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桐 初めて花を結ぶ
18 ※先生視点
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迷いなくキヨくんの足が進むにつれて、周りからは祭りの喧騒が抜けて住宅街の静けさが戻ってくる。
くねくね曲がる路地をどう曲がったかは、もう俺にはわからない。
暫く行って辿り着いた先には、今は使われていないらしいシャッターのしまった小さなビルがみえた。
てっきりビルの正面に向かうのかと思ったら、キヨくんの足はズンズンとビルの裏手に回っていて、あわててついていく。
角を曲がった先、夏草の青い匂いと虫の音に囲まれたそのスペースには、ちょっと錆びた赤い鉄製の階段があって、登ろうとすると、先に登っているキヨくんの声が上から降ってくる。
「……センセだと、ちょっと狭いと思うんで、ゆっくりついてきてくださいね」
「う、うん……」
一応まだしっかりしてそうだから、俺の体重でも大丈夫かな……。
一段ずつ、恐る恐る狭い階段を登り切った先は、パッと平たく開けていて、薄青から紺、黒へと変わる空がよく見える。
路地にいた時は感じなかった風を感じて、視線を上げれば空を流れる雲の動きが早かった。
ギリギリの屋根際に申し訳程度についてる柵のすぐそば、町が一望できそうな辺りで、溶け切ったかきごおり水を飲みながらキヨくんは待っていた。
その隣にゆっくり並んで真下を見れば、さっきまでいた祭りの灯りがなんだか幻の様だ。
「……わっ、こんなところあったんだ……。よく見付けたねえ」
「中学くらいの頃ですかね。……帰り際に偶然。 あの頃は、一人になりたい時によく来てました」
静かに話すキヨくんの声は当時を思い返しているのかどこか遠い。
眼前の光景と相まって、ふわりと消えてしまいそうで、思わずのばした手でキヨくんの手を掴んだ。
不思議そうに繋いだ手を眺める彼に、危ないからと誤魔化す。
さっきまでかき氷の入っていた容器を掴んでいたせいか、彼の手は俺よりひんやりと冷たかった。
ゆっくり俺の体温が彼に移るのを感じながら、静かに続く声を聞く。
「あの商店街、アーケードだけど、花火の打ち上げはやるらしいんで。
……ここから見るのが一番迫力あると思って、もしこの祭りに来れるようなら、センセに見せたかったんですよ。
……センセ、家と薬局にいる時はあんまり外に出ないから」
「……うん、そうだね。すごく迫力ありそうだ」
繋いだ手をわずかに引いて、彼の注意を頼りなさげな柵の外から俺へと移す。
小さく微笑んで、少し座ろうかと告げた。
幸い、下は打ちっぱなしコンクリートと防水のペンキで出来た屋上で、今まで背負ってきた重いリュックも、キヨくんが肩に引っかけているエコバッグも下ろしたって問題ない。
ジワリと夏の暑さが残るコンクリから空を眺めると、確かに何もない空はただただ広くて、世界には空と自分しかいないように感じて、小さい悩みくらいならポカッと消えてしまうのかもしれない。
「……ここ、いいね。 ちっちゃいことなら帰る頃には全部忘れてそう」
「……センセが言うとほんとに冗談じゃなくなりそうですけどね。 久しぶりに来ましたけど、あんまりあの頃と変わってないです。階段も壊れてなくて良かった」
「俺が下りてったら、次の時壊れて取れてたりしない?」
「あり得ますけど……、冗談ですよ、さすがにそう簡単に壊れやしないと思います。
……でも、もうたぶん、ここには来ないです」
「どうして?」
そう尋ねると、あぐらで腰を下ろしただけの俺の隣でごろんと大の字に転がっていたキヨくんは、あおむけで眺めていた空から、横向きに体を起こしてそのまっすぐな強い目を俺へと向けた。
「……なんでしょう、俺の中で一つケリがついたからですかね。
ねえ、センセ、忘れたい記憶ほど強く残るって本当ですか? 楽しい記憶ほど早く忘れてしまうってのは」
「……うん、そう聞くね。でも、忘れてるだけで楽しい方だって消えはしないから。
お年寄りになって今の記憶が遠くなるほど、昔の楽しかった記憶を思い出すのは、多分ずっと残ってるからだよ」
そう続けると、ホッとしたように笑う彼の顔はやはりまだ幼くて、俺のよく知るキヨくんの顔で、胸のどこかがキュッと掴まれる。
「……じゃあ、センセも今日の記憶きっと残りますよね。ずっと」
ずっと、と呟くように言う彼の視線が空へと逸れるのを同じように追いかけて、どういう意味か聞きたい俺の声をかき消してパッと頭上で明るい光が散る。
一瞬の空白を置いてどぉんと腹に響く音。
