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第5話 子爵の後悔
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「今日は用事があって、外へ出てくる。君も今日は自由に過ごしてくれ」
朝食の席でそう言われて、ベルは少し考えてから答える。
ロスリンさんは、お父様がお医者さんだけあって、本人も教養ある方だったそうだし。そちらも勉強しておかなきゃ。
「それなら書斎で本を読もうと思います。構いませんか?」
「あぁ。好きに使ってくれて良い」
シリルが先に食堂から出た後、ベルはメイド達に尋ねる。
「子爵の奥様ってどういう方だったんですか? 子爵とは不仲だったって聞いてますけど」
年配のメイド達は困ったように顔を見合わせる。
「アタシらは皆、奥様が行方不明になってから雇われたから、その人のことは全然知らないんだよ」
「そうなんですか?」
意外そうにベルは目を瞬かせる。ここ勤める使用人達は年季の入ってそうな人が多いので長年子爵家に仕えているものと、ベルは思っていた。
「あぁ。元々いた人達は、あの騒動で皆辞めちまったそうだから」
「まぁ……」
奥様のことをもっと知ることが出来ると思ったのだけれど……。
「子爵はあんなに良い方なのに、どうして奥様は何も言わずに出て行ってしまわれたのでしょう?」
「さぁねぇ……。でも、昔は相当な遊び人だったって話だし。アタシらみたいなワケありを雇ってくれるから、アタシらは皆感謝してるけど」
他のメイド達も揃って頷く。
「ワケあり?」
「そうさ。ここのメイドじゃ皆、何かしらの理由で旦那が居なかったり、田舎に子どもを預けて働きに来てるのとか、元は人に言えないような商売してたやつとか、そういう連中ばかりさ」
「そうだったんですね」
だから、私やララに優しかったんだわ。辛い境遇に理解があったから。
「元々は旦那様が支援しているミセス・モートンのところからの紹介さ。なんでもこの屋敷は若い人とか未婚の人が働くには評判が悪すぎるからって言って。庭師見習いとして働いてる若いのも、元は手癖の悪い男だったんだけど、旦那様は真面目に更生したいならって雇っているのさ。他所の人がどう言っているか知らないけど、アタシらからしたら旦那様は良い主人だよ」
やっぱり子爵は立派な方だわ。
メイドの話を聞いてベルはその思いを強くした。
その後ベルは書斎に移動し、椅子に座って本を読み始めた。しばらく読み耽っていたいたが、ふと気になってデスクの引き出しを開けてみる。
「あったわ」
”彼はいつでも離婚出来るように書類を書斎に置いているのさ”
シリルの友人エルマーの言葉を思い出し、ベルは確かめてみたくなったのだ。見つけた離婚に関する書類をベルはパラパラと捲って読み始めるが、主に財産に関することが書いてあるようで、彼女にはよく分からなかった。ただ、離婚に同意する署名欄にシリルの名前が書いてあるのだけは見て取れた。
「本当だったんだ……」
ベルは何故だかショックを受けた。
一体、ブライトン子爵とロスリンさんの間には何があったの? 思えば子爵から教えてもらったことも、生い立ちや好みや親戚や交友関係ばかり。
「何だかこう、表面的というか実際の人柄はよく分からないわ……そうだ」
ベルはロスリンが使っていた寝室へ行ってみようと思いついた。
でも、子爵はどうしてか入って欲しくないみたいだけれど……。
シリルに屋敷の中を案内されたときに、ロスリンが使っていた女主人の部屋の前も通ったが、中を見せてはもらえなかった。
「部屋を見たら、為人が分かるものが何かあるかもしれない」
ベルは書斎を出て、ロスリンの使っていた寝室に向かい、扉のノブに手を掛ける。
鍵は掛かっていない。ノブを回して中へ入った。
部屋は広く、天蓋付きのベッド、化粧台、衣裳箪笥、文机など意匠の凝った調度品が揃っているが、ベルは何だか整い過ぎて生活が感じられないと思った。
「4年も使られていないから当然なんだけど……」
それでも、何か引っ掛かるものがあった。
何だろう……。何故だかとても胸が締め付けられるわ。来たことないはずなのに。
「ベル!」
ベルはただ呆然と部屋の入口で佇んでいると、後ろから声を掛けられた。振り返ると、血相を変えたシリルがこちらへ走るように近づいてくる。
「何をしているんだっ!」
「えっ……」
彼の剣幕にベルは驚いて固まる。
「あの、ロスリンさんのこともっと知りたいな、と思って……」
「部屋から出るんだっ」
シリルが彼女の腕を掴み、強引に部屋から連れ出す。ベルは体から血の気が引き、顔面が蒼白になって震える。
「ご、ごめんなさいっ……」
シリルの怒りに満ちた声音や表情に、罵声を浴びせられ叩かれた日々が甦る。
「いや、私も声を荒げてしまってすまない」
ベルの怯え切った様子にシリルは冷静になり、手を離した。
「だが、妻の部屋には入らないでくれ」
「はい……」
力なくベルが頷く。
私、とんでもないことをしてしまったのだわ……。子爵を失望させてしまったのだとしたら、とても辛い。
2人は会話もなく、夕食を終えるとベルは部屋に戻り、沈んだ気持ちで早々にベッドへ入った。
ミシンの、カシャカシャと動く音が幾重にも重なり空間を満たす。
”この役立たず! さっさと働け!”
