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[-00:16:08]劣等犯

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 その眩しさが、癪に障った。
 その素直さが、さらに苛立ちを増幅させる。
 顔立ちも口調も声も何もかも違うというのに、芦屋にちかという存在は、今は無き亡霊の面影と次第に重なっていった。その曖昧な感情は徐々に輪郭を帯び始める。
 敵意だった。生まれて初めて、律は赤の他人に明確な敵意を持った。
 およそ、コントロール機能が壊れたラジコンのようなものである。徐々に、自分で自分を御しきれなくなっていく。一度波打てば、それは次第に大きな荒波として押し寄せ決壊する。
 だからそれは、必然だったのだろう。

『Midnight blue』での打ち合わせに、にちかは1時間ほど遅れてやってきた。
 もちろん、にちかから前もって連絡は入っていた。理由は興味もないから、特に聞くこともない。しかし続けて透花から、にちかちゃんを少し付き合わせてちゃった、ごめんねというメッセージが送られてきて、透花とにちかが一緒にいたことをそこで知る。
 透花とどんな会話をしたのかは知らない。しかし、店にやってきたにちかは、ついこの間までの陰鬱な雰囲気から一転していた。憑き物が落ちたとでもいうように、以前の明るいにちかに戻っていたのだ。
 それが律を余計に腹立たしくさせる。打ち合わせの最中、にちかと交わす言葉の端々から吹っ切れた様子が伺い知れるのところもなお、律を苛立たせる要因となっていた。

 もしかしたらそんな律のことを、どこか察していたのかもしれない。
 バーの開店時間に合わせて出勤した叔父の和久が、律たちのいる作業室のドアを叩いた。
「おー、お前らやってっか?」
 叔父は、気力のかけらも感じられない気だるげな物言いで、タバコを口に咥えたまま顔を覗かせる。そして、おそらく場の雰囲気を一瞬で察したのだろう、やれやれといった感じに片目を瞑った。
「あー……さっき演者から連絡入って、少し遅れるらしくてな。中空き出来ちまうんだわ」
「……それが何?」
 話の全容が見えてこず、つい律は苛立ちを滲ませた口調で聞き返す。
 しかし、そんな律のことなど全く意に介さず叔父は胸ポケットから取り出した携帯用灰皿にタバコを押し付け鎮火させたあと───にちかに視線を向けた。
「にちかちゃん、よければステージで歌ってみるか? 今日客少ねえし、ライブの練習がてらどうよ」
「えっ」
 話の矛先が自分に向くと思っていなかったにちかは、虚をつかれたように肩が跳ねる。アイメイクで縁取られた大きな瞳が、居所なく彷徨う。
 律は、その態度に少なからず違和感を感じた。こういう時のにちかは、すぐさま立ち上がり元気に返事をするとばかり思っていたから。それは叔父も同じ考えだったのだろう、にちかの狼狽える様を見てすぐに言葉を紡ぐ。
「別に困らせたいわけじゃねえんだ。嫌だったら断ってくれていい」
 時間にして、約10秒ほどだ。にちかは深い呼吸で胸を上下させ、ようやく表を上げる。
「……やる。やらせてください」

 ステージに鎮座しているグランドピアノは、数十年使い込まれた古いピアノだ。
 定期的に調律師を呼んでメンテナンスはしているから音程にさほど狂いはないが、やはり年数の分だけ癖はある。慣れた手つきで鍵盤に手を置くと、自然に指が動き出す。鍵盤の固さがちょうどよく馴染んだ。
 律もまた、ステージに上がって客前で弾くのは初めてだった。
 薄暗い店内の中で、ステージ上だけがスポットライトに照らされている。店内をぐるりと見渡す。数名ほどグラスを傾けている程度の客入りだった。そのままバーカウンターに視線を寄こせば、叔父があしらうように顎を上げた。
 緩やかに瞬きをしながら、今度はすぐ目の前の小さな背中を見る。マイクスタンドの前に立つにちかの足元には、スポットライトの光によって伸びた影が不安定に揺れていた。
 いつもの砕けた口調からは想像もつかないほど、にちかは、この場におあつらえ向きな挨拶をした。
「今日は、特別にお時間を頂き歌わせていただきます。それでは、聴いてください───」
 にちかの口から曲名の紹介が成される。『ITSUKA』の新曲だ。
 横目でにちかが振り返り、準備はいいかと問うてくる。律が首を縦に振ったのを確認して、にちかは俯き小さく息を吐くと、すっと客席を正面に捉えた。
 律は目を瞠る。なぜか、その横顔がかつての母の姿と重なって見えた。
 静寂。呼吸を吸う前の、数秒間の緊張。
 ───そして、静かに息を吸う音とともに音楽が奏でられ始める。

 出だしはまずまずである。律はにちかの声に耳を澄ませ、波長を合わせるように音をなぞる。ぶっつけ本番にしては上手く合わせられている。
 しかし、律は徐々に違和感を感じ始めた。テンポも、タイミングも、音程も、合っているはずだ。だというのに、律の中で違和感が膨れ上がるにつれ、にちかの歌声と律の旋律は絶妙にかみ合わず、まるで音がそっぽを向いたように空中分解しているように感じる。
 おい、俺の音を聴け! と、律は苛立ちをぶつけるように鍵盤を強く叩く。けれど、それすら無視して、にちかの歌声が先行していく。
 まずい、このままだと、律の頭の中で最悪なシナリオが思い浮かんだその時だった。
 ───音が、止んだ。
 否。
 歌うのを止めたのだ。それに律が気づいたときにはもう、何もかもが遅かった。店内は鼓膜を突き刺すほどの痛い沈黙に包まれていた。
 律は忘れていた呼吸を思い出し、肩を大きく上下させる。ピアノの屋根と突張棒の間から、小さな背中を見た。マイクを握りしめていたにちかの手がすとん、と力なく落ちる。その指先が微かに震えていることを、律だけが気づいていた。
 律は考えるより先に立ち上がっていた。その背中に手を伸ばすが、虚空を掻くだけに終わった。律が掴むより先に、にちかはステージから飛び出していたから。
 にちかの走り去った後のドアベルだけが、店内に響き渡っている。

