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第1章 沈黙の村
出逢い
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「減らず口がっ。二度とこの家の敷居を跨ぐな」
ぴしゃりと引戸が閉じて、鍵をかける音がした。いよいよ破門、勘当、絶縁である。
この男アケビは、寝間着(といっても、多くの時間をその姿で過ごしたから制服とも言える)ぼろの浴衣と鼻緒がほつれた下駄という、現代風に言えばスウェットとクロックスとでも言えようか、そんな身なりで家を追い出されたのだ。ありゃあ。
「ったく。叔父さん家で唐茄子屋にでもなるよ、このくそ親父」
なんて声に出してみるが、実際にはそんな叔父さんはいない。唐茄子をくれる叔父さんは噺の中だけに生息する希少種なのだ。そこら中にいてもらっては困る。唐茄子叔父さんがいないのなら、せめてトーマス・エジソンがいればなあと男は思ったが、トーマス・エジソンこそ唐茄子叔父さんよりもはるかに希少種なのであった。
炎天下のアスファルト砂漠に勢いよく放り出されたものの、手元には一文もない。「アイアム一文無し。向かうところ敵なし」と心の中で強がってみるが、元手がなければ商売もできない。もっと言えば、今日寝る場所さえもないのだ。幸い暑い季節だから野宿の線もあるが、長くは続かないだろう。この先、勘当を解かれるかどうかもわからない。何より、およそ半年もの間ふかふかのベッドとリビングを行き来する生活だったのだ。急にそんな野性味を求められても対応できるはずもない。
生き抜くためにはまず住まわせてもらえる家を探さなければならない。しかしこれもって友人はなし、旧い知人と連絡を取ろうにも携帯端末を置いてきてしまった。二度と敷居をまたぐなと言われた手前、取りに帰るのもきまりが悪い。そもそも長く連絡も寄こさなかった知人が、そう易々と退去時期未定の居候を受け入れてくれるはずもない。
「前途多難やなあ」と、街の中心近い場所にあるひっかけ橋の欄干に足をかけ、一つげっぷする。
アケビは半年間引きこもってはいたが、決してネガティブな引きこもりではなかった。食卓につけば、母や兄弟子、弟弟子と楽しく会話する。率先して会話を盛り上げ、それぞれにバランスよく話題を振るなど、MC顔負けの回しぶりを見せていた。
ただただ、勤労意欲がなかったのだ。
そんなアケビにとって、勘当でなにより耐えがたかったのが、話し相手を失ったことである。黙ることは息を止めるに等しかった。部屋で一人いるときも、誰かといるときも、食事のときも、排便のときも、口を動かしているのが常だった。幼いころに、「アケビちゃんは口から生まれてきたのよ」と母にうそぶかれたときには、小学校高学年にあがるまでずっと信じ込んでいた。会話中毒。生まれながらの道化体質だ。
誰かと喋りたい欲が沸々とわいてきて、ふと思い立った。ここはナンパの名所、ひっかけ橋であると。ともすれば、ここはひとつ、その名にあやかって、ナンパをすればよいのではないだろうか。ナンパをすれば話ができる、あわよくば今夜の寝床くらい見つかるかもしれない。
下駄をカツンと鳴らしてみる。乾いた木のいい音がする。
下駄の鼻緒を親指でくっと掴むと、そのまま歩道へ飛び出し、
「いまな、竜宮城から帰ったところやねん。身寄りもおらんし玉手箱も鳶に奪われてしもうた。ここはどうかひとつ、あんたはんの家に泊めてもらえへんやろか」
と、慣れた風な口ぶりで、通りすがった黒髪ロングの女性タイプだったからに声をかける。非日常的な言葉で気を引く作戦だ。
黒髪は、「え、はあ」と言い立ち止まった。
――勝った。
ナンパというものは、「相手を立ち止まらせることができたら、成功の八割を手にしたと言っていい」と聴いたことがある。フットインザドアという奴だ。いや、ドアインザフェイスだったか。どうでもいいカタカナを頭の中で検索していると、彼女の後ろからスキンヘッドが現れた。北〇の拳に出てきそうな世紀末感があった。