その中で男の怒号の後で、鞭が空を切る鋭い音がする。
「やめて……! いやっ……」
暗闇の中をベルはがむしゃらに走る。しかし、男の声と鞭の鳴る音はどこまでも追ってくる。
来ないでっ!
逃げ回っていると、ついに足を縺れさせ倒れ込む。そこへ嗜虐心を隠しもせず下品な笑みを浮かべた男が近づいて来て、鞭を振り上げる。
「やめてっ」
そう叫んでベルは身構える。
その瞬間。
「ベル!」
体を強く揺すられ、ベルは目を覚ます。薄明りの中に、心配そうな顔でこちらを見つめるシリルの姿が見えた。
「子爵……?」
荒い呼吸を繰り返しながら、ベルは上体を起こす。そして混乱したように落ち着きなく視線を巡らせる。広い部屋に品の良い調度品、それにシリル。
そうだ、ここは縫製工場じゃない。
「随分うなされていたよ。私の所為だな……」
夕方、ベルに対して怒ってしまったことが、彼女の工場での辛い生活を思い起こさせてしまったのだろう。
シリルは激しく後悔した。
「だが、安心してくれ。ここには君を叩く者も、罵ったりする者も居ない。君は安全だよ」
シリルは宥めるように優しくベルに話し掛ける。
「……はい」
そう返事を返したが、ベルの体はまだ震えていた。生々しい恐怖が甦ってきて、心はまだ不安に怯えていたからだ。
シリルはベッドの端に腰掛け、思わずベルの肩を抱いて自分の方へ引き寄せる。
「大丈夫。誰も君を傷つけたりしないよ。もし、また君が怖い思いをすることがあっても助けに行くよ」
「本当に?」
シリルの慰めの言葉を聞き、ベルは彼の顔を見る。
「あぁ。だから、何もかも忘れて、安心して眠るんだ」
彼の柔らかな声に、ベルの目から涙が零れる。そして、彼の胸で声もなく泣き続けた。彼女の背を労わるように撫でながら、シリルは慙愧に堪えぬ思いだ。
どうしてあんなに声を荒げてしまったのか、と自問すれば答えは簡単だった。
ベルに知られなたくないからだ。
あの部屋の殺風景な様子は、私が妻に何もしなかったことの証左だ。
贈り物の一つもない、虚しい部屋。
ベルにロスリンの振りをしてもらうなら、いずれ自分が働いた悪事を話さねばならない。
……まぁ、そうなればきっとベルもこんな茶番に付き合う気も失せるだろうな。
しかし、シリルはそれを先延ばししている自分に気が付いていた。
彼女に失望されるのが怖いのか? 去ってしまうのを恐れているのか?
