彼女が来たら

宵糸 こより

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第1話 放蕩の終わり

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「なぁ、そう屋敷に籠ってないで、少しくらい出掛けたらどうだ?」

 書斎で気難しい顔をして座っているシリルに、友人のエルマーが呆れたように話し掛ける。

「ちょっとぐらい気晴らしに外へ出たって罰は当たらないと思うけど」
「どうだかな……」

 シリルはため息を吐いた。シリルことブライトン子爵は金髪碧眼の美男子で、歳は20代半ばほど。対するエルマーは栗色の髪と目に、シリルと同い年ながらどこかやんちゃな少年の面影を残している。

「私の屋敷は四六時中、ディクソン警部と彼の部下に見張られているからな。おかしなことをすれば直ぐにばれてしまうぞ」
「別に、どこかへ逃げようって訳じゃないんだ。ほんの少し郊外へ馬車を走らせるくらい許さるだろ?」
「……」
「おいおい。君は無実なんだぞ。やってもいない罪の為に人生を棒に振るつもりか?」

 エルマーが信じられないと言うように首を振る。

「やったも同然、だがな」

 自嘲的に言い、シリルが眉間に皺を寄せる。

 かつて、ブライトン子爵家は借金に苦しんでいた。それもこれも原因はシリルの放蕩にあった。愛人達を囲い、ギャンブルに興じ、酒に溺れていた愚かな貴族。

 今考えても、最低が服を着ていたような男だな。

 とにかく遊ぶ金が欲しかった。そこでシリルはある噂を耳にした。莫大な財産の相続人ロスリン・カーライルのことを。ロスリンの曾祖父が紡績業を起こし、財を成した。
 ロスリンの父は経営には向いていないことを自覚していたので、経営自体は他の親族が中心になって行っていたが、会社の株式の何割かを保有し、また他の企業の株式や不動産も所有している裕福な男性だった。
 その両親が亡くなり、一人娘のロスリンがその全てを相続するに至った。

 ロスリンを手に入れることが出来れば、その背後にある莫大な財産を手に入れることが出来る。そうすれば借金は完済、その上、遊ぶ金も手に入る。

 シリルの脳裏にロスリンと出会ったときのことが苦々しく甦る。
 黒い、喪服を着て椅子に座り、失意に沈む赤毛の女の子。その前に立ってほくそ笑んでいる自分。彼女が好きだと聞いた竜胆の花束を持って。

 ……本当に、何とおぞましいことをしたのだろう。

 両親を同時に亡くし、打ちひしがれて弱っている女の子の心を操るなど、シリルには容易いことだった。そして、結婚まで漕ぎつけてシリルはまた放蕩の日々に戻った。彼女の金で。
 ささやかな結婚式を挙げたその日から放置されたロスリンは、ある日忽然と屋敷から姿を消した。シリルがそれを知ったのは愛人の家で寝ていた時だった。警察がそこへ踏み込んできたのだ。その陣頭指揮を執っていたのがディクソン警部である。
 ディクソン警部はくしゃっとした黒髪に目つきの悪い40代の平民出身の叩き上げの刑事だった。
 何者かが侵入し、彼女を誘拐したような痕跡は見つからず、また身代金の要求もない。自主的に出て行ったとしても、使用人にも悟られず何の準備もせず16、7歳の若い女性が消息を絶つことなど到底出来るとは思えない。
 ブライトン家の屋敷を一通り調べた結果、警部は彼女が消えて誰が最も得をするのかを考えた。そして夫であるシリルに疑惑の目を向けることになった。

 エルマーの説得に折れて、シリルは彼の馬車に乗り、ブライトン邸を出る。その屋敷の角には常に誰かが立っていてシリルの動向をうかがっていた。ディクソン警部の部下である。この4年間、シリルはずっと警察から監視されていた。

 他に事件もあるだろうに、ご苦労なことだ。私の様子など見張ったところでロスリンは見つからないというのに。

 シリルはため息を吐く。ディクソン警部に連行され、取り調べを受けた時のことを思い出す。






 狭い部屋で椅子に座り、灰色の机を挟んでシリルとディクソン警部が向かい合っている。もう一人、警部の部下が部屋の隅でその様子を見守っている。

「だーかーら、言ってるでしょうっ。妻がどこに居るかなんて知りませんよ」
「……子爵、貴方は自分の奥さんが居なくなって心配じゃないんですか?」

 怒気を抑えてディクソン警部が尋問を続ける。

「別に。親戚のところにでも行ったんじゃないですか? とにかく、俺は何も知らないんですよ。早く解放して下さい」

 長時間の拘束と取り調べに不貞腐れて、シリルは机に肘をつき頬に手を当てて明後日の方向を向く。

「貴方はどれだけ、自分の奥さんのことをご存知ですか?」

 ディクソン警部が胸のポケットから折りたたまれた紙を取り出し、机に広げた。

「彼女はね、両親を強盗に殺されているんですよ、貴方と結婚する1年前に」

 それはシリルも知っていた。警部が広げたのは、その事件を扱った新聞記事だった。

「私が担当だったんでね、ロスリン嬢のこともよく知ってるんですよ。あの子から手紙が来て、結婚すると聞いたときには安心しましたよ。彼女を愛し守ってくれる人が出来たんだってね。嬉しそうに貴方のことが書いてありましたよ。優しくて楽しくて、他の人みたいに遺産がどうだの財産がどうだのって言わない素晴らしい人だって」

