漢方薬局「泡影堂」調剤録

珈琲屋

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魚 氷を出ずる

40 ※先生視点

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今回の仕入れの目的地、甘粛省かんしゅくしょうは中国の地図で見ると奥地に当たる。
昔々の関所のある敦煌とんこうやゴビ砂漠の近く、黄砂舞うシルクロードの出入り口だ。
近くには少数民族の自治区もあって政情的にもピリピリした土地柄だけれども、漢方の取り扱いをする人間にとっては、ここは特別な地でもある。

なぜなら、ほとんどの漢方薬はココが自生地になっているからだ。
昔はほぼほぼ天然で、自生しているものを取ってくるしかなかったから、今以上に薬は貴重なものだった。
今は栽培可能なものがほとんどで、漢方畑に特化している農家もあちこちにあり、市によってはエキス製材用の工場なんかも立っていたりする。

そして本来は農業より工業が主要の土地だ。
鉱物が豊富にとれるのと、近くには玉門油田という石油基地もあったりして幹線鉄道ともに発達している。

だからキヨくんが心配するほど、ド田舎でもないし不穏な土地でもない。
どちらかというと、中国でもかなり上位の工業都市だ。



……と、丁寧に伝えられれば、キヨくんの不安も少しは収まったかもしれなかったけれど、俺はそこまでうまく口が回る性質でもなかった。
しどろもどろながら説明はしたけれど、たぶん彼には「中国の奥地」「漢方薬の産地」くらいの情報しか伝えられなかったと思う。
不安いっぱいの笑顔で見送ってくれたキヨくんには申し訳なさもあるけれど、今回はそう長い旅でもないし、お土産をしっかり買って許して貰おう。

ひとまず、俺が真っ先に心配すべきなのは、案内人と会えるかどうかだ。




日本から中国へは北京以外にもいくつか直行便がある。
俺が行きたい甘粛省定西市ディンシーへ行くためには、まず西安空港行きに乗らなくてはいけない。
航路は関空と成田の2つがあるが、関空に行くには家からの距離が遠すぎるから、俺が普段使うのは成田からの便になる。
金曜以外一日一便のこの便は、普段使う格安航空チケットを使っての他国への出国より時間が遅く、しかしその分混んでいた。
どうにか搭乗を済ませて乗り込んだ機内で、俺の体躯にとってはかなり狭い席に身を潜り込ませながら、手荷物を片付けどうにかこうにか落ち着くと、セーターの下、胸元にかさりと触れる固い感触がある。

触るまでもなく、行きがけにキヨくんが渡してくれたお守りだ。
トランプのカードくらいのサイズの白い守り袋に丈夫そうな黒い革ひもが付いていて、首にかけられるようになっている。
手作り感あふれる袋も革ひもも、キヨくんのまっすぐな心情が溢れてくるようで、それこそが何よりの肌守だと思う。
約5時間の短いフライトが終わるまで、なんとなく布越しその固い感触に触れるのを止められなかった。







「よーう、お疲れ、ハル。無事着いたみたいだな、良かった」

到着ロビーで、ラフなもこもこの青いダウンジャケットに包まれた腕をぶんぶん振って、流暢な日本語で出迎えてくれたのが、今回案内をお願いしたクァンさんだ。

ひょろっとした細身に黒縁メガネをかけて、ザクザク自分で適当に切ったような短髪黒髪のこの男性は、知り合った最初からあんまり印象が変わらない。
俺もヒトの事は言えないけれど、みかけにあんまり頓着しないヒトだ。
たしか最初に知り合ったのは、一番初めに参加した漢方医の国際交流会だったか、学会だったか、もしかしたら、たまにある勉強会の方だったかもしれない。
それくらい日本にはよく来てくれていて、言葉も全然日本語で通じるので、俺としてもすごく気安くてありがたい。

