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第8話 竜胆の咲く庭にて
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彼女が去ってから、一週間ほど経ったある日、ブライトン邸にディクソン警部が訪ねて来た。応接室に通されてシリルを見た警部は何とも困ったような顔をした。
一目見ただけで、シリルが憔悴し切っているのが分かったからだ。折角の美しい金髪は乱れ、寝ていないのか目の下には大きな隈が出来ていたし、シャツもはだけてだらしないように見えた。
「ディクソン警部……どうしました? 逮捕でもしに来ましたか?」
ソファにもたれ掛かるように座り、力のない眼で警部を見上げる。
「いいえ。これまでの非礼の詫びに」
「非礼の詫び?」
「えぇ。ロスリン嬢は生きていた。それが証明されましてね。そう、貴方が連れいていた、あの女性です」
「……」
「彼女から手紙が着ましてね。貴方には何の咎もないと。失踪したのは自分の意志だとね」
彼女から送られてきた手紙には失踪した夜のことが細かく書いてあった。
シリルに騙された己の判断力を恥じ、彼に顧みられない屈辱の日々に耐えていたある日。彼女の中で何かが切れたのだという。そして何も持たず何の宛てもないまま、夜の闇に紛れ屋敷を出た。なるべく遠くに行きたくて、市内を離れ郊外に広がる森の中を夜通し走った。そして疲れ果てて倒れたのだ。
そこに雨が降って彼女の痕跡を流してしまったのが捜索を難しくさせた。その上、彼女を助けた老夫婦には新聞を読む習慣はなかったし、そもそも文字も読めなかっただろう。さらに、縫製工場の主も不法に女性達を働かせていたから、ベルの身元など調べるはずも無かった。
「手紙だけで、彼女だと?」
警察にしては手ぬるいのではとシリルが嗤う。
「最近、科学捜査っていうものがありましてね。何でも指には人それぞれ違う紋様ってものがあるそうで。この屋敷を調べた際に採取した指紋と、以前彼女から送られた手紙と今回来た手紙の指紋を全て比較して完全に一致したんですよ」
「そうですか……」
ベルがロスリンだというのは分かっていたことだから、彼にとっては何の感慨も湧かない話だった。
「えぇ。貴方には長年疑って申し訳ありませんでした」
ディクソン警部は頭を下げる。
容疑を晴らすという目的を果たしたはずなのに、シリルの心は曇ったままだ。
彼女は去った。もう戻らない。
それでも、もし彼女がここへ帰って来たなら。
彼女が来たら……。
ロスリンは花束を2つ抱えて広大な墓地の中を歩いていた。この4年出来ていなかった両親の墓参りをする為に。2人の墓の前に立ち、ロスリンは首を傾げた。既に新しい花束が置かれていたからだ。その花はロスリンが持ってきたものと同じ竜胆。花の状態を見るに、今日か少なくとも昨日、誰かが置いていったのだろう。
一体どなたが置いて下さったのかしら? ……まさか、ね。
並び合った両親の墓にそれぞれ花を手向けながら、ロスリンが考えていると後ろから誰かに声を掛けられる。
「その花はシリルが今朝早く手向けていったものだよ」
ロスリンが振り返ると、エルマーが苦笑を浮かべて立っていた。
「エルマーさんっ」
驚いてロスリンは立ち上がる。
「どうしてここに?」
「ディクソン警部に聞いても、君の滞在先を教えてくれなかったから。ここで待っていたらいずれ現れるんじゃないかと」
「そう、でしたか」
ロスリンが目を伏せる。
「それより子爵がこの花を?」
「そうだよ。彼は月に1度はここへ来て、お二人に花を手向けているよ。大概人の居ない朝早くに」
「……」
意外なことを聞かされて、ロスリンは信じて良いものか迷う。彼にとって自分の両親の墓参りして、一体何の意味があるのだろう?