「なんすか」
スキンヘッドが威圧する。
「いや、なんというか、あれですよ。ごカップルで、髪のバランスがよろしいなあ、とそう思て声かけさしてもろたんです。バランス気になってんちゃうかな思て。その事実を伝えたくて」
苦しすぎる言い訳で難を逃れようとするアケビ。
「父です」
「あ、お父様でしたか。これはこれは」
「要は済んだか」
と言い、親子は去っていった。
威圧された衝撃で脚が竦み、その場を動けずにいると、スキンヘッドが娘を遠くに置いてから、再びこちらにやってきた。殺されるかもしれないと思った。
アケビが身構えると、スキンは口を開く。
「バランス」
「……は」
「バランスは良かったのか」
「ええ、それはもう」
「そうか。……剃ってよかった」
と頬が緩ませた。髪のバランスは、父娘のあいだでもやはり気になったようだ。人は見かけによらないことを再確認する。気をよくしたアケビはつらつら喋った。緊張から解放された人間はよく喋る。アケビはもともと人の三倍は喋る質だから、緊張から解放されたことで、人の六倍くらい饒舌になった。
「さすが、やっぱり時代はスキンヘッドですよねえ。中途半端に髪を残してる親父をみるともう、諦めが悪いのなんのって。早く剃っちまえよと思いますもん。そうですよ、よかったですよ。娘さんも綺麗で……」
「娘に手ェ出したら、殺す」
「いえ、あの、仲良し親子、どすねえ」
饒舌になったのも束の間、再び緊張が走り、アケビは口をつぐんだ。スキンヘッドは存分にアケビを威圧してから、娘とともに白川の方へと去っていった。
この一件でアケビはくじけそうになったが、そんな場合ではない。死活問題なのだ。今日の寝床と話し相手の確保が今日の至上命題である。仲良し親子が見えなくなるところまで行ったのを確認してから、「次はしくじらんぞ」と再び辺りを見渡した。子うさぎが通りかかるのを待つ狩猟者のような気持ちで。
顔をあげずに靴を見て、あたりをつけることにする。ジロジロ見てるといかにもという感じで、避けられるからだ。
薄ピンクやベージュのヒールを履いている女はダメだ。アケビの眼から見ると、彼女らは他人に寄生して生きているように見えている。ハイヒールは元来、おぼつかない足取りが男のフェチズムにヒットしたために開発された、言わば男をオトすための装備だ。加えて薄ピンクやベージュといったハイソな感じを出されては、玉の輿を目指す上昇志向の強い女ではないか。これから寄生しようとしている立場からすると、勝ち目はない。
いまの状態を客観視すると、拾ってくれる可能性があるのは、捨てられた雑種の犬を捨て置けない人だ。靴でいえば黒スニーカー、無地のローカットの子がピンポイントではないだろうか。生活感のある女は、甲斐性がある(はずだ)。ヒモになるには好都合というわけだ。
とか何とか頭の中で問答を繰り広げているうちに、黒スニーカーが視界に飛び込んできた。
咄嗟に「お姉さん」と面をあげると、そこにいたのはピンヒールの美女と黒スニーカーのスキンヘッドではないか。この界隈ではスキンヘッドを連れて歩く習慣でもあるのだろうか。
「私はお姉さんではありませんが」
何とも紳士的なスキンヘッドである。見た目で人を判断してしまった自分が恥ずかしいと、アケビは自責の念に駆られた。
「何かご用ですか」
スキンヘッドは、丁寧な言葉で問うてくる。アケビも、ここは貴婦人の心構えで、
「いえ、亡き姉を想っていたんですわ」
と応戦する。アケビは困窮すると貴婦人のような言葉遣いになる。これは、一種の防衛反応であった。
「あらそれはそれは。ご冥福を」
「ありがとうござ……」
「とでも言うと思ったかこのナンパ野郎! 」
物腰低かったスキンヘッドが豹変。胸ぐら掴まれ橋の下へと落っことされた。その時アケビは思った。やっぱり人は見た目に現れる。
千熊川でじゃぶじゃぶになりながら、下駄を手で掴んでなんとか川縁へ這い出る。まちがいない厄日。失われた安寧の日々。浴衣は襦袢ごとはだけて、裾から水が滴る。
乾かしがてら土手に座ると、日光の照射と濡れた身体で湯気が立つ。
