漢方薬局「泡影堂」調剤録

珈琲屋

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蟷螂 生ず

57 ※先生視点

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バタバタと来て慌ただしく帰っていった関さんを見送って、季節は6月、梅雨に入っていた。
梅雨時は空気が重くなるから、なんとなく匂いが残りやすい。
うちの薬局は取り扱い品が漢方だから特にそうだ。

「私も慣れてるつもりではいたけど、この季節臭いこもるのよね……、換気しても外の方が湿気凄いし」

「うん、エアコン除湿でつけとくね。ちょっと乾燥するし、臭いマシになるから……そうだ、キヨくん、倉庫に乾燥材って残ってる?」

あの夜の後、次の日の朝に俺が気づいた時には、キヨくんはいつも通り朝ご飯を作りに台所に立ってくれていて、それからも何が変わるでもない、いつも通りの彼だった。
今日も、こうして忙しい時間を縫って、残り少ないバイトに出てくれている。

「はい、あー……でも、買っといた方がいいかもですね。どうせ今年も夏は長いでしょうから。余っても来年使えますし」

倉庫を確認に行ってくれたキヨくんの声を聞いて、在庫表に乾燥材の事を書き入れながら、来年、と口の中でつぶやく。
今年の冬には結果が出るらしいそれの申し込みを、この前、彼がここで書いて届けに行っているのを見た。
確かに市役所から近いなら、郵送より手渡しで渡してしまった方が早いんだろう。
彼が多分、中学から準備していてコツコツと積み上げてきた努力の結果が、そろそろ試される頃だ。

口を開いて、閉じて、飲み込んだ声をそのままに、片づけなきゃいけない分の調剤をする。




いつかリンちゃんがいったみたいに、あの件があってから、俺はちゃんと向き合っては生きてこなかった。
自分にも、他人にも、何にも。

あの件で手酷くやられたキズはいまだにそのまま放置しているし、薬局を継いだのも流されるままで、自分の気持ちとも上手く向きあえてはいない。
逃げて見ないふりをしていれば、痛みも、責任も、よく解らない自分も、すべてキレイになくなるんじゃないかと思って。

でも、キヨくんはそういう俺を一つ一つ、宥めて、手を繋いで、一緒にいてくれた。
人の体温に慣れたのも、人肌が触れても大丈夫になったのも、人と一緒に暮らしても平気になったのも、彼が心を砕いて、手をかけてくれたからだ。
あの夜、一つ一つ確認するように確かめていたのは多分、彼が誰よりも俺の傷を心配してくれていたからで、トラウマを刺激しないようにって配慮だったのはよくわかっている。

体を押さえつけられても、体の上に乗られても平気なのは、たぶんこの世でキヨくんだけだ。


「…………センセ?」

在庫表を眺めてそのまま考え込んでいた俺を見つけて、キヨくんが訝しげに声をかけてくる。

「あ、ゴメン。何でもないよ、ちょっと他に足りない在庫ないかなって確認してた」

「……そうですか。こっち大体終わったんで、俺、家の方でメシの支度しちゃいますね」

「うん、いつもありがと、キヨくん」


家と薬局の間を繋ぐ廊下を、家の方へ歩いていくキヨくんの後姿を見送って、俺は彼がいなかった一年、それも見ないふりでやり過ごしていたのを思い出した。
……今度はもう見ないふりは出来ない。
俺は、あの件があってから初めて、自分と自分の抱えている事とちゃんと向き直ることに決めた。


あまりにも長いこと放置してきたから、キヨくんがいない半年程度で片付くかは、ちょっとわからないけれど。










「…………ハジメくん」

「……なに? リンちゃん」

リンちゃんが打つ軽やかなパソコンのタイピング音と、俺が使っている乳鉢のゴリゴリした独特の音だけが響く中、リンちゃんがポツと俺の名を呼んだ。

「私も、ずっといるとは思わないでね。 …………今回、関さんから改めて聞かれて、私は日本から出ないってつい言っちゃったけど。この国にいたとしても、この先いつも、この薬局に来れるとは限らないから」

「…………そうだね。いろんな事情が出来ると思う。まだ、これから先の人生っていうのもあるから。 ……リンちゃんは色々キツイこともいうけど、心配してくれてのことだってちゃんと俺も解ってるよ」

「……そうね、分かってて動かないのがハジメくんよね。 ……キヨくんには、何か、答えてあげたの?」

「………………」

その問いには答えずに、一旦乳鉢ですり終わった薬を薬方紙に包み、残った薬剤を片付けた。

「…………ハジメくん?」

「うん。……今日はもう早仕舞いしようと思って。終わったら珈琲淹れるから、リンちゃんはなんかお菓子提供してよ。珈琲豆がキャラメルモカだから、クッキーが合うと思う」

「……ちょっと、勝手に私のお菓子食べようとしないでよね、もう! ……まあ、いいわ」

二人で素早く店仕舞いをして、俺は改めてミニキッチンにコーヒーを沸かしに行った。
しばらくして出来上がったコーヒーの甘いキャラメルの匂いに包まれながら、カウンターにクッキー缶とマグを3つ並べて、リンちゃんはスツールで、俺は立ったままおやつにする。

「……そのマグ、キヨくんの分?」

「……うん。キヨくん、最近カフェオレ好きだし、匂いだけで甘くはないから飲むかなと思って。 この前、フレーバーコーヒー入れた時も、結構気に入って飲んでたし。 こうしてラップしとけば、あとで冷めてもレンジで温め直せるしね」

「ふーん。  ……で、どうなのよ」

「…………、これ答えなかったらどうなるの?」

「……逆に無事でいられると思うの?」

「……はい、ごめんなさい」

なんかリンちゃんがその細くて白い指を握り込みそうだったから、素早く謝っておいた。
……ホントに関さん、リンちゃんのどこがそんなに好きになったのかな……。こんな怖いのに……。

俺がちょっと考えてる間に、リンちゃんはコーヒーとクッキーをいくつか摘まんで、ため息をついた。

「……まあ、いいわ。 ハジメくんがちゃんと考えて答えたなら、どっちでも。 最近のキヨくん、すごくスッキリした前向きな顔してたから、何かを伝えたんだろうとは思ったの。 ……良かったわね」

マグをカウンタに上品に置いたリンちゃんが、珍しく俺に向かってニッコリ笑っている。

「…………え?」

「ハジメくんも少し向き合う気になったんでしょう。 私だって、伊達にハジメくんと付き合い長くないのよ。……というか、本当にお尻叩くの大変なんだからもう、このハジメくんは!」

「うん……。いた、リンちゃん、痛いっ、叩かないで」

そのまま、背中をバシバシ叩かれて、俺は涙目になりながらキヨくんの分のコーヒーを持って家の方へ逃げた。



だから、後ろで何だか晴れやかに笑ってたリンちゃんの笑顔は見えなかった。
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