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第五章
接吻の理由
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晴れやかな朝光が目に眩しい。悟空は背の高い広葉樹の細枝を揺らしながら腰かけている。
手のひらで視根鏡をくるくると玩びながらため息をつく。二郎真君から預かったこの怪しげな物品を使えば、三蔵の真意を視ることができる。悟空が心底気になっているのは、あのときの接吻を三蔵がどう思っているのかに加え、接吻以降悟空を避ける言動をしている理由である。
(知りたいような……知りたくないような……お師匠様に嫌われていたらどうしよう。破廉恥な接吻をする汚らわしい猿だと思われていたら、おれは立ち直れないかもしれない)
しかし、旅が始まればまた降りかかる災厄に惑わされてゆっくりと離す機会もないだろう。長い長いと思っていた取経の旅ももう後半である。この朱紫国にいるうちにはっきりさせておくべきかもしれない、と悟空は重い腰を上げて枝から跳び降りた。
朝のお勤めを終えた三蔵を悟空はお茶を淹れて待ちかまえていた。
「おつかれさまでした。お師匠様。」
「ああ、ありがとう。」
そわそわと落ち着かなげに視線を彷徨わせる三蔵は、やはり悟空と目を合わせようとはしない。湯呑を持ち、一服するかと思われた三蔵だったが、悟空が正面に座ってそれを見守ることがわかるとすぐに再び立ち上がった。
「そういえば上衣の裾がほつれておったのだった。今のうちに繕ってしまおう。悟浄、悟浄はおるか。針と糸はどこにあるだろう。」
「繕い物くらい、おれがしますよ。」
「そうか、では頼むな。」
碌にこちらを見ようともしない三蔵から衣を手渡される。三蔵の指に悟空のそれがふれた瞬間、三蔵の肩がびくりと震える。三蔵に警戒される対象になり下がってしまったようで、悟空は切なくなる。しかし、ここでめげるわけにはいかない。今日こそ三蔵に真意を聞かねばならぬ。
「では天気も良いし、私は八戒と散歩でもしてこようか。」
そらとぼけて悟空との相席を避けようとする三蔵の手首を、悟空は掴んで引き留めた。握り方はごく柔らかいが、答えを得られるまで離しはしない所存である。
「お師匠様、お待ちください。」
「ど、どうした。」
「八戒と悟浄は国王からのお招きに行かせました。国王の快癒記念に果樹園で祭典が開かれるそうです。本当はお師匠様が招かれたのですが、体調が思わしくないからとお断りしてます。そして一番弟子のおれがお師匠様の看病役です。」
「何を勝手なことを。体調はどこも悪くない。」
「悪いですよ。」
「最近、いつもおれを避けるじゃないですか。何かわだかまりがあるんでしょう。」
「避けてなど……おらぬ。」
三蔵は勢い込んで否定したが、真剣な表情をした悟空と目が合った瞬間すぐにまた逸らしてしまった。
「今だっておれのことを見ようともしないじゃないですか。」
「そんなこと……。」
「じゃあ見てください。」
ついに立ち上がって目の前に立ち塞がった。三蔵は不満そうに口を結んで、悟空の顔を見た。三蔵の顔立ちは墨で描いたような清白な印象である。しばらく避けられていたせいか正面からその顔を見るのは久しぶりで何ならあの接吻した日以来かもしれず、感慨深いものがある。
何度見ても三蔵の顔貌は息を呑むほど美しいと悟空は思う。飽きっぽく落ち着きのない悟空であるが、三蔵の顔であれば一日中眺めていても満足である。
「悟空……。」
「なんですか。」
手を伸ばせばすぐ触れられる距離で互いに視線を離さずに言葉を交わす。
「見ているが。」
「知ってます。おれも見てます。」
悟空は食い入るように三蔵の顔を見つめる。造形の美しさにひれ伏しながらその睫毛の一本一本まで数えたいくらいだ。圧の強い悟空の視線のせいで、次第に三蔵の頬が赤らんでくる。その瞳に動揺と焦りの色がにじんでくるのがわかる。
「お師匠様、やはり熱でもあるんじゃないですか。頬が赤いです。」
悟空にとっては三蔵の体調を把握するのは弟子として当然の務めである。手首を掴んでいた右手を離し、何気なく三蔵の頬に手を添わせると三蔵はびくりと大きく肩を震わせ、息を呑んだ。刹那、物欲しそうな視線が悟空の唇を彷徨った。
「っう……。」
「どうしました。」
悟空には三蔵の動揺の理由がわからない。やはり汚らわしい猿に触れられたのが嫌だったのだろうか。
「……っ、この猿めがっ……。」
三蔵は踵を返し、高僧には似つかわしくないどたどたとした音を立てて寝所に引きこもった。
「私はっ、今日はやはり体調不良だっ。しばらく横になろうっ。」
こういう時の三蔵は下手に刺激しないほうがいい。悟空はよく知っているが、しかし邪魔者二人の帰宅までに話しておきたいことがまだ残っている。あの接吻を理由に軽蔑されているとしても、よく反省している事実を伝え、二度と接吻をしないことを誓約して三蔵に安心してもらい、天竺までの御供をさせていただく許可をもらわねばならない。
三蔵の気持ちが落ち着くだけの時間をとってから、温かい薬湯をこしらえて悟空はそっと寝所の戸を開けた。寝台の上には毛布を頭まで被った三蔵がいる。
「繕い物もしておきました、お師匠様。何も口にしないのも身体に毒ですし召し上がってください。」
三蔵は自分で毛布を剥いで上半身を起こした。むすっとした顔をしており、頬には涙の痕がある。涙の痕?