 ディクソン警部が怒りを込めてシリルを睨む。

「それが、とんだ詐欺師だったワケだ。貴方に人並みの思いやりや両親を無残に殺された少女への哀れみが、ほんの一欠片でもあったら、こんなことにはならなかったんですよ!」

 ディクソン警部は机を勢い良く叩き、未だ不機嫌な顔のシリルの胸倉を掴んだ。部下が制止するが、警部は手を離さない。

「財産目当てに、彼女の命まで奪ったのかっ? それが人間のすることか! 彼女をどこへ埋めたんだ!」

 ディクソン警部は、シリルがロスリンの財産を相続するために彼女を殺してどこかへ埋めたと疑っていた。彼女がいなければ財産をどう使うかは夫である彼の自由だ。それに失踪から7年経てば失踪宣告を出せる。そうなれば法律上はロスリンは死んだことになって、彼女の莫大な遺産は夫であるシリルの物になる。

「上手くやればたった7年で財産はアンタのものだ。死刑か終身刑になる危険を冒す価値はあるってワケだ」

 慇懃な態度を崩し、ディクソン警部はシリルを睨みつける。

「っ俺は、そんなことはしていない……」
「私にも娘が2人居ましてね、彼女が不憫でならんのですよ。家族の居ない彼女の、せめてもの無念を私は晴らしたいと思ってるんです。アンタが貴族だろうが何だろうが関係ない。必ず牢屋にぶち込んでやるからなっ!」

 だが、そうはならなかった。シリルは証拠不十分で何とか釈放されたのだった。
 当たり前だ。俺はロスリンを殺したりなんてしてない。

 しかしながら、彼を取り巻く環境は激変していた。
 彼のお気に入りだった娼婦達はシリルの共犯と思われては堪らないと、嬉々として彼が妻ロスリンをいかに軽んじ小馬鹿にしていたか、を余すところなく証言し、彼の許を去っていった。

 ”えぇ、そりゃぁ、酷い言い草でしたよ。あんな暗い小娘、金ぐらいしか魅力がない、とか”
 ”そうそう。あっさり騙されて愚かな娘だとか”
 ”散々言ってたわよね。誰のお陰で豪遊出来てると思ってたのかしら?”
 ”金払いの良いハンサムじゃなかったら、あんな男ぶん殴ってるところよ”

 彼の遊び仲間であった悪友達も、金持ちの娘を垂らし込むで結婚したことは称賛してくれても、流石に殺人疑惑となれば、それはやり過ぎと面白がることも出来ず、彼らもまたシリルから潮を引くように離れていった。
 使用人達も、ほとんど屋敷に帰って来ない、帰ってきたとしても酩酊状態の横柄な主人よりも、健気に彼を待ちながら使用人にも優しいロスリンに同情的で、彼がいかに酷い夫だったかを証言し次々と屋敷を辞めていった。
 そもそも事がこんなに大事になったもの、シリルがどこにいるのか使用人達は知らなかったので、やむなく警察を呼んだことが発端となったのだった。

 これでようやくシリルは目が醒めた。自分が今までしてきたことの愚かさと、今置かれている状況の危うさに。ロスリンが無事に見つからなければ、彼女を殺した咎で逮捕されてしまう可能性があるのだ。

 新聞や雑誌もこぞってこのセンセーショナルな事件を大々的に取り上げた。ロスリンを悲劇の女性として、面白おかしくあることないこと好き勝手に書き立てた。
 シリルは疑惑を払拭する為、ロスリンを本気で心配している夫を演じる羽目になった。また、遊ぶ金が目減りするのが嫌で止めていた、ロスリンの両親が関わっていた慈善事業への資金の供出も再開した。
 しかし、結局のところ社交界は彼を許さず、疑惑の子爵として追放されたのだった。

 ロスリンさえ見つかればっ……!

 シリルはそう思っていたが、一向に彼女は見つからない。時が経つにつれやがて人々もこの件への興味が薄れていった。だが、ディクソン警部は違った。シリルを釈放して以来、ずっと監視を続けていた。






 あれからもう4年か……。

 妻が見つからないまま、4年の月日が流れていた。
 シリルが仕方なしに始めた慈善活動やロスリンの目減りした財産を元に戻すべく始めた投資事業が今や彼の生きがいになっていた。皮肉な話だが、放蕩者だった頃よりもずっと、健康的で有意義で充実した人生を送るようになっていた。

 あとはロスリンさえ見つかってくれれば良い。もしこれが彼女なりの私への復讐なら完璧だな。

 シリルは自嘲的に小さく笑う。

 彼女から奪った物は、彼女に返す。そして全て清算してやり直そう。彼女が帰って来たなら。

 彼女が来たら。



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