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[-00:16:08]劣等犯

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 それは、魔法だった。
 初めてカラコンを入れて、ピンクのウィッグを被り、立ち鏡の前に立った時の高揚をにちかは今でもはっきり覚えている。そこには映る人間は、野暮ったく、誰からも見向きもされない、地味なモブキャラのような自分ではなかった。
 にちかがずっと憧れを抱いていた、彼女がそこには立っていた。
 天真爛漫で、まっすぐで、ちょっと頑固なとこはあるけど、でも、自分の信念を持った『メル』という架空の人物。自分とは全く真逆のひと。彼女でいるときは、にちかは誰の目を気にすることなく、ただ自分の歌を歌えるような気がしていた。
 そのピンク色の髪が、にちかを無敵にしてくれた。
 けれど当たり前すぎて、にちかはすっかり頭の中から忘却していた。どんな御伽噺だってお話の結末はたいがい決まっている。シンデレラだって、人魚姫だって、そうだった。
 魔法が解けるのは、いつだって唐突なのだ。

 透花は、重い前髪とふちなし眼鏡に覆い隠された真っ黒な瞳と、目が合う。
 心臓を締め付けられるような歌声は、第二音楽室の扉が開かれたと同時に跡形もなく霧散していた。
 夕焼けの赤に染まる音楽室に佇むのは、一人の少女だった。
 あまりに長い沈黙が、ふたりの間に流れる。開けた窓からソフトボール部の掛け声が風に乗ってカーテンとともに揺れた。
 先に動いたのは、透花の方だった。中途半端に開いていた扉を押し、第二音楽室の床に一歩足を踏み出した、そのときである。
「───ひっ、ひひ人違いですぅうう!」
「まだ何も言ってないよ!?」
 思わず透花はツッコんでしまった。言葉のやり取りを何往復かすっ飛ばして、そんなことを叫んだら、自分の正体を声高に明かしているようなものである。その事実を言った後に気付いたらしい少女は、「はぁう!?」と素っ頓狂な悲鳴を上げた。顔を真っ青にしてポケットに突っ込んでいた手で顔を覆い隠そうとするが、その拍子にポケットからスマホが落ちた。彼女の耳に繋がっていたイヤホンがぴんっと引っ張られ、スマホと接続していたプラグが外れる。スピーカーに切り替わった。スマホから流れる曲は───
「はあわわははわああああああああああああああああああああ!!」
 大絶叫である。青を通り越して顔を真っ白にした少女が、床に落ちたスマホを拾い上げようとして今度は、がらがらと音が立つ。少女がしゃがみ込んだ際に、すぐ近くにあった机へぶつかり、その上に置いていた鞄がひっくり返って中身が派手にぶちまけられた。
 流れるように透花が視線を落とせば、床に無残に転がるのは、化粧道具の数々と、見覚えのあるピンク色の髪。
「ほぎゃーーーーーーーーーーーーーー!!??」
 少女はその光景を目の前にして、反射的にそのピンクを隠そうと手を伸ばし、
「あ、危ない!!」
「へっ?」
 垂れ下がったイヤホンのコードで思いっきり足を引っかけ、そのまま床にダイブした。

 ばちーーーん、という衝撃音に思わず透花は目を固く瞑る。
 しばらくして、透花がゆっくりと瞼を開くと、そこに広がる光景はまさしく殺害現場のようだった。床に突っ伏したままうつ伏せで倒れる少女、未だ流れ続ける『ITSUKA』の新曲デモ音源、床に霧散した化粧道具とピンク色のウィッグ。
 これ以上の状況証拠があってたまるものか、きっと名探偵など連れてこなくとも透花の目の前にある光景が答えだ。
 しかも驚くべきは、この間、わずか10秒である。
「……に、にちかちゃん? 大丈夫?」
 返事はもちろんない。透花は膝をついて、微動だにしない背中に手を伸ばし触れる寸前だった。
「………………いっそ殺してぇ……」
 耳を澄ませなければ聴こえないほど、小さな声でにちかは言った。
 透花は少しだけ笑って、手を差し伸べる。
「いい感じにギャグ漫画みたいだったよ、にちかちゃん」
 悪意のない一言がにちかに止めを刺したのだった。