思いの外、ベルと過ごす日々は楽しかった。戸惑いながらも、一生懸命に妻に成りきろうとするベル。慕うように見つめられると、心が疼く。
シリルは自分が少なからずベルに惹かれているのを認めないわけにはいかなかった。
夕方のベルの様子が気になって部屋の前まで来たら、中から彼女の叫ぶ声が聞こえてきた。そして思わず入ってしまったのだった。
こんな茶番はやはりやめるべきだな。
シリルが考え事をしていると、いつの間にかベルが彼の胸に寄りかかり寝息を立てていた。彼はほっとして、ベルを丁寧にベッドへ横たえる。
「お休み、ベル」
彼はベルの顔に残った涙の跡を指で優しく拭い、赤い髪をそっと撫でて、部屋を後にした。
……ロスリンもああやって、一人泣いていたのかもしれないな。両親を失い、私に蔑ろにされて。
シリルは自身への怒りで顔を歪める。
私は誰も幸せに出来ない。ベルへの思いも消してしまわねば。
朝食の席でそう言われて、ベルは少し考えてから答える。
ロスリンさんは、お父様がお医者さんだけあって、本人も教養ある方だったそうだし。そちらも勉強しておかなきゃ。
「それなら書斎で本を読もうと思います。構いませんか?」
「あぁ。好きに使ってくれて良い」
シリルが先に食堂から出た後、ベルはメイド達に尋ねる。
「子爵の奥様ってどういう方だったんですか? 子爵とは不仲だったって聞いてますけど」
年配のメイド達は困ったように顔を見合わせる。
「アタシらは皆、奥様が行方不明になってから雇われたから、その人のことは全然知らないんだよ」
「そうなんですか?」
意外そうにベルは目を瞬かせる。ここ勤める使用人達は年季の入ってそうな人が多いので長年子爵家に仕えているものと、ベルは思っていた。
「あぁ。元々いた人達は、あの騒動で皆辞めちまったそうだから」
「まぁ……」
奥様のことをもっと知ることが出来ると思ったのだけれど……。
「子爵はあんなに良い方なのに、どうして奥様は何も言わずに出て行ってしまわれたのでしょう?」
「さぁねぇ……。でも、昔は相当な遊び人だったって話だし。アタシらみたいなワケありを雇ってくれるから、アタシらは皆感謝してるけど」
他のメイド達も揃って頷く。
「ワケあり?」
「そうさ。ここのメイドじゃ皆、何かしらの理由で旦那が居なかったり、田舎に子どもを預けて働きに来てるのとか、元は人に言えないような商売してたやつとか、そういう連中ばかりさ」
「そうだったんですね」
だから、私やララに優しかったんだわ。辛い境遇に理解があったから。
「元々は旦那様が支援しているミセス・モートンのところからの紹介さ。なんでもこの屋敷は若い人とか未婚の人が働くには評判が悪すぎるからって言って。庭師見習いとして働いてる若いのも、元は手癖の悪い男だったんだけど、旦那様は真面目に更生したいならって雇っているのさ。他所の人がどう言っているか知らないけど、アタシらからしたら旦那様は良い主人だよ」
やっぱり子爵は立派な方だわ。
メイドの話を聞いてベルはその思いを強くした。
その後ベルは書斎に移動し、椅子に座って本を読み始めた。しばらく読み耽っていたいたが、ふと気になってデスクの引き出しを開けてみる。
「あったわ」
”彼はいつでも離婚出来るように書類を書斎に置いているのさ”
シリルの友人エルマーの言葉を思い出し、ベルは確かめてみたくなったのだ。見つけた離婚に関する書類をベルはパラパラと捲って読み始めるが、主に財産に関することが書いてあるようで、彼女にはよく分からなかった。ただ、離婚に同意する署名欄にシリルの名前が書いてあるのだけは見て取れた。
「本当だったんだ……」
ベルは何故だかショックを受けた。
一体、ブライトン子爵とロスリンさんの間には何があったの? 思えば子爵から教えてもらったことも、生い立ちや好みや親戚や交友関係ばかり。
「何だかこう、表面的というか実際の人柄はよく分からないわ……そうだ」
ベルはロスリンが使っていた寝室へ行ってみようと思いついた。
でも、子爵はどうしてか入って欲しくないみたいだけれど……。
シリルに屋敷の中を案内されたときに、ロスリンが使っていた女主人の部屋の前も通ったが、中を見せてはもらえなかった。
「部屋を見たら、為人が分かるものが何かあるかもしれない」
ベルは書斎を出て、ロスリンの使っていた寝室に向かい、扉のノブに手を掛ける。
鍵は掛かっていない。ノブを回して中へ入った。
部屋は広く、天蓋付きのベッド、化粧台、衣裳箪笥、文机など意匠の凝った調度品が揃っているが、ベルは何だか整い過ぎて生活が感じられないと思った。
「4年も使られていないから当然なんだけど……」
それでも、何か引っ掛かるものがあった。
何だろう……。何故だかとても胸が締め付けられるわ。来たことないはずなのに。
「ベル!」
ベルはただ呆然と部屋の入口で佇んでいると、後ろから声を掛けられた。振り返ると、血相を変えたシリルがこちらへ走るように近づいてくる。
「何をしているんだっ!」
「えっ……」
彼の剣幕にベルは驚いて固まる。
「あの、ロスリンさんのこともっと知りたいな、と思って……」
「部屋から出るんだっ」
シリルが彼女の腕を掴み、強引に部屋から連れ出す。ベルは体から血の気が引き、顔面が蒼白になって震える。
「ご、ごめんなさいっ……」
シリルの怒りに満ちた声音や表情に、罵声を浴びせられ叩かれた日々が甦る。
「いや、私も声を荒げてしまってすまない」
ベルの怯え切った様子にシリルは冷静になり、手を離した。
「だが、妻の部屋には入らないでくれ」
「はい……」
力なくベルが頷く。
私、とんでもないことをしてしまったのだわ……。子爵を失望させてしまったのだとしたら、とても辛い。
2人は会話もなく、夕食を終えるとベルは部屋に戻り、沈んだ気持ちで早々にベッドへ入った。
ミシンの、カシャカシャと動く音が幾重にも重なり空間を満たす。
”この役立たず! さっさと働け!”