「まぁ。罪悪感の表れってところだろうけど」
「もう離婚は成立しました。今日ここへ来る必要はなかったのではありませんか?」
その言葉にエルマーがわざとらしく驚いて見せた。
「あれ、そうだったかな? 僕が知ってる限り離婚は成立してないみたいだけど」
「えぇっ」
今度はロスリンが驚く番だった。
「そんなはずありません……私は離婚に関する書類に確かに署名しました」
そもそも私と離婚する為に、私が現れるのを期待して偽物を仕立て上げたはず。
そしてその望み通りになった。
「離婚しない理由がありません」
「そうかなぁ。君が去ってから、シリルすごく落ち込んで見てられないくらいだよ。シリルが君を見る目に何の感情も無かったとは、とても思えない。僕がこの計画提案したようなものだし。これでも結構心配してるんだ」
エルマー自身、責任を感じていた。だが、親友が偽りの愛を囁き、ロスリンの財産を好き勝手に浪費したのは事実で、それを軽々しく許してやってくれ、とは言えなかった。彼が出来ることは、シリルの窮状を伝えるだけ。
「エルマーさん……」
「それじゃ。お邪魔してごめんね」
去っていくエルマーを見送った後、ベルは両親の墓の前にしゃがみ込む。泣きそうな顔で愛しい両親に話し掛ける。
「私、どうしたら良いの?」
シリルはぼんやりと花の咲き始めた庭の竜胆を見つめる。青や紫の小ぶりの花が幾重にも連なり、風に揺れている。
彼女の戻って来ないと分かっていても、もしかしたら、と詮無いことを考えてしまう。
彼女が帰って来たら……彼女が来たら、今度こそ。
誰かが庭に入って来た靴音が聞こえ、シリルが何気なくそちらを向くと、赤毛の女性を立っていた。シリルの目が驚愕に大きく開かれる。
「ベルッ……いや、ロスリン。どうして……」
「竜胆の花が咲く頃だと思って……」
ロスリンは身を屈めて咲き誇る1輪の竜胆を手折り、それを愛おしそうに見つめる。
「貴方は私にこの花を持ってきてくれた……だから、貴方が私を愛してくれると思った」
「そうしていたら、どれだけ良かっただろう。俺は……」
跪いて、俯く彼女の顔を覗き込んで、その涙を拭って抱きしめてあげたら良かった。
「言ってくれ、ロスリン。俺を恨んでいると、憎んでいると。 君に要らぬ苦しみと痛みと悲しみを与えた、この俺を!」
「子爵……」
悲痛な顔でシリルは訴える。彼の姿を見てロスリンは少なからず動揺した。エルマーが言った通り、彼は痩せてやつれ、顔には濃い疲れが見えた。
「もう良いんです。貴方も充分苦しんだのですから」
「しかし……」
「でも、どうして離婚の書類を出されないのですか?」
ロスリンの質問にシリルは困ったように笑う。
「あれは暖炉で燃やしたよ」
「燃やした?」
怪訝な顔でロスリンが聞き返す。
「あぁ。何年か先、君に本当に愛する人が出来たとき、まだ離婚が成立していないと知ったら、君は困ってここへ来るだろう? そうしたら、俺はまた君に会えるというわけだ。愚かな男だろう?」
「まぁ……」
「正直に言えば、何度も出そうと考えた。これ以上君の人生に関わるべきじゃないと何度も思った。……なのに、どうしても出せなかった」
「どうして?」
「君を愛しているからだ。あの書類を出してしまったら、君との繋がりが完全に断たれてしまう。君がもしここへ戻ってきたら、俺は君に愛を乞うつもりだったよ」
シリルがロスリンへ歩み寄り、そっと彼女の体を抱きしめる。彼女は彼の胸のポケットに竜胆の花を差し、体を預けた。
「会いたかった。ベル、いや、ロスリン」
「どちらでも構いません。竜胆の別名はベル・フラワーというんです」
「それじゃ……」
「えぇ。私が朧げに覚えていたベル・フラー、それはつまり竜胆のことだったんです。父と母は竜胆がたくさん咲いている花畑で幾度もデートしていたんです。プロポーズもそこで。それで2人は娘を私達のベル・フラワーとよく呼んでくれました。だから、どちらでも良いんです」
ロスリンにとって、何の憂いもなく愛と楽しみに満ちた日々。ブライトン邸から逃げ出したのも、そんな世界に帰りたくなったからだ。
「あぁ、ロスリン。私のベル・フラワー」
胸の中にある確かな温もりにシリルは感嘆の息を漏らす。
「もう一度機会をくれ、ロスリン。君を愛する機会を」
「私の気持ちはその竜胆に込めました」
「この花に?」
シリルが胸の竜胆に視線を寄越す。
「子爵、竜胆の花言葉を知っていますか?」
彼女の問いにシリルは首を振った。ロスリンは慈愛に満ちた顔で微笑む。
