部で、小分けにしてくれてあるから、こういうお昼とか疲れ切った日の夕飯なんかに引っ張り出して食べることにしている。
もちろん、キヨくんのご飯だからものすごく美味しいんだけど、それだけじゃなくて食べると心がふわっと暖まるような気がして。
大事に大事に食べているとっておきのご飯だった。
いつものようにレンジで温めながら、終わるまでのしばしを台所で待つ。
そうすると、すぐそこのシンクの前で洗い物かなんかしながら、俺に話しかけてくるキヨくんの後姿が見える気がするのだ。
明るく笑って、仕方ないなと言いたげな顔で振り返ってくれるキヨくんが。
古いレンジが電子音を立てて、出来上がりを知らせてくるまで、俺はずっとその幻の背中を見ていた。
夕暮れ時、店を閉めてから日課のランニングを終えて、軽く風呂で汗を流してから居間に戻ると、真っ先にスマホを手に取った。
この時間帯になると、運が良ければキヨくんからメールがくる。
大体今日学校であったこととか、友達が何を話していたとか、昨日の俺のメールへの返事とか。
ようやく慣れてきたスマホの通知を調べてみると、今日も確かに一通届いていた。
「……あ、そうか、咲子ちゃん帰って来てるんだ。 そうだねえ、夏休みだもんね」
心なしか、キヨくんの文面もちょっとイキイキしてるから、久しぶりの咲子ちゃんに会えて嬉しいんだろうな。
そのまま下にスクロールすると、「お土産持ってきます」とちょっと離れて一言だけ書いてあった。
まだ水滴の滴る髪を適当にタオルで拭いていた手はそのまま、ちょっとだけ文面を考える。
確か試験は来月だから、キヨくんは今追い込み中のはずで、じゃあせっかくだからお祭りにでも、なんてことは書けない。
家に来るとしても、たぶん一瞬顔を見られるくらい。
それでも、俺としては嬉しいけれど。
だって、冬までは、キヨくん達に何かある時以外は、ここで顔を見られないと思っていた。
視覚の端っこを通り過ぎるみたいに、幻のように過去のキヨくんの残像が見れるくらいには、もう来ないと思っていたので。
ポチポチとゆっくりした動作でいつもの近況報告を書いたその下に、「待ってます」とだけ一言付け加えておいた。
例年通りとはいえ、8月に入っていくらか経った今日は特に暑くて、夏の高い青空の下、やる気いっぱいな太陽を恨めしげに見たくもなる。見ないけど。
すでに動き出している近くの商店街の賑わいを遠目に見ながら、いつも通りに店の開店準備をする。
基本、俺のルーチンワークに変わりはない。
誰が来ても、誰がいなくなっても。
キヨくんが薬局に来なくなって1か月と少しが過ぎた。
現状リンちゃん含めて二人しかいないため、彼がしてくれていた仕事は、俺の手に回ってくる。
頑張ればできない訳じゃないけど、ちょっとした掃除や在庫の整理でも、彼のしてくれていたのが相当手際が良かったのだと、自分でやってみるとよく分かった。
前にも一回あったことだ。
中学三年の最後にも彼は一度、「忙しいので」って理由でここから離れている。
あの時は薬局の掃除も家の手入れも、手を掛けると余計に彼の不在が目立ちそうで、意図的にやってなかった気がする。だからリンちゃんに「それは甘えだ」って言われ続けてたんだろうけど。
今度はもう彼は帰ってこない。
だから、俺がちゃんと、一人でも全部出来るようにならないと。
「……あーもー、暑! ……おはよ、ハジメくん」
午前中にポツポツと来た常連さんの対応をして、不足した分の調薬をしていると、ふらっと表からリンちゃんが入ってきた。
今日はシンプルな白のTシャツにサマーカーディガン、南の海みたいな色合いの青い長いスカートで、いつもここに来るとき着てる服より何だか私服っぽい。
「おはよう、リンちゃん。 ……どうしたの、今日早くない?」
いつもなら出勤してくるの、昼過ぎ回るか夕方近いくらいなのに。
まだ全然午前中終わったばかりで、なんなら、調薬終わったらこれからお昼にしようかな、なんて考えていたところだった。
「病院も今日は休みだもの。家から直行できたのよ。ハジメくんも、こんな暑いんだから今日はお休みにしちゃえばよかったのに」
「あ、そうか、世間的には夏休みなんだっけ。病院の方お休みなんだったら、連絡くれればリンちゃん休んでも良かったのに」
俺がそういうと、リンちゃんがいつものように長い髪をポニーテールにまとめながら、俺の方をチラッと見て器用に片眉を上げて見せた。
「……ふーん、ハジメくん一人で期限までにこの書類処理できると思う? 無理でしょ? これが無ければ私もとっくにおうちでゆっくりしてたけど」
そう言ってリンちゃんが指さしたのは、診察台の隣に積まれた書類の山だ。