その中で男の怒号の後で、鞭が空を切る鋭い音がする。
「やめて……! いやっ……」
暗闇の中をベルはがむしゃらに走る。しかし、男の声と鞭の鳴る音はどこまでも追ってくる。
来ないでっ!
逃げ回っていると、ついに足を縺れさせ倒れ込む。そこへ嗜虐心を隠しもせず下品な笑みを浮かべた男が近づいて来て、鞭を振り上げる。
「やめてっ」
そう叫んでベルは身構える。
その瞬間。
「ベル!」
体を強く揺すられ、ベルは目を覚ます。薄明りの中に、心配そうな顔でこちらを見つめるシリルの姿が見えた。
「子爵……?」
荒い呼吸を繰り返しながら、ベルは上体を起こす。そして混乱したように落ち着きなく視線を巡らせる。広い部屋に品の良い調度品、それにシリル。
そうだ、ここは縫製工場じゃない。
「随分うなされていたよ。私の所為だな……」
夕方、ベルに対して怒ってしまったことが、彼女の工場での辛い生活を思い起こさせてしまったのだろう。
シリルは激しく後悔した。
「だが、安心してくれ。ここには君を叩く者も、罵ったりする者も居ない。君は安全だよ」
シリルは宥めるように優しくベルに話し掛ける。
「……はい」
そう返事を返したが、ベルの体はまだ震えていた。生々しい恐怖が甦ってきて、心はまだ不安に怯えていたからだ。
シリルはベッドの端に腰掛け、思わずベルの肩を抱いて自分の方へ引き寄せる。
「大丈夫。誰も君を傷つけたりしないよ。もし、また君が怖い思いをすることがあっても助けに行くよ」
「本当に?」
シリルの慰めの言葉を聞き、ベルは彼の顔を見る。
「あぁ。だから、何もかも忘れて、安心して眠るんだ」
彼の柔らかな声に、ベルの目から涙が零れる。そして、彼の胸で声もなく泣き続けた。彼女の背を労わるように撫でながら、シリルは慙愧に堪えぬ思いだ。
どうしてあんなに声を荒げてしまったのか、と自問すれば答えは簡単だった。
ベルに知られなたくないからだ。
あの部屋の殺風景な様子は、私が妻に何もしなかったことの証左だ。
贈り物の一つもない、虚しい部屋。
ベルにロスリンの振りをしてもらうなら、いずれ自分が働いた悪事を話さねばならない。
……まぁ、そうなればきっとベルもこんな茶番に付き合う気も失せるだろうな。
しかし、シリルはそれを先延ばししている自分に気が付いていた。
彼女に失望されるのが怖いのか? 去ってしまうのを恐れているのか?
思いの外、ベルと過ごす日々は楽しかった。戸惑いながらも、一生懸命に妻に成りきろうとするベル。慕うように見つめられると、心が疼く。
シリルは自分が少なからずベルに惹かれているのを認めないわけにはいかなかった。
夕方のベルの様子が気になって部屋の前まで来たら、中から彼女の叫ぶ声が聞こえてきた。そして思わず入ってしまったのだった。
こんな茶番はやはりやめるべきだな。
シリルが考え事をしていると、いつの間にかベルが彼の胸に寄りかかり寝息を立てていた。彼はほっとして、ベルを丁寧にベッドへ横たえる。
「お休み、ベル」
彼はベルの顔に残った涙の跡を指で優しく拭い、赤い髪をそっと撫でて、部屋を後にした。
……ロスリンもああやって、一人泣いていたのかもしれないな。両親を失い、私に蔑ろにされて。
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