「……お前、ふざけてんのか?」
『Midnight blue』を後にしたにちかを追いかけ、その左腕を掴み、強引に引き留めた律の第一声はそれだった。夜のネオン街へ消えていく人々の雑踏の中、律は行きかう通行人の目も気にせず、未だ振り返らないその背中を問い詰める。腸が煮えくり返るようだった。
「何で止めた」
 にちかからの返答はない。その態度は、律の怒りに油を注ぐようなものだった。
「自分が何したか、分かってんのか?」
 律は、にちかの細腕を無意識のうちにさらに強く握りしめていた。跡が残るほど、強く。
 耳鳴りがする。感情を制御するためのちっぽけな理性など、塵屑になり果てていた。
「っ、なんとか言えよ、なあ!!」
 容量を超え、噴き出した感情の狭間でぐちゃぐちゃにされた律は、過去と現実の境目が段々と曖昧になっていく。
 だめだ。これ以上は、何も考えるな、と僅かに残された理性が警鐘を鳴らしている。だというのに、律はもう止まれない。律の耳鳴りは次第にクリアになっていく。雑音が少しずつ取り払われ、その正体を表す。
 押し込めていた、昔の記憶が蘇る。それは、懐かしい母の───否、亡霊の声だった。

『律。ねえ、律』
 ───うるさい。
『律もきっと好きになるよ、音楽のこと』
 ───黙れ、黙れ。
『お母さんも律のこと、世界で一番だーい好きよ!』
 ───嘘つき、嘘つき、嘘つき。

 心の奥底で封じていたはずの幼い頃の記憶が、ザッピングのように何度も切り替わる。後頭部を鉄パイプでぶん殴られたかのような鋭い痛みが、落雷の如く走った。律は、思わず右手で額を抑える。
 そして、右目が遮られたごく僅かな視界の中で、あの地獄のような光景が広がった。
『───いいな、律。もう二度と、音楽はやるな。絶対に』
 生まれて初めて見た、父の涙を律は忘れることが出来ない。
 そしてそれが父と交わした最初で最後の、約束だった。

 次に瞼を開いた時、律はとうに目の前に広がる世界が、幻か、現実か、見分けが付かなくなっていた。頭の中が無秩序に乱れ、曖昧になっている。
 ただ一つだけはっきりしていることは、目の前にいる人間へ向けるべきは、明らかな敵意であることだけ。
「そんなもんだったのかよ」
 律は、吐き捨てる。
「嫌になったら逃げちまうような、そんな程度のもんだったのか。お前にとっての、音楽ってやつは」
 律は、苛立ちをぶつける。
「ははは、笑えるわ。なーにが、音楽で世界が救えるだよ! なにが、歌で誰かを救いたいだよ!! 本当に、心の底から反吐が出る」
 律は、歯止めが利かなくなっていた。
「結局さ、アンタはただ自己満でやってるだけだ。ステージに立って、緊張したかなんだか知らないけど、他人の目ぇ気にして、ビクビク怯えて、自分の歌も満足に歌えない奴が出来もしねえ夢語ってんじゃねえ! 一体誰があんな歌で救われんだよ。教えてくれよ、なあ」
 律は、否定する。
 芦屋にちかを、在りし日の亡霊を、否定する。
「これで分かっただろ。所詮音楽なんて、そんなもんなんだよ。誰も救えない、救えるわけがない。救われたって思ってるのは、ただ一時的に、救われたように錯覚するってだけだ。だって、音楽が世界を変えてくれるわけじゃない、クソみたいな現実を都合よく改変してくれるわけでもない、思い出したくない過去を無かったにしてくれるわけでもない! ただその時だけ───と、そう錯覚させるだけだ」
 かつて、幼い律は錯覚していた。信じていたのだ、誰かを救う音楽を。母の言葉を真に受けて、それは確かにあるのだと思い込んでいた。
 しかし、律はもう醒めてしまった。当然だ。どんな精巧な音を重ねても、訴えかける歌声があろうとも、それは所詮、音の集合体でしかない。形ないものは消える。やがて潰える夢に縋り続けるのは、不可能なのだから。
 そして、律に残された事実はただひとつ。
 音楽に母を奪われたという、残酷な現実だけだった。
「……残念だったな。音楽なんかで、世界は救えないんだよ」
 なあ。そうだろう、母さん───心の中で、律はそう目の前の亡霊に問いかける。
 もちろん、返事はない。
 しかし、代わりに律が掴んだ細腕がピクリと震えた。はたと気づいた瞬間には、律の腕は強い力で振り払われていた。
 ピンク色の髪が靡く。振り向いたその瞳を律は初めて、真正面で捉えた。
 そこでようやく律は、我に返る。重ね合わせていた亡霊の影は、跡形もなく消え失せていた。
 目の前にいたのは、芦屋にちかというただひとりの少女だけだった。不規則に揺らめく涙の膜から零れ落ちる、星屑の残滓が頬を伝っていた。あの瞳の奥の輝きが打ち砕かれ、流れ落ちているかのように。
 しまった、と律が後悔しようともすでに手遅れだった。
「っ、それでも、あたしは、あたしはっ……!」
 あたしは、の後に続く言葉がなんだったのかは、ついに律には分からなかった。
 踵を返して走り去るにちかの背中を追いかけるだけの資格は、もう律にはなかったからだ。

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