「……絆創膏ありがとね」
「あ、うん」
 勢いよく膝をついた際についた擦り傷には、透花があげた花柄の絆創膏が貼り付けられている。
 二人分ほど隙間を空けて、透花と同じように壁に背を預け、膝を抱えるにちかを横目で見る。ふちのない眼鏡の奥は透花に向けられることなく、睫毛が落とした影のせいで感情をうかがい知ることはできなかった。
 互いに何を言うわけでもなく、もぞもぞと手を組んでみたり、足をぱたぱたしてみたり。
 そんな微妙な空気が数十秒流れ、ようやく口を開いたのはにちかの方だった。
「……馬鹿みたいでしょ」
「え?」
 にちかは自らの髪を手に取り、嫌悪するような眼差しで自嘲気味に笑った。そのまま顔を伏せれば、胸まで届く長い黒髪がにちかを覆い隠して見えなくなった。
「ピンク髪も、濃いメイクも、短いスカート丈も、全部『mel』になるためのおまじないみたいなものだったんだ。芦屋にちかっていう地味で、空気読んでばっかで、影薄くて、いてもいなくても分かんない陰キャじゃなくなるための、おまじない」
 透花は何も言わずただ、耳を傾ける。
「……あたしさ、中学の頃ちょっといじめ……というか、ハブられてたことがあったの」
 全く他人のことを語るような素っ気ない語り口だった。しかしそれは裏を返せば、防衛本能がにちかをそうさせていたのかもしれない。
「クラスでカースト1軍のキラキラ女子グループの、一番地味なやつがあたし。へらへら笑って、周りに頑張って合わせたりとかしちゃって、見下されてんの分かってたけど気づかないふりしてさ。……けどさ、そういうの、全部に嫌になっちゃった時があって。全部、投げ捨ててさ、あたしのこと誰も知らないとこに行きたいって思ってた。……まあ、当たり前だよね。だってさ、死ぬほど無理してんだもん。でも、逃げ出す勇気も立ち向かう勇気も微塵もなくて、惨めで、そんな自分のこと大っ嫌いだった」
 ぎゅうっと、自分を抱き締めるようににちかは組んだ腕に力を籠める。
「そんなとき、だった」
 透花は、その言葉でにちかの声に僅かな機微を感じた。
「あたしはあの漫画を見つけた」
 初めて『二目メメ』の漫画を手に取って読んだとき、にちかは自分の視界が広がるような気がした。中学生のころのにちかを構築する世界のすべては、学校と友人と家族、それだけだった。その狭すぎる視界に、新しい色を一滴垂らしてくれた。それはやがて、にちかを支配していた色さえ塗り潰すほどに鮮烈な輝きを持っていた。
 熱中した。熱中して、何度も、何度も、何度も読み返した。漫画が擦り切れボロボロになってもなお、読み続けた。
「変えられないばかりだけど、でも、ひとつだけ確実に変えられるものがある。それが、あたしだ───って、『メル』の言葉が、どうしようもなく刺さった」
 それが、芦屋にちかにきっかけを与えた。
 物語のに出てくる、現実のどこにもいないひと。けれど、確かにあの世界に存在するひと。
 どんな苦境に立たされても『メル』は何度でも立ち上がった。そのたび、傷が増えようともそれでも彼女は立ち上がった。
 その背中に、にちかはどうしようもなく焦がれた。手を伸ばさずにはいられなかったのだ。
「変わろうって、思った。こんなあたしだけど、『メル』みたいに成れたらきっと自分のこと好きになれる。生きててもいいんだって、思えるって」
 変わるための一歩を踏み出す。にちかは心の奥隅にしまっていた勇気を振り絞る、絶好のチャンスは案外すぐに訪れた。
「中2の時さ、初めて合唱コンでソロに立候補したの。あは、ちっさいでしょあたし。……ただ、あの頃のあたしにとったら信じられないってくらい、勇気振り絞ったんだよ。ま、運が悪いことに、あたしのいたグループのボス的な子も立候補しててね。その子に気遣って周りの子から、譲ってあげなよ、って言われた。前のあたしだったらへらへら笑いながら譲ってたと思う。けど、それは嫌だった。きっと『メル』だって譲らないと思ったから。だから、それは無理だって断ったんだ。……結果、オーディションになってあたしがソロを歌うことが決まった。その子は、泣いてた。それがきっかけで、あたしはグループからもクラスからも孤立していっちゃった。……それでも、あたしは挫けなかった。たぶんそれが余計にあの子たちの反感買ったんだろうね。生意気だ、って」
