漢方薬局「泡影堂」調剤録

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鴻雁 帰る

8 ※先生視点

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イーラ・フォルモサ。
昔々のポルトガル語で「美しい島」と呼ばれたのがこの台湾だ。
中国語で「福爾摩沙フォルモサ」という当て字が残るくらいには、台湾のヒトもこの名称を気に入っているらしい。
実際、晴れた日に飛行機から覗けば、美しい緑の島ではある。
今は雲の中だから、何も見えないけれど。


朝早くに家を出て、飛行機に乗って飛ぶまでで数時間。
羽田から桃園空港へ着くまでさらに数時間。
取ってあった乗客証のおかげで入国審査は10分くらいで済んだが、MRT地下鉄台北タイペイ駅に着いた頃には、すでに昼過ぎをだいぶ回っていた。

「……あっつ」

ああ、これ30度超えてるなあ……。

地下鉄から外に出た途端、猛烈な暑さと湿気が襲って来て、あっという間に下に着ているTシャツがびしょ濡れになる。
もう少し早く着けば、ここまで炎天下の中に放り出されることもなかったと思うけど、格安航空券と引き換えだ、仕方ない。
湿気で曇るメガネを軽くハンカチで拭き、キヨくんがリュックに入れてくれてあった髪留めで、雑に後ろ髪をねじってくくる。
こういう時、もう少し髪を短くしていればと思うけど、短くしたら短くしたで俺みたいなふわふわしたタイプの髪は爆発するので仕方ない。
ただ、いつもみたいに三つ編みにしてなかったのはちょっと失敗だったかな……。

地下鉄の中から羽織ってきた長袖シャツもここでリュックに押し込んで、後ろから続々流れる観光客に混じって、日除けを探しながら迪化街ディーホアジエの方へ曲がった。

この辺は昔ながらの小さく狭くるしい街並みと近代的なマンションや役所のビルが混じっていて、日本で言うなら築地の場外市場や、上野のアメ横、関西で言うなら大阪の新世界あたりと似ている。
狭い路地一杯に、人と物と車やバイクが入り混じる辺りもそっくりだ。
新しい店やビルに淘汰されて、古い懐かしい街並みが消えていくところも。



定宿にさせて貰っているツァイさんのユースホステルは、迪化街入って少し行った小道をいくつか曲がった先にある。
細い路地は前来た時と変わらず、狭くて古めかしくて日があまり当たらない。

変わっていないことに安堵しながら、開け放たれた古い木の扉をそのまま潜ると、入り口脇の小さなテーブルと椅子にいつもと変わらず、小さな扇風機と蔡さんが座っていて、思わず笑顔になって「リーホゥ」と挨拶した。

「你好、春天。已經有一段時間了。(こんにちは、ハル。ひさしぶりだね)」

春天はそのまま中国語で「春」の意味で、はじめましての時に名刺差し出したらつけられたあだ名だ。
まあ、日本でだって春と書いてハジメと読んでくれるヒトはほとんどいないから……。


随分と白髪が増えたが、笑うとクシャクシャになる明るい笑顔と、中国語の割には少しゆったりした喋り方は、最初にここに宿を取った時から変わっていない。
いつものように手を差し出して、その乾いた皺ぶかい手としっかりと握手する。

「這次你要待很久嗎?(今回は長くいるのかい?)」

今はどこの宿も置くようになったアルコールで二人して手を消毒しながら、笑う。

「不,我打算待一個月左右。(いや、一か月くらいかな)」

差し出される宿泊名簿にサインしながら答えて、一緒に出してくれた冷たいお茶を貰った。
そのまま、小さな木の椅子をすすめてくれるので、有難く座る。
うちの薬局の診察椅子と違って、俺が座ってもきしんだりしない、しっかりした椅子だ。