湯気。
湯気から蜃気楼。
蜃気楼なのだろうか、これは。
ぼや~っとした先に、白いワンピースの少女が立っていた。
ぴしゃりと引戸が閉じて、鍵をかける音がした。いよいよ破門、勘当、絶縁である。
この男アケビは、寝間着(といっても、多くの時間をその姿で過ごしたから制服とも言える)ぼろの浴衣と鼻緒がほつれた下駄という、現代風に言えばスウェットとクロックスとでも言えようか、そんな身なりで家を追い出されたのだ。ありゃあ。
「ったく。叔父さん家で唐茄子屋にでもなるよ、このくそ親父」
なんて声に出してみるが、実際にはそんな叔父さんはいない。唐茄子をくれる叔父さんは噺の中だけに生息する希少種なのだ。そこら中にいてもらっては困る。唐茄子叔父さんがいないのなら、せめてトーマス・エジソンがいればなあと男は思ったが、トーマス・エジソンこそ唐茄子叔父さんよりもはるかに希少種なのであった。
炎天下のアスファルト砂漠に勢いよく放り出されたものの、手元には一文もない。「アイアム一文無し。向かうところ敵なし」と心の中で強がってみるが、元手がなければ商売もできない。もっと言えば、今日寝る場所さえもないのだ。幸い暑い季節だから野宿の線もあるが、長くは続かないだろう。この先、勘当を解かれるかどうかもわからない。何より、およそ半年もの間ふかふかのベッドとリビングを行き来する生活だったのだ。急にそんな野性味を求められても対応できるはずもない。
生き抜くためにはまず住まわせてもらえる家を探さなければならない。しかしこれもって友人はなし、旧い知人と連絡を取ろうにも携帯端末を置いてきてしまった。二度と敷居をまたぐなと言われた手前、取りに帰るのもきまりが悪い。そもそも長く連絡も寄こさなかった知人が、そう易々と退去時期未定の居候を受け入れてくれるはずもない。
「前途多難やなあ」と、街の中心近い場所にあるひっかけ橋の欄干に足をかけ、一つげっぷする。
アケビは半年間引きこもってはいたが、決してネガティブな引きこもりではなかった。食卓につけば、母や兄弟子、弟弟子と楽しく会話する。率先して会話を盛り上げ、それぞれにバランスよく話題を振るなど、MC顔負けの回しぶりを見せていた。
ただただ、勤労意欲がなかったのだ。
そんなアケビにとって、勘当でなにより耐えがたかったのが、話し相手を失ったことである。黙ることは息を止めるに等しかった。部屋で一人いるときも、誰かといるときも、食事のときも、排便のときも、口を動かしているのが常だった。幼いころに、「アケビちゃんは口から生まれてきたのよ」と母にうそぶかれたときには、小学校高学年にあがるまでずっと信じ込んでいた。会話中毒。生まれながらの道化体質だ。
誰かと喋りたい欲が沸々とわいてきて、ふと思い立った。ここはナンパの名所、ひっかけ橋であると。ともすれば、ここはひとつ、その名にあやかって、ナンパをすればよいのではないだろうか。ナンパをすれば話ができる、あわよくば今夜の寝床くらい見つかるかもしれない。
下駄をカツンと鳴らしてみる。乾いた木のいい音がする。
下駄の鼻緒を親指でくっと掴むと、そのまま歩道へ飛び出し、
「いまな、竜宮城から帰ったところやねん。身寄りもおらんし玉手箱も鳶に奪われてしもうた。ここはどうかひとつ、あんたはんの家に泊めてもらえへんやろか」
と、慣れた風な口ぶりで、通りすがった黒髪ロングの女性タイプだったからに声をかける。非日常的な言葉で気を引く作戦だ。
黒髪は、「え、はあ」と言い立ち止まった。
――勝った。
ナンパというものは、「相手を立ち止まらせることができたら、成功の八割を手にしたと言っていい」と聴いたことがある。フットインザドアという奴だ。いや、ドアインザフェイスだったか。どうでもいいカタカナを頭の中で検索していると、彼女の後ろからスキンヘッドが現れた。北〇の拳に出てきそうな世紀末感があった。
「なんすか」
スキンヘッドが威圧する。
「いや、なんというか、あれですよ。ごカップルで、髪のバランスがよろしいなあ、とそう思て声かけさしてもろたんです。バランス気になってんちゃうかな思て。その事実を伝えたくて」