 にちかは喉に詰まる違和感を拭い去る様に、大きく息を吐いた。平坦な口調とは裏腹に、心臓が痛いほどに脈打っていた。自己防衛本能がその先の記憶を呼び覚ますことを拒否しているようだ。
 それはつい昨日のことのように思い出せる。脳裏に刻まれたトラウマがフラッシュバックする。
「───たぶんわざと、だった。本番、全校生徒1000人くらいの前で、あたしは失敗したの。確かにあの時、あたしは、指揮者に合わせて歌ったのに。伴奏も、クラスメイトも歌わなくって、あたしひとりの声が、体育館に響き渡、って、それで、あたしは」
 張り詰めるような沈黙の後の、失笑、失笑、失笑。一斉に集まった突き刺すような視線、視線、視線。それらすべてが、にちかを蔑んでいた。
 にちかの心を埋め尽くすのはすぐさま逃げ出したいという恥辱と、身を焦がすような激しい怒り。そして、最後には『メル』のようになれなかったという現実だけが残った。
「……怖く、なっちゃったの。誰かの前で歌うことが、怖くて、仕方がなかった」
 高校生になったにちかは、動画サイトで投稿を始めた。
 誰もいない部屋でひとり、気ままに歌うだけなら、にちかは誰の目を気にすることなく歌えたからだ。誰に馬鹿にされることもない、蔑まれることのない、ただひとりの楽園。ひとりで完結する世界で、にちかは満足していた。たぶん、このままでいい。それでいいんだと、誤魔化すように言い聞かせて。
 ───しかし、それは唐突に覆された。
「……けどさぁ、もう、ほんっとに、ずるいよ。……あんな歌、あんな動画、見せられたら、また、夢見ちゃうじゃん。変わりたいって、思っちゃうじゃん」
 それは、まさしく見計らったようなタイミングだった。
 にちかの元にライブ出演のオファーが舞い込み、悩みに悩んだ結果、断りのメッセージを考えていたときだ。『ITSUKA』の『青以上、春未満』を聴いたのは。
 惰性に塗れたにちかの心を塗り替えるほど、目の眩む鮮やかな青だった。
 歌いたい、と初めて強く、強く、思った。
 立ち竦んだまま一歩を進めずにいたにちかに、勇気を与えてくれた。真っ暗な沼の底から、手を差し伸べて救い出してくれた。かつて、『メル』が与えてくれたものと同じ、誰かを救うための、創作。
「『芦屋にちか』のままじゃ、きっとあたしは誰の前でも歌えない。……最初は、偽物でも構わなかった。『mel』はあたしにとって、あたしでなくなるための、おまじないみたいなものだった。何も考えなくて済んだの。『メル』ならきっとこうする、こう言う、って考えながら行動しているうちは、あたしは無敵でいられた。……けど、そういうとこ、あいつは全部お見通しだったんだろうね」
 小さな綻びから、にちかの本性が暴かれるまではあまりに一瞬のことだった。
 怖気づいたのだ。
 あの小ステージの上で10人にも満たない観客を前にして、分厚く纏ったはずの『mel』はあまりに易々と砕け散った。ステージに立ち尽くしていたのは、『メル』の成りそこないである、『芦屋にちか』という只の人間だった。
「はは、笑っちゃうよね。何万人の前で歌うとか息巻いてた人間が、たかだか数人を前にして、怖くなって、逃げてんの。自分の浅はかさが逆に笑えてくるよ」
 にちかは徐に自分の分厚い前髪をかきあげ、自身を嘲る。
「自分が救われたように、誰かを音楽で救いたい、とか。音楽で世界を救える、とかさぁ。全部、全部、嘘っぱちじゃん。あたしなんかの歌で、誰が救えるんだよ。他人の目ばっか気にして、『mel』でいないと自分の歌も満足に歌えないどころか、結局なーんにも歌えないくせにさぁ!」
 にちかの叫びは、静寂に包まれた音楽室を切り裂くように響き渡った。
 
「───だったら、やめればいいじゃん、音楽」
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