漢方薬局「泡影堂」調剤録

珈琲屋

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蟷螂 生ず

55 ※先生視点

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リンちゃんは本名をアオヤギ・リンちゃんといい、俺の父方のいとこにあたる。
青い柳にマッチなんかに塗ってある燐、と書くのが本当は正しい。
意識するのはリンちゃん宛の郵便が薬局に届いた時くらいだけど。
リンちゃんちでの保管が面倒だからって、医者関係の書類や論文や荷物の送り先、全部うちの薬局宛にするの本当に止めてほしい……。

俺の爺さんには息子が二人いて、つまりはリンちゃんの親父さんと俺の父だ。
リンちゃんの親父さんが長男だから、本来はこの薬局はリンちゃんちが継ぐ予定だったらしい。
ただ、それが嫌だったのか、リンちゃんの親父さんは結婚した相手の家にさっさと婿に行ってしまい、だからと言って俺の親父は元々父親と反発していたので、絶対に跡取りになったりはしない。
息子二人にそっぽを向かれ、爺さんは家庭に問題のあった次男から手元に引き取っていた孫に目を付けた。
つまり、それが俺だ。

ただ、俺があんまりしっかりしておらず、あまりにもぼーっとしていたため、長男一家が忙しい時よく預かっていたリンちゃんにも同時に目を付けた。
リンちゃんはちっちゃい頃からシッカリしてたし、今の性格の片鱗もあったから、確かにリンちゃんに継いで貰えたなら何の問題もなかっただろう。

しかし、リンちゃんは親父さん譲りでとても意思がハッキリしていた。
3歳にして「じーじ、キライ!」をいい、7歳にして「じーじのお店くさいからイヤ!」をいい、18歳にして「ハジメくんの面倒なんて見たくないし、私は絶対跡を継がない。でもお爺ちゃんがどうしてもって頼むから医学部の受験はしてあげる」を言った。
リンちゃんは強い。

俺とリンちゃんが初めて会ったのは俺が5歳、リンちゃんが3歳くらいの頃だったと思うけど、思えば力関係はあの頃からあまり変わらない気がする。


そして今日も今日とて、リンちゃんは強かった。


「はー、なんかもう、今日湿気っぽくない?エアコンで除湿していい?」

今日は確かに曇り空で、空気がちょっとじめじめしている。
べた、とした空気が嫌だったのか、薬局に出勤してくるなり、開口一番リンちゃんはそういった。
ちなみに俺がいいとも悪いとも言わないうちに、リンちゃんはもうエアコンのスイッチを入れている。

「あー、あっつい。今年も嫌な感じに暑くなりそうね。ホント去年これ買っといてよかったわ」

「そうだねえ。もういい加減暑すぎる夏は止めてほしい……外出れなくなっちゃう」

そんな感じにのほほんと喋りながら、薬を作っては在庫の補充をする作業をしていたら、あっ、と診察台にいたリンちゃんがこちらを振り向いた。

「研究会! ……忘れてた、午後からだっけ?」

「……あっ、そうだね、今日だった。開始時刻15時?……だっけ? あ、そだ、なんか関さん、午前中は大学の研究室行ってるから、着くのギリギリになると思うから先行っててほしいって言ってた」

「まあ、あの人日本慣れてるから大丈夫でしょ。タクシー乗ればすぐ着くし。……それより、ハジメくん、今年はちゃんと論文間に合ったの?」

客が来ないと見てか、リンちゃんが自分用のお茶を淹れ始めた。
この香りは紅茶かな。花の香りのするアールグレイ、レディグレイって名前のお茶。
なんで知っているかといえば、リンちゃん愛用のお気に入りの紅茶で、何度も買いに行かせられたことがあったので。
ガラスのポットにヒラヒラと青い花弁が浮き沈みするのを眺めて、リンちゃんがちょっとだけホッコリしている。

「うん、ちゃんと書けたよー。内容も去年……去年出すの結構遅れたけど、アレより良く書けたと思う」

「去年は冷や冷やしたわ、論文発表なのに、論文用意できてないっていうんだもの。頭の中にちゃんと出来上がってて良かったけど」

「うん。あ、関さんが懇親会途中抜けして、自分とごはん食べるの付き合ってほしいって言ってた。俺も行くけど」

「……「うん」、じゃないのよ、ハジメくん。まあ今年はちゃんと用意できてるならもういいけど……。 んー、まあ、別にいいけど、どこ行きたいって言ってた?」

「どこだっけ……あ、豆腐懐石のとこ。 湯葉が珍しいみたいだったよ。引き上げ湯葉とか食べたいのかな……。あ、そだ、キヨくん暫く家にいるんだけど、一緒に連れてっていい?」


本当は関さんに頼まれてたのは、「リンちゃんをどこかしっとり落ち着ける上品なお店に誘ってほしい」って事だけだったけど、せっかくキヨくんもうちにいるし、たまには外で美味しいものもいいと思う。
懐石料理屋さんは、奢ってあげるにしても、俺とキヨくんだとちょっと入るのに敷居が高いし。