苦しすぎる言い訳で難を逃れようとするアケビ。
「父です」
「あ、お父様でしたか。これはこれは」
「要は済んだか」
と言い、親子は去っていった。
威圧された衝撃で脚が竦み、その場を動けずにいると、スキンヘッドが娘を遠くに置いてから、再びこちらにやってきた。殺されるかもしれないと思った。
アケビが身構えると、スキンは口を開く。
「バランス」
「……は」
「バランスは良かったのか」
「ええ、それはもう」
「そうか。……剃ってよかった」
と頬が緩ませた。髪のバランスは、父娘のあいだでもやはり気になったようだ。人は見かけによらないことを再確認する。気をよくしたアケビはつらつら喋った。緊張から解放された人間はよく喋る。アケビはもともと人の三倍は喋る質だから、緊張から解放されたことで、人の六倍くらい饒舌になった。
「さすが、やっぱり時代はスキンヘッドですよねえ。中途半端に髪を残してる親父をみるともう、諦めが悪いのなんのって。早く剃っちまえよと思いますもん。そうですよ、よかったですよ。娘さんも綺麗で……」
「娘に手ェ出したら、殺す」
「いえ、あの、仲良し親子、どすねえ」
饒舌になったのも束の間、再び緊張が走り、アケビは口をつぐんだ。スキンヘッドは存分にアケビを威圧してから、娘とともに白川の方へと去っていった。
この一件でアケビはくじけそうになったが、そんな場合ではない。死活問題なのだ。今日の寝床と話し相手の確保が今日の至上命題である。仲良し親子が見えなくなるところまで行ったのを確認してから、「次はしくじらんぞ」と再び辺りを見渡した。子うさぎが通りかかるのを待つ狩猟者のような気持ちで。
顔をあげずに靴を見て、あたりをつけることにする。ジロジロ見てるといかにもという感じで、避けられるからだ。
薄ピンクやベージュのヒールを履いている女はダメだ。アケビの眼から見ると、彼女らは他人に寄生して生きているように見えている。ハイヒールは元来、おぼつかない足取りが男のフェチズムにヒットしたために開発された、言わば男をオトすための装備だ。加えて薄ピンクやベージュといったハイソな感じを出されては、玉の輿を目指す上昇志向の強い女ではないか。これから寄生しようとしている立場からすると、勝ち目はない。
いまの状態を客観視すると、拾ってくれる可能性があるのは、捨てられた雑種の犬を捨て置けない人だ。靴でいえば黒スニーカー、無地のローカットの子がピンポイントではないだろうか。生活感のある女は、甲斐性がある(はずだ)。ヒモになるには好都合というわけだ。
とか何とか頭の中で問答を繰り広げているうちに、黒スニーカーが視界に飛び込んできた。
咄嗟に「お姉さん」と面をあげると、そこにいたのはピンヒールの美女と黒スニーカーのスキンヘッドではないか。この界隈ではスキンヘッドを連れて歩く習慣でもあるのだろうか。
「私はお姉さんではありませんが」
何とも紳士的なスキンヘッドである。見た目で人を判断してしまった自分が恥ずかしいと、アケビは自責の念に駆られた。
「何かご用ですか」
スキンヘッドは、丁寧な言葉で問うてくる。アケビも、ここは貴婦人の心構えで、
「いえ、亡き姉を想っていたんですわ」
と応戦する。アケビは困窮すると貴婦人のような言葉遣いになる。これは、一種の防衛反応であった。
「あらそれはそれは。ご冥福を」
「ありがとうござ……」
「とでも言うと思ったかこのナンパ野郎! 」
物腰低かったスキンヘッドが豹変。胸ぐら掴まれ橋の下へと落っことされた。その時アケビは思った。やっぱり人は見た目に現れる。
千熊川でじゃぶじゃぶになりながら、下駄を手で掴んでなんとか川縁へ這い出る。まちがいない厄日。失われた安寧の日々。浴衣は襦袢ごとはだけて、裾から水が滴る。
乾かしがてら土手に座ると、日光の照射と濡れた身体で湯気が立つ。
湯気。
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