パラララ、と花火が散る音に続いて、パ、パ、と夜空に花が咲いていく。
しばらく、二人して繋いだまま忘れた手を真ん中に、ただただ打ち上がる花々と腹の底を揺らす音を無言で浴びていた。
「……ハジメさん」
花火の合間、音が消えた瞬間を縫うようにキヨくんが呟く。
「覚えといてくださいね、今日の事も。今までの事も。俺の母や、咲子や、リンさんや、……俺のことも。たとえ、これから先会わなくなったり居なくなったりしても、今までの思い出が全部消えてなくなるわけじゃないんで」
少し硬い、俺より少し小さいだけの彼の手が熱を含んで俺の指をぎゅっと握る。
冷えていたはずなのに、もう今は俺より彼の手の方が熱くて、熱が伝わってくるのは俺の方だ。
反射のように彼の方を見た俺より先に、キヨくんはジッと俺の眼を見据えていた。
なんだろう、なんでか目が逸らせない。
ただただ純粋にまっすぐに、俺の事を思って言ってくれてるのが伝わって、でもなにも言えなくて、口を引き結んでは何度か開く。
「……、……」
どうしよう、俺は彼の手を離さないといけないのに。
あと少し、一年もたたずにきっと彼は薬局を離れて自分の道を進んでいくのに。
置いていかれるのがこんなに怖いなんて知らなかった。
彼がいなかった一年、埃の積もって汚れていく部屋をそのままに見ぬふりをしていたのは、元からの掃除下手もあるけれど、なにより彼の不在を自覚したくなかったからだ。
見なければなかったことに出来るから。
彼が傍で学校の話をしたり、俺のダメさ加減を叱ったり、自分の仕事っぷりに満足げに笑ったり、そういうのがもう見られないのだと、センセと、ハジメさんと、出会った当初から比べればすっかり低くなった声で俺の名を呼んでくれることはもうないのだ、と思うことがこんなに痛いなんて。
俺の世話なんか焼かなくたって、特に何もしなくていい。
ただ、俺の隣にいてくれ、と出そうな声を噛み潰すように飲み込んで、ただただ頷いた。
彼は優しくて、彼の周囲を自身より大切にしてしまう性質で、もし俺がそう声に出してしまえば、紙を裂くより簡単に自分の将来を破り捨ててしまうだろうから。
そんなふうに自分を殺してきたキヨくんを俺もずっと見てきたから、絶対にそれだけはしたくなかった。
だから、俺は笑ってそっとキヨくんの手を引くと「そろそろ帰ろうか」とだけ告げて立ち上がる。
キヨくんの希望通りにどんなに辛くても苦しくとも、今夜の記憶もずっと覚えていくから。
くねくね曲がる路地をどう曲がったかは、もう俺にはわからない。
暫く行って辿り着いた先には、今は使われていないらしいシャッターのしまった小さなビルがみえた。
てっきりビルの正面に向かうのかと思ったら、キヨくんの足はズンズンとビルの裏手に回っていて、あわててついていく。
角を曲がった先、夏草の青い匂いと虫の音に囲まれたそのスペースには、ちょっと錆びた赤い鉄製の階段があって、登ろうとすると、先に登っているキヨくんの声が上から降ってくる。
「……センセだと、ちょっと狭いと思うんで、ゆっくりついてきてくださいね」
「う、うん……」
一応まだしっかりしてそうだから、俺の体重でも大丈夫かな……。
一段ずつ、恐る恐る狭い階段を登り切った先は、パッと平たく開けていて、薄青から紺、黒へと変わる空がよく見える。
路地にいた時は感じなかった風を感じて、視線を上げれば空を流れる雲の動きが早かった。
ギリギリの屋根際に申し訳程度についてる柵のすぐそば、町が一望できそうな辺りで、溶け切ったかきごおり水を飲みながらキヨくんは待っていた。
その隣にゆっくり並んで真下を見れば、さっきまでいた祭りの灯りがなんだか幻の様だ。
「……わっ、こんなところあったんだ……。よく見付けたねえ」
「中学くらいの頃ですかね。……帰り際に偶然。 あの頃は、一人になりたい時によく来てました」
静かに話すキヨくんの声は当時を思い返しているのかどこか遠い。
眼前の光景と相まって、ふわりと消えてしまいそうで、思わずのばした手でキヨくんの手を掴んだ。
不思議そうに繋いだ手を眺める彼に、危ないからと誤魔化す。
さっきまでかき氷の入っていた容器を掴んでいたせいか、彼の手は俺よりひんやりと冷たかった。
ゆっくり俺の体温が彼に移るのを感じながら、静かに続く声を聞く。
「あの商店街、アーケードだけど、花火の打ち上げはやるらしいんで。
……ここから見るのが一番迫力あると思って、もしこの祭りに来れるようなら、センセに見せたかったんですよ。
……センセ、家と薬局にいる時はあんまり外に出ないから」
「……うん、そうだね。すごく迫力ありそうだ」