「あー、あそこね。分かった、ならいいわよ。……ハジメくん、キヨくんにも美味しいもの食べさせたいんでしょ」

リンちゃんがなぜかイタズラっぽく笑うのは不思議だったけど、俺は素直にうなずいた。

「……うん。お世話になってるのもあるけど、キヨくんが美味しいって言ってくれるの、なんかいいよね」

「…………わあ、あのハジメくんにけっこう効果出てるわ。さすが胃袋から掴む派のキヨくん……」

なんかリンちゃんがブツブツ言ってるけど、距離があるから良く聞こえない。
とりあえず、これで関さんからの頼まれごとは完了だ。

あとで通話して教えておいてあげようと思いながら、俺は次の薬の在庫を取りに行った。











「……………」

「はー、懇親会つっかれたー。キヨくんもこっちの都合で待たせちゃってごめんね?」

「大丈夫です、明日の朝飯の仕込みしてたんで。それに勉強もあるし」

「関さん、ちょっとぼーっとしないで早く降りて。……ハジメくん、さっきお金払ったよね?」

「うん、大丈夫。運転手さんも有難うございました」

リンちゃんが下りた辺りでタクシーのドアが閉まるのに、改めて予約しておいた懐石屋さんを見上げた。
しっとり古い日本家屋に上品な引戸がはまっていて、打ち水をしてあるのか、この辺だけちょっと風があって涼しい。前庭に植えられた小さな竹藪が風にさやさや揺れている。

そしてその前で、関さんが完全に固まっていた。

「……関さん?」

ハッとしたように俺を見て、続いてリンちゃんを見て、意を決したように一歩踏み出した。

「そんな緊張しなくても、普通のご飯屋さんだよ。予約してあるから大丈夫だよ」

ポンポン、と背を撫でてそのまま促す。
その俺の後ろをキヨくんがちょっとじとっとした視線でついてきていて、最後尾のリンちゃんは窮屈な研究会からの解放感か、すっかりリラックスしていてあんまりこちらを気にしていない。

関さんは完全に初めての所なので、俺の名前で一応予約を取ってあった。
案内されたのは、よくエアコンのきいた4人サイズに手頃な和室で、なんなら窓を開けて風を通すこともできる。
テーブルの下が掘りごたつ式になっているのは、こういうトコじゃ珍しいと思う。

「疲れてる時はたしかにココの方がいいわ。足のばせるし。あーもう、なんなのあの教授……延々私の時だけ細かいツッコミ入れてきて!」

「あれ、たぶんリンちゃんのこと気に入ってるからだよね。俺が発表するときツッコミ入ったことないもの」

「ハジメくんのは、もう突っ込むトコがないのよ。だって伝統生薬だもの、新鮮味ないし」

「え、ひどい」

突き出しのクリームチーズ風豆腐ワサビのせをつつきながら、なぜか俺とリンちゃんの会話だけが弾む。
まあ、そうだよね、キヨくんは学会の話じゃ、混じれないし。
関さんはプロポーズの手順で忙しいだろうし。

「そういえば、もう英語の方の資格、発表きたんだよね。どうだった?」

「あ、そういえば二種受けたんだっけ。キヨくん、えらいわね」

「……あ、はい、一応英検の方は1級いけました。かなり根気強くハジメさんが面接練習とか付き合ってくれてたんで……。今年は公務員の一次通ったらそっちの面接もあるんで、緊張しながらうまく切り抜けるみたいなとこ、練習させて貰えた気がします。……でも、TOEICは800まではいきませんでした……。一応目標の700は越してたんで、いいんですけど」

「800だともう帰国子女だよ、700とれたら履歴書掛けるって言われてるんだから、十分! 英検1級取得おめでと、キヨくん!」

「そうよ、よかったじゃない目標クリア! ……ただ、たぶん就職できたら、あっちこっち引っ張りだこになりそうよねー、キヨくんは」

「キヨくん優秀だもんね……」

俺達がお祝いとちょっとしんみりした空気でまったりする中、ずっと固まっていた関さんがガバッと顔を上げた。

「リン、ちょっと話がある」

ピンと張った声に俺とキヨくんはいよいよかと思って、チラッと目配せして口を閉じた。
ちょっとお酒の入ってるリンちゃんは、今日はちょっと緩めで俺達のそういう仕草にはまだ気づいていない。

「あんまりこういう場よりは、二人の時にした方がよかったのかもしれないが……ええと、その……。いや、もういい、まだるっこしいのはダメだ。俺は出会った時から、惹かれていた。ハルは家族みたいなものだろうし、こういう場にいてもらった方がいいと思って呼んだ」

関さんがコホン、と咳払いし、研究発表を始める時の真剣な声音でまっすぐリンちゃんに視線を向ける。
俺達はとりあえず空気に徹する。

「だから、その…………ハル、俺と付き合ってくれ」

「…………」

……うん?
大分間を置いて、長い沈黙が発生した後、関さんが間違えた!と叫んだ。
そして、そのまま部屋を飛び出していった。


「…………え、なんなの?今の。 どうしたかったの?」

「……えーと、うん、困ったな、どうしようか……」

「……やっぱあのヒト、センセにも気があるんじゃないです? ホントに大丈夫なヒトなんです?」

「……え、なんでキヨくん俺に詰めてるの?」

それぞれに呆然自失の中、とりあえずどこに飛び出していったか分からない関さんが戻ってくるまでは待つこととして、俺たちはどうすればいいかよくわからないまま、豆腐懐石を食べ始めた。
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