「傷ついたあなたを愛する、です」
シリルは驚いた顔をした後、抱きしめていた腕を解きロスリンの前に跪いて彼女の手を取る。
「ロスリン。私と人生を共に歩んで欲しい」
真摯な瞳でロスリンを見つめるシリル。ロスリンは涙ぐみながら小さく頷いた。
竜胆の咲き乱れるブライトン邸の庭に多くの人が集まり賑やかにお喋りを楽しんだり、用意された菓子を美味しそうに食べている。ここに集まっているのは多くが警察官とその家族だった。
「しかし、子爵も変わってますね。自分を監視していた警察の人間を招いてガーデンパーティなんて」
ディクソン警部が呆れたように、シリルとその隣に立っているロスリンを見る。
「まぁまぁ。良いじゃないですか。終わりよければ全て良し、ですよ。警部」
エルマーがスコーンを頬張りながらにこにこと笑っているが、ディクソン警部に睨まれ後ずさる。
「ははっ。そんな怖い顔しないで下さいよ……」
そう言ってエルマーは足早にシリル達の前から去り、菓子の置いてあるテーブルに行ってしまった。
「あんまりエルマーを苛めないで下さい。根は良い奴ですから」
シリルが苦笑すると、ディクソン警部はため息を吐いた。
「ディクソン警部を始め、警察の方々には感謝しているんですよ」
「は?」
にこやかに言うシリルに対し、警部は思わず気の抜けた返事をした。
「貴方がたが私の一挙手一投足を監視し続けてくれたからこそ、私は諦めずに更生出来たんですよ。それがなかったら当の昔に、放蕩者に逆戻りして破滅していたでしょう」
シリルの言葉に警部は天を仰いだ。
「……何てこったい。この4年、警察は放蕩貴族の更生の手伝いさせられてたのか」
「えぇ。感謝の印として、警察にも幾ばくかの寄付をさせて頂きました」
「寛大な御寄附をどうも!」
投げやりに言い放つ警部に、シリルもロスリンも楽しそうに笑う。
「警部、まだ更生が必要な男がいるようですよ」
シリルが指を差すと、そこには女の子達と楽しそうに何か話しているエルマーの姿があった。
「ああ! うちの娘にっ」
ディクソン警部は急いでエルマーの許へ向かった。そして自分の娘とエルマーの間に割って入る。その様子を微笑んで見ていたロスリンは、こちらをじっと見つめるシリルの視線に気付き、首を傾げる。
「どうしたの、シリル?」
問い質されてシリルが真面目な顔をして答える。
「どうしたら君が私にキスしてくれるか考えてたんだ」
「まぁ。お客様が居る前でそんなことを考えてらしたの?」
ロスリンが目を瞬かせる。
「そうだよ。私のベル・フラワー・不謹慎な男だろう? こと君のことに関しては自制が効かなくてね」
「それなら紳士らしくお願いしてみたらどうかしら? 心優しい奥様はきっと願いを叶えてくれるはずよ」
澄ました顔でロスリンはそう提案した。
「では、この哀れな私めにキスをくださいますか、麗しい奥方?」
シリルは胸に手を当て、軽くお辞儀をする。その芝居がかった仕草がおかしいのかロスリンが鈴を転がしたように笑った。
こうして、甘い口づけを交わす夫婦の姿を何人もの招待客が目撃することとなった。
一目見ただけで、シリルが憔悴し切っているのが分かったからだ。折角の美しい金髪は乱れ、寝ていないのか目の下には大きな隈が出来ていたし、シャツもはだけてだらしないように見えた。
「ディクソン警部……どうしました? 逮捕でもしに来ましたか?」
ソファにもたれ掛かるように座り、力のない眼で警部を見上げる。
「いいえ。これまでの非礼の詫びに」
「非礼の詫び?」
「えぇ。ロスリン嬢は生きていた。それが証明されましてね。そう、貴方が連れいていた、あの女性です」
「……」
「彼女から手紙が着ましてね。貴方には何の咎もないと。失踪したのは自分の意志だとね」
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シリルに騙された己の判断力を恥じ、彼に顧みられない屈辱の日々に耐えていたある日。彼女の中で何かが切れたのだという。そして何も持たず何の宛てもないまま、夜の闇に紛れ屋敷を出た。なるべく遠くに行きたくて、市内を離れ郊外に広がる森の中を夜通し走った。そして疲れ果てて倒れたのだ。
そこに雨が降って彼女の痕跡を流してしまったのが捜索を難しくさせた。その上、彼女を助けた老夫婦には新聞を読む習慣はなかったし、そもそも文字も読めなかっただろう。さらに、縫製工場の主も不法に女性達を働かせていたから、ベルの身元など調べるはずも無かった。