「久しぶり、関さん。ごめんね、遠くまで迎えに来てもらって。ありがとう」

軽く指先が背に触れるだけのハグをして、急ぐぞ、とサッサと背を向ける関さんの後をスーツケースを引きずって慌てて追う。

「電車があれば良かったが、こっからなら車の方が早いからな。 ……まあ、それでも6時間弱かかるけどよ。 ハル、メシとか水とかそのへん、いるか?」

「あっ、うん、一応買っときたいかな」

ツルツルしたリノリウムっぽい空港の床をカツカツと蹴るように歩きながら、通りすがりのコンビニを目顔で示されたので、行き過ぎないうちに慌てて返事をする。
とたんに、直角に折れてコンビニへ入っていく背にそのまま続いた。

台湾と一緒で中国のコンビニも日本とそう大差はない。
それでも違和感があるとしたら、たぶん日本人が一番最初に気づくのがにおいじゃないかと思う。
店全体からなんとなく五香粉みたいなにおいがするのだ。
じっくり陳列を眺めたかったけど、関さんを待たせても悪いので、珈琲のペットボトルとお弁当を二人分、ついでにキヨくんの心配を踏まえてもう一袋だけカイロを買った。
スマホに支払いアプリも入れてもらってあるけど、ちょっと怖いので、先に用意しておいた元で支払う。

「遅いぞ、ハル。さっきも言ったが、時間がないんだ、たまにはのんびりしないで急いでくれ」

「……これでもすごく急いだつもりだったんだけど……、うん、ごめん、行こう」

ここでもぞもぞ言い訳していても時間が過ぎるだけなので、もうさっそく歩き始めた関さんの後を追っていく。
そうして、どうにか空港を出れたのは、着いてから30分くらい後だった。








「……そういえば、最近、研究の方はどう?今は何やってるの?」

車窓に流れる風景は暗く、時間が遅いこともあってもう随分と灯りも少ない。

中国も日本と変わらず高速道路があって、夜見る分にはあんまり夜景も変わらない。
時折コーヒーを飲みながら100キロ近いスピードで平然と飛ばしている関さんは、このルートもよく使うそうで、手慣れたようにハンドルを回して追い越しを掛けてくる車を避けながら、バックミラー越しに俺の顔をチラリと見た。

「……んー、今は増産しにくいの中心に色々やってる。……まあ、去年の水害と冷害の被害があったからそっちの対策が急務だけどな。 ハルの方はどうだ? 相変わらずちっちゃいトコに篭ってちまちまやってんのか」

「……ちっちゃくて悪かったね。伝統生薬の研究は変わらず続けてるよ。まあ、今年発表できる論文まだちゃんと書けてないけど……」

「……いい加減、ハルもあそこ畳んだらどうだ? お前なら別に日本にこだわる必要もないだろ。それか、俺みたいに大学潜り込んで研究やりながら暮らすか……。臨床より研究の方が向いてるんじゃないか」

「うーん、前もいったけど、あの薬局潰しちゃったらそれこそ漢方研究もやらなくなると思うよ。ぷらっとどこか行ってそのままどこにも定住できずにプラプラすることになると思う。 だから、俺には薬局あそこが必要なんだ」

「……。そうか、本人がそこまで言うなら仕方ないな、引き抜きは諦めるよ」

「……うん……。ホントにいつも思うけど、冗談いうの下手だよねえ」

会うたび同じ問答を繰り返してるから、これは彼なりの一種のジョークだ。


大体、関さんはそうやって気軽に言うけど、彼が席を置いている蘭州市の大学は中医薬特化の結構有名な大学だ。
特に難病の漢方薬研究に関しては有名で、彼も本来はそっちをやりたがっていたと思う。
とにかく、そこで研究が続けられるくらいには優秀なヒトなのだ。
あんまり優秀さもなく、際立った論文も書けていない俺が、彼のように世界のどこかの大学へ潜り込めと言われても、かなり難しいと思う。


山越えの高速はかなり冷や冷やしたけど、久しぶりの旧友との再会に知り合いの話なんかをポツポツして何とか無事関さんの借りているマンションに辿り着けたのは、もう深夜をだいぶ回った頃だった。
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