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菊地編
156.
しおりを挟む「……五十嵐」
そっと背中に声を掛ければ、神妙な面持ちの五十嵐が振り返る。目が合う寸前、顔に笑顔が貼り付けられたのが解った。
「俺の事はいいよ。
それよりお前、菊地さんに随分と気に入られたみたいだぞ。このままだと、家に帰して貰えないかもな」
「……」
「………どうするんだ、工藤」
「……」
とうするもこうするも……僕には、どうにもできない──
吹き荒ぶ風に煽られた桜の花弁は──身を委ねながら、ただ散り去ってゆくだけ……
諦めきった瞳を向ければ、五十嵐が眉根を寄せ、意を決したように口を開く。
「……なぁ……俺と、逃げないか?」
*
しん、と静まり返った部屋。
五十嵐が出て行ってから、初めて一人きりになったのに気付く。
身体を起こしクッションにもたれかかりながら、カップスープを少しだけ口に含む。
化学調味料独特の味と、鼻から抜ける臭いに嫌気が差したが、細胞のひとつひとつに染み渡り、久し振りの食事に身体が喜んでいるようにも感じた。
食道から胃の中までが、じん…と熱い。
冷え切っていた身体が、雪解けを待ち侘びていた春の如く緩み、少しだけ活力を取り戻していく。
とろりとしたコーンスーブ。
カップを両手で包み込み、鮮やかな色をしたそれをぼんやりと見つめる。
……確かあの時は、インスタント雑炊だったっけ……
ふと、ハイジに看病された日の事を思い出す。
「……」
──あれから、色んな事があった。
ガールズバーで見かけた、スーツ姿の竜一。その竜一が、親しげに吉岡の背中に手を回し、並んで店から出ていく。
吉岡とは、単なるビジネス関係なのかもしれない。暴力団関係者の竜一がアパートを借りられたのも、そういう手続きを吉岡に依頼したからだとモルが言っていた。
ガールズバーで僕の存在を竜一に知らせなかったのも、恐らく吉岡は、馴れ合いよりもビジネスを優先するタイプだからなのかもしれない。
……でも、だからって……
わざと僕に見せ付けるような事をしなくても……
飲む気がしなくなり、コンドームが置かれたベッド棚にカップを置く。
身を丸めるようにして横になり、ケットを引っ張り上げて首元まで被る。
でも、もしあの時──吉岡が竜一に、僕の存在を話していたとしたら。
わざと気付かないフリをして、竜一が吉岡の背中に手を回したのだとしたら……
そんな悲観的な考えに支配される。
竜一に限ってそんな事はないと思いながらも、ずっと拭えない不安があった。
囚われた事を知らなかったモル。
繋がらなかった、モルからの電話。
車内で吉岡に見せられた、携帯の動画。
その点と点を繋げてしまえば、最悪な想定へと導かれてしまう……
「………」
……竜一はもう、僕を見限ってしまったのかもしれない……
あのアパートは既に引き払われていて……僕の居場所なんてもう、何処にもない……のかも……
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