「手紙だけで、彼女だと?」
警察にしては手ぬるいのではとシリルが嗤う。
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「そうですか……」
ベルがロスリンだというのは分かっていたことだから、彼にとっては何の感慨も湧かない話だった。
「えぇ。貴方には長年疑って申し訳ありませんでした」
ディクソン警部は頭を下げる。
容疑を晴らすという目的を果たしたはずなのに、シリルの心は曇ったままだ。
彼女は去った。もう戻らない。
それでも、もし彼女がここへ帰って来たなら。
彼女が来たら……。
ロスリンは花束を2つ抱えて広大な墓地の中を歩いていた。この4年出来ていなかった両親の墓参りをする為に。2人の墓の前に立ち、ロスリンは首を傾げた。既に新しい花束が置かれていたからだ。その花はロスリンが持ってきたものと同じ竜胆。花の状態を見るに、今日か少なくとも昨日、誰かが置いていったのだろう。
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「その花はシリルが今朝早く手向けていったものだよ」
ロスリンが振り返ると、エルマーが苦笑を浮かべて立っていた。
「エルマーさんっ」
驚いてロスリンは立ち上がる。
「どうしてここに?」
「ディクソン警部に聞いても、君の滞在先を教えてくれなかったから。ここで待っていたらいずれ現れるんじゃないかと」
「そう、でしたか」
ロスリンが目を伏せる。
「それより子爵がこの花を?」
「そうだよ。彼は月に1度はここへ来て、お二人に花を手向けているよ。大概人の居ない朝早くに」
「……」
意外なことを聞かされて、ロスリンは信じて良いものか迷う。彼にとって自分の両親の墓参りして、一体何の意味があるのだろう?
「まぁ。罪悪感の表れってところだろうけど」
「もう離婚は成立しました。今日ここへ来る必要はなかったのではありませんか?」
その言葉にエルマーがわざとらしく驚いて見せた。
「あれ、そうだったかな? 僕が知ってる限り離婚は成立してないみたいだけど」
「えぇっ」
今度はロスリンが驚く番だった。
「そんなはずありません……私は離婚に関する書類に確かに署名しました」
そもそも私と離婚する為に、私が現れるのを期待して偽物を仕立て上げたはず。
そしてその望み通りになった。
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「それじゃ。お邪魔してごめんね」
去っていくエルマーを見送った後、ベルは両親の墓の前にしゃがみ込む。泣きそうな顔で愛しい両親に話し掛ける。
「私、どうしたら良いの?」
シリルはぼんやりと花の咲き始めた庭の竜胆を見つめる。青や紫の小ぶりの花が幾重にも連なり、風に揺れている。
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誰かが庭に入って来た靴音が聞こえ、シリルが何気なくそちらを向くと、赤毛の女性を立っていた。シリルの目が驚愕に大きく開かれる。
「ベルッ……いや、ロスリン。どうして……」
「竜胆の花が咲く頃だと思って……」
ロスリンは身を屈めて咲き誇る1輪の竜胆を手折り、それを愛おしそうに見つめる。
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「そうしていたら、どれだけ良かっただろう。俺は……」
跪いて、俯く彼女の顔を覗き込んで、その涙を拭って抱きしめてあげたら良かった。
「言ってくれ、ロスリン。俺を恨んでいると、憎んでいると。 君に要らぬ苦しみと痛みと悲しみを与えた、この俺を!」
「子爵……」
悲痛な顔でシリルは訴える。彼の姿を見てロスリンは少なからず動揺した。エルマーが言った通り、彼は痩せてやつれ、顔には濃い疲れが見えた。
「もう良いんです。貴方も充分苦しんだのですから」
「しかし……」
「でも、どうして離婚の書類を出されないのですか?」
ロスリンの質問にシリルは困ったように笑う。
「あれは暖炉で燃やしたよ」
「燃やした?」
怪訝な顔でロスリンが聞き返す。
「あぁ。何年か先、君に本当に愛する人が出来たとき、まだ離婚が成立していないと知ったら、君は困ってここへ来るだろう? そうしたら、俺はまた君に会えるというわけだ。愚かな男だろう?」
「まぁ……」
「正直に言えば、何度も出そうと考えた。これ以上君の人生に関わるべきじゃないと何度も思った。……なのに、どうしても出せなかった」
