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菊地編

162.

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菊地の唇が、すぐそこまで迫った──時だった。


……コンコンッ

ノックの音がして、弾かれる。
音のあった方を見れば、折り曲げた中指でカウンターを軽く叩いた倫の姿が少し離れた所にあった。

「……口説いてる所、悪いんだけど……そろそろ運んでもよろしいかしら」

悪びれる様子も無く、口角を緩く持ち上げ、菊地と僕とを意味深な目付きで見る。



カウンターに置かれた料理。
湯気の立つそれは、魚介とトマトの入ったスープだった。

倫が深皿に取り分け、菊地と僕の前に出す。

「ちゃんと、食えよ」
「………」

流し目をした菊地に促され、スプーンに手を伸ばす。

化学調味料的な、嫌な感じの臭いはしない。
寧ろ、食欲をそそる優しい匂いだった。

「……」


「ところで、倫。……アイツと連絡取りたいんだが」
「………ん、わかった。今夜伝えておくわ」


徐にあさりの貝殻を摘まみ上げ、身の部分を口に含めた菊地が「……やっぱ美味ぇな」としみじみごちる。


『……美味いな』

僕が作った料理を食べてくれた時の竜一の声と反応が、菊地のと重なる。

その刹那、胸がギュッと締め付けられる。


「……」


ほんの数週間前。
なのに、あの日の出来事が──あの平穏な毎日が……もう、手の届かない、遠い過去になってしまったような気がする……

それでもまだ、気持ちの上では処理しきれていなくて。竜一の事を想えば、この胸が張り裂けそうな程に苦しくなる。


きっとこの先も、ふとした事がキッカケで竜一の事を思い出してしまうんだろう。

……その度に、僕は……


「……!」

ハッとして菊地を見る。
僕の変化に気付く事なく、彼はスープを掬いながら倫と談笑していた。

ホッとしたのも束の間──僕の行動に気付いたのか、倫が此方に視線を移す。


「……にしても、寛司がこんな可愛い子を連れて来るなんて……思わなかった」
「まぁ、ちょっとな。……昔のお前に似て、全然飯食わねぇから」
「ふぅん。あの時の事、少しは責任感じてくれてるのね」
「………今となってはな」


二人にしか、解らない会話。
二人だけの空気。
それを、僕が立ち聞きしてしまって、いいんだろうか……


「……でも、それだけじゃないんでしょ……?
私の話を持ち出して、ここで口説くんだから。……嫌な人」

腕組みをし斜めに立つ倫が、揶揄うような目付きで菊地を睨む。

「それは、悪かった。利用しちまって」

じっと倫を見上げる菊地に、ふぅ…と肩の力を抜いた倫の表情が、柔らかなものに変わる。

「………まぁ、いいわ。
今の私ができる事と言ったら、健康的で美味しい食事と、ドリンクを提供する事だもの」
「──悪ぃな」

スープを啜る菊地から僕へと、倫の視線が向けられる。



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