いわゆる保険診療報酬、レセプトって奴で、俺が継いだ頃から大体リンちゃんに任せっきりになっていたから、リンちゃんの不在時を除き、俺があんまり手を出さなかったタイプの仕事だった。
ただ、この前みたいにリンちゃんから「いなくなるかもしれない可能性」を出された以上、これも俺が覚えておかないといけない仕事になった。
とりあえず今は手が空いた時間に、リンちゃんの横でやり方を見ながら教わっている最中だ。
「……毎回思うけど、症例的には合ってるのに、この方剤出すと審査通らないのおかしくない?」
「私に言ってもしょうがないでしょ、審査してる方にちゃんと文句言ってよね。……あー、もうハジメくん、ここ違うって言ってるでしょう!こっちの下の薬選んでよ……ほら、こっち」
「えー……。だって同じ方剤なのに……」
診療セットのパソコンを睨みながら、あーでもない、こーでもないと俺達がブツブツ言うのは、電子カルテの内容で、選択肢は全く同じなのに選び方によってエラーになってしまうという、よくわからない審査基準についてだ。
「ハジメくん、もうこれはねえ、機械的にやるしかないの。この症例だったら、このプルダウンの七個目、みたいな感じで覚えるしかないの。分かった?」
一応、俺に教えながらもテキパキと今月分の処理を終えて、すっかり疲れ切ったらしいリンちゃんが、ぐったり椅子に凭れながら視線だけ鋭く俺に向ける。
「なんで紙で提出できなくなっちゃったんだろ……。あれなら手書きするだけでよかったのに……」
「私もアレの方が処理楽だったけど、なくなっちゃったものはしょうがないでしょ! あー、疲れたー……。今、なんか甘いものある?」
「あ、うん、ちょっと待っててね、見てくる」
「……あ、じゃあ、ついでに冷蔵庫からハイビスカスティー取って来て。昨日作っといたの入れてあるから」
「はーい」
家と薬局を繋ぐ廊下を歩きながら、冷蔵庫の中身を思い出す。
昨日貰ったケーキは確か食べちゃったけど、一緒に貰った焼き菓子の箱は確かまだ入ってたはず。
急ぎ足で台所に向かって、冷蔵庫を開けると、思った通りに焼き菓子とリンちゃん特製のハイビスカスティーが入っていた。
取り出すのと一緒になんとなく空腹感を感じて、奥の方に入れておいたタッパーも取り出す。
そう言えば、昼ご飯も食べ逃してたんだった。
「コレ何だろ……鶏肉っぽいけど……、あ、チキン南蛮って書いてあった」
コレは、キヨくんが辞める直前に、たっぷり作って冷凍して置いていってくれたご飯の一部で、小分けにしてくれてあるから、こういうお昼とか疲れ切った日の夕飯なんかに引っ張り出して食べることにしている。
もちろん、キヨくんのご飯だからものすごく美味しいんだけど、それだけじゃなくて食べると心がふわっと暖まるような気がして。
大事に大事に食べているとっておきのご飯だった。
いつものようにレンジで温めながら、終わるまでのしばしを台所で待つ。
そうすると、すぐそこのシンクの前で洗い物かなんかしながら、俺に話しかけてくるキヨくんの後姿が見える気がするのだ。
明るく笑って、仕方ないなと言いたげな顔で振り返ってくれるキヨくんが。
古いレンジが電子音を立てて、出来上がりを知らせてくるまで、俺はずっとその幻の背中を見ていた。
夕暮れ時、店を閉めてから日課のランニングを終えて、軽く風呂で汗を流してから居間に戻ると、真っ先にスマホを手に取った。
この時間帯になると、運が良ければキヨくんからメールがくる。
大体今日学校であったこととか、友達が何を話していたとか、昨日の俺のメールへの返事とか。
ようやく慣れてきたスマホの通知を調べてみると、今日も確かに一通届いていた。
「……あ、そうか、咲子ちゃん帰って来てるんだ。 そうだねえ、夏休みだもんね」
心なしか、キヨくんの文面もちょっとイキイキしてるから、久しぶりの咲子ちゃんに会えて嬉しいんだろうな。
そのまま下にスクロールすると、「お土産持ってきます」とちょっと離れて一言だけ書いてあった。
まだ水滴の滴る髪を適当にタオルで拭いていた手はそのまま、ちょっとだけ文面を考える。
確か試験は来月だから、キヨくんは今追い込み中のはずで、じゃあせっかくだからお祭りにでも、なんてことは書けない。
家に来るとしても、たぶん一瞬顔を見られるくらい。
それでも、俺としては嬉しいけれど。
だって、冬までは、キヨくん達に何かある時以外は、ここで顔を見られないと思っていた。
視覚の端っこを通り過ぎるみたいに、幻のように過去のキヨくんの残像が見れるくらいには、もう来ないと思っていたので。
ポチポチとゆっくりした動作でいつもの近況報告を書いたその下に、「待ってます」とだけ一言付け加えておいた。
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