「どうして?」
「君を愛しているからだ。あの書類を出してしまったら、君との繋がりが完全に断たれてしまう。君がもしここへ戻ってきたら、俺は君に愛を乞うつもりだったよ」
シリルがロスリンへ歩み寄り、そっと彼女の体を抱きしめる。彼女は彼の胸のポケットに竜胆の花を差し、体を預けた。
「会いたかった。ベル、いや、ロスリン」
「どちらでも構いません。竜胆の別名はベル・フラワーというんです」
「それじゃ……」
「えぇ。私が朧げに覚えていたベル・フラー、それはつまり竜胆のことだったんです。父と母は竜胆がたくさん咲いている花畑で幾度もデートしていたんです。プロポーズもそこで。それで2人は娘を私達のベル・フラワーとよく呼んでくれました。だから、どちらでも良いんです」
ロスリンにとって、何の憂いもなく愛と楽しみに満ちた日々。ブライトン邸から逃げ出したのも、そんな世界に帰りたくなったからだ。
「あぁ、ロスリン。私のベル・フラワー」
胸の中にある確かな温もりにシリルは感嘆の息を漏らす。
「もう一度機会をくれ、ロスリン。君を愛する機会を」
「私の気持ちはその竜胆に込めました」
「この花に?」
シリルが胸の竜胆に視線を寄越す。
「子爵、竜胆の花言葉を知っていますか?」
彼女の問いにシリルは首を振った。ロスリンは慈愛に満ちた顔で微笑む。
「傷ついたあなたを愛する、です」
シリルは驚いた顔をした後、抱きしめていた腕を解きロスリンの前に跪いて彼女の手を取る。
「ロスリン。私と人生を共に歩んで欲しい」
真摯な瞳でロスリンを見つめるシリル。ロスリンは涙ぐみながら小さく頷いた。
竜胆の咲き乱れるブライトン邸の庭に多くの人が集まり賑やかにお喋りを楽しんだり、用意された菓子を美味しそうに食べている。ここに集まっているのは多くが警察官とその家族だった。
「しかし、子爵も変わってますね。自分を監視していた警察の人間を招いてガーデンパーティなんて」
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「まぁまぁ。良いじゃないですか。終わりよければ全て良し、ですよ。警部」
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「ははっ。そんな怖い顔しないで下さいよ……」
そう言ってエルマーは足早にシリル達の前から去り、菓子の置いてあるテーブルに行ってしまった。
「あんまりエルマーを苛めないで下さい。根は良い奴ですから」
シリルが苦笑すると、ディクソン警部はため息を吐いた。
「ディクソン警部を始め、警察の方々には感謝しているんですよ」
「は?」
にこやかに言うシリルに対し、警部は思わず気の抜けた返事をした。
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シリルの言葉に警部は天を仰いだ。
「……何てこったい。この4年、警察は放蕩貴族の更生の手伝いさせられてたのか」
「えぇ。感謝の印として、警察にも幾ばくかの寄付をさせて頂きました」
「寛大な御寄附をどうも!」
投げやりに言い放つ警部に、シリルもロスリンも楽しそうに笑う。
「警部、まだ更生が必要な男がいるようですよ」
シリルが指を差すと、そこには女の子達と楽しそうに何か話しているエルマーの姿があった。
「ああ! うちの娘にっ」
ディクソン警部は急いでエルマーの許へ向かった。そして自分の娘とエルマーの間に割って入る。その様子を微笑んで見ていたロスリンは、こちらをじっと見つめるシリルの視線に気付き、首を傾げる。
「どうしたの、シリル?」
問い質されてシリルが真面目な顔をして答える。
「どうしたら君が私にキスしてくれるか考えてたんだ」
「まぁ。お客様が居る前でそんなことを考えてらしたの?」
ロスリンが目を瞬かせる。
「そうだよ。私のベル・フラワー・不謹慎な男だろう? こと君のことに関しては自制が効かなくてね」
「それなら紳士らしくお願いしてみたらどうかしら? 心優しい奥様はきっと願いを叶えてくれるはずよ」
澄ました顔でロスリンはそう提案した。
「では、この哀れな私めにキスをくださいますか、麗しい奥方?」
シリルは胸に手を当て、軽くお辞儀をする。その芝居がかった仕草がおかしいのかロスリンが鈴を転がしたように笑った。
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