繋いだ手をわずかに引いて、彼の注意を頼りなさげな柵の外から俺へと移す。
小さく微笑んで、少し座ろうかと告げた。
幸い、下は打ちっぱなしコンクリートと防水のペンキで出来た屋上で、今まで背負ってきた重いリュックも、キヨくんが肩に引っかけているエコバッグも下ろしたって問題ない。
ジワリと夏の暑さが残るコンクリから空を眺めると、確かに何もない空はただただ広くて、世界には空と自分しかいないように感じて、小さい悩みくらいならポカッと消えてしまうのかもしれない。
「……ここ、いいね。 ちっちゃいことなら帰る頃には全部忘れてそう」
「……センセが言うとほんとに冗談じゃなくなりそうですけどね。 久しぶりに来ましたけど、あんまりあの頃と変わってないです。階段も壊れてなくて良かった」
「俺が下りてったら、次の時壊れて取れてたりしない?」
「あり得ますけど……、冗談ですよ、さすがにそう簡単に壊れやしないと思います。
……でも、もうたぶん、ここには来ないです」
「どうして?」
そう尋ねると、あぐらで腰を下ろしただけの俺の隣でごろんと大の字に転がっていたキヨくんは、あおむけで眺めていた空から、横向きに体を起こしてそのまっすぐな強い目を俺へと向けた。
「……なんでしょう、俺の中で一つケリがついたからですかね。
ねえ、センセ、忘れたい記憶ほど強く残るって本当ですか? 楽しい記憶ほど早く忘れてしまうってのは」
「……うん、そう聞くね。でも、忘れてるだけで楽しい方だって消えはしないから。
お年寄りになって今の記憶が遠くなるほど、昔の楽しかった記憶を思い出すのは、多分ずっと残ってるからだよ」
そう続けると、ホッとしたように笑う彼の顔はやはりまだ幼くて、俺のよく知るキヨくんの顔で、胸のどこかがキュッと掴まれる。
「……じゃあ、センセも今日の記憶きっと残りますよね。ずっと」
ずっと、と呟くように言う彼の視線が空へと逸れるのを同じように追いかけて、どういう意味か聞きたい俺の声をかき消してパッと頭上で明るい光が散る。
一瞬の空白を置いてどぉんと腹に響く音。
パラララ、と花火が散る音に続いて、パ、パ、と夜空に花が咲いていく。
しばらく、二人して繋いだまま忘れた手を真ん中に、ただただ打ち上がる花々と腹の底を揺らす音を無言で浴びていた。
「……ハジメさん」
花火の合間、音が消えた瞬間を縫うようにキヨくんが呟く。
「覚えといてくださいね、今日の事も。今までの事も。俺の母や、咲子や、リンさんや、……俺のことも。たとえ、これから先会わなくなったり居なくなったりしても、今までの思い出が全部消えてなくなるわけじゃないんで」
少し硬い、俺より少し小さいだけの彼の手が熱を含んで俺の指をぎゅっと握る。
冷えていたはずなのに、もう今は俺より彼の手の方が熱くて、熱が伝わってくるのは俺の方だ。
反射のように彼の方を見た俺より先に、キヨくんはジッと俺の眼を見据えていた。
なんだろう、なんでか目が逸らせない。
ただただ純粋にまっすぐに、俺の事を思って言ってくれてるのが伝わって、でもなにも言えなくて、口を引き結んでは何度か開く。
「……、……」
どうしよう、俺は彼の手を離さないといけないのに。
あと少し、一年もたたずにきっと彼は薬局を離れて自分の道を進んでいくのに。
置いていかれるのがこんなに怖いなんて知らなかった。
彼がいなかった一年、埃の積もって汚れていく部屋をそのままに見ぬふりをしていたのは、元からの掃除下手もあるけれど、なにより彼の不在を自覚したくなかったからだ。
見なければなかったことに出来るから。
彼が傍で学校の話をしたり、俺のダメさ加減を叱ったり、自分の仕事っぷりに満足げに笑ったり、そういうのがもう見られないのだと、センセと、ハジメさんと、出会った当初から比べればすっかり低くなった声で俺の名を呼んでくれることはもうないのだ、と思うことがこんなに痛いなんて。
俺の世話なんか焼かなくたって、特に何もしなくていい。
ただ、俺の隣にいてくれ、と出そうな声を噛み潰すように飲み込んで、ただただ頷いた。
彼は優しくて、彼の周囲を自身より大切にしてしまう性質で、もし俺がそう声に出してしまえば、紙を裂くより簡単に自分の将来を破り捨ててしまうだろうから。
そんなふうに自分を殺してきたキヨくんを俺もずっと見てきたから、絶対にそれだけはしたくなかった。
だから、俺は笑ってそっとキヨくんの手を引くと「そろそろ帰ろうか」とだけ告げて立ち上がる。
キヨくんの希望通りにどんなに辛くても苦しくとも、今夜の記憶もずっと覚えていくから。
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