「……そういえば地震大丈夫だった? お孫さん、花蓮ファーリェンじゃなかったっけ?」

「孫の家は大丈夫だったけど、観光客が激減したみたいでね……。ハル、気にしてるのは梨山リーシャンに行く足だろ」

一瞬沈みかけた表情が、何かに気づいたようにいたずらっぽく笑うので、ばれたか、と笑って返す。
梨山は有名なお茶の産地で、そこに行くまでに花蓮市を通るのだ。


「うん、そっちも買い付け行こうかと思って。……お茶の産地は高山が多いから、こういう時苦労するだろうね」

手の内、ツルリとした白い磁器の小さな椀に、薄緑に写る水色へ目を落とす。

今なにげなく飲んでいるお茶も、良く冷えているだけじゃなく、風味よく薫り高くて美味い。
こういう高品質のお茶やフルーツ、地元のハーブなんかがなにげなく生活に入ってくるのも、台湾が居心地のいい理由だと思う。

「そうだね……苦労して作ってくれる人と天と地に感謝だ。 梨山への花蓮を通るいつものバスは運休してるけど、他のバスの迂回路は出てるみたいだから、あとで調べてみるといい。 ……さて、そろそろ部屋に案内するよ」

お茶がすっかりなくなった頃合いで、蔡さんがそっと茶碗を回収してくれるので礼を言って返して、俺も立ち上がる。
たったのお茶一杯でいつもスッと汗が引くので、いつもここに来ると不思議な気分になるんだよね。



「今回も個室でお願いしたいけど、空いてる?」

尋ねると、片手に抱えていた宿泊名簿をパラパラとめくって頷いた。

「いつもの部屋は埋まってるから、庭に面した方でいいかい。風が良く通るし気持ちがいいよ」

玄関からそのまま一間ほど進むと、古びた木のギシギシいう感触から、リノリウムとタイルのツルツルした固い床へ足元の感触が変わる。
一緒に室内も窓が増えて一気に明るくなるので、いつもこの一瞬で目が開くような気になるのだ。
その変わり目で左にスーツケースを持ち上げて、蔡さんの後をついていく。


通された個室は、薄青いタイル床に白いツルツルとした壁、ベッド周りのぐるりだけ枯れた色合いの竹の板が貼ってある。
小さなシャワーブースとトイレもついているので、有難い。
庭に面した細工入りの木製の戸は閉じてあったが、網戸入りの窓の方は開けてあった。
コの字型になっているキレイに整えられた中庭の真ん中で、大きなマンゴーの木の葉がさやさやと小さく音を立てている。

「ありがと、ココにするよ。……蔡さんとこの部屋はどこも居心地いいけど、ココは一番だ」

笑って言うと、その顔をくしゃくしゃにして自慢そうに頷いた。

「そうとも。最近の宿はどこも小ぎれいになったけど、うちほどお客さんに気持ち良く使ってもらうのが前提の所はないよ」

「そうだね」

しょっちゅう、また来た!と言っては嬉しそうにハグを求める海外客と、かたくなに握手で通す蔡さんの戦いを見るもんね。
俺もキヨくんからしたらあんななんだろうか、と想像したらおかしくなった。

「また、ワン先生の所もよるんだろう?」

汪先生はこの近くで診療所を開いている漢方医の先生だ。

「そうだね、一通り買い付け終わったら。 とりあえず今日は移動して疲れたから、一寝して寧夏夜市ニンシャーイエスーに行こうかな」

端っこに用意してくれてある竹製の折り畳みの荷物置きに、スーツケースとリュックを下ろしながら頷く。
言ったとたんに、すらっと動いて窓際のブラインドを下ろしつつ、風は抜けるようにしてくれる。
エアコンもちゃんとついているけど、当たり過ぎは良くないからと、自分でつけない限りは入れないのが、蔡さんの流儀らしい。

「いつもの豆漿トウジャン牛奶饅頭ミルクマントウは食べるかい?」

「わあ、助かる、お腹空いてたんだ!」

なんせ、ココにつくまで精々空港で牛乳とパン、飛行機で水を飲んだくらいで、あとは飲まず食わずだったから。

「今だったら苦手な生野菜だってモリモリ食べれるね」



ジェスチャーでやってみせると、蔡さんが腹を抱えて笑いながら去って行った。
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