「お師匠様……、何を悲しいことがあるんです。」
「なんでもない。」
「たしかにお師匠様は普段からぴーぴー泣く御仁ですが、理由もなしに泣くことはありませんよ。どうしました。」
「……。」
「もしかして、お師匠様の態度が最近変なのは……あの、前におれとした接吻……と関係ありますか。」
三蔵は視線を揺らしたが何も答えない。しかし、接吻という単語を聞いて三蔵の目がさらに潤んだのでおそらく正解であろう、と悟空は見当を付ける。
泣くほど嫌だったのか、と心がずんと沈むのを感じる。三蔵の気持ちを確認する前に先走って暑苦しい接吻をしたのは途方もない間違いであった。あんなにしつこくするのではなかったと内心ため息をつく。
「やはり……後悔してるんですね。おれとしたこと。」
「そなたは後悔しているのか。」
目尻を朱く染めた三蔵は化粧でもしているかのように妖艶である。睨むように見つめられて悟空は口ごもる。
「……後悔……。それは……そうかもしれません。」
部屋を開けるための方便としての接吻であったのだから軽く唇を合わせれば済む話であったところを、熱烈に舌を絡めて首筋にまで唇を沿わせたのはやりすぎであった。一度唇を合わせたら激流のような想いが堰を切ったようにほとばしり、歯止めが効かなかったのは自分でも予想外の出来事であった。
ただ天竺まで御供できればそれでよいと思っていた。自分の命より大切な師父の宿願を果たすための手助けになれればもう他に望むものなどないと思っていた。
でも本心では師父との接吻を心から望んでいたのかもしれない。しかし、悟空にとっては夢のような出来事であったあの接吻は、三蔵にとっては身の毛がよだつ出来事だったようであり、心身を傷つけてしまったことに対しては後悔しかない。
言葉足らずに黙った悟空に対し、三蔵は唇を噛んだ。
「そうか……。やはり他に手段がなかったとはいえ、弟子と接吻を交わした師を修行不足とそなたも軽蔑するのだな。」
「そんなことは言っていませんよっ。」
「接吻せずに部屋を出る方法をもっと探すべきであったのだ。術など使わずともそなたなら扉を蹴破るくらいのことは容易くできたであろう。反抗的態度と掟破りにかけては右に出るもののない悟空が、なぜあの部屋の指示通りに大人しく接吻をしたのか。」
長い睫毛で瞳を曇らせながら三蔵は責める。もう悟空は黙っていられなかった。
「そんなの、そんなのっ。お師匠様と接吻したかったからに決まってるじゃないですか。」
三蔵は目を丸くして口を開けたまま動作を止めた。
「おれっ、おれは……部屋を出る口実でもなんでもいいから、お師匠様と接吻したかったんです。でも、お師匠様がおれとの接吻で御身を汚されたことを後悔しておられるのはよくわかります。おれのことはいくら軽蔑しても構いません。あの時に調子に乗って激しい接吻をした全責任はおれにあります。罰として緊箍児を唱えて頂いてもいいです。しかしもう二度としないと誓いますから、どうか天竺にいくまでどうかお傍に置いてください。」
悟空は三歩退いてその場に膝を突き三蔵を伏し拝んだ。
「ご……悟空……。」
「はいっ。」
次に三蔵が口を開けば緊箍児だと思う悟空は、身体の緊張を解かないままだ。
「……嘘をつくでない。そなたが私と接吻したいと思うはずがなかろう。」
「嘘ではありませんっ。」
「先程、私との接吻を後悔していると言ったではないか。その舌の根も乾かぬうちに、よくもまあぬけぬけと嘘をつくものだ。接吻する前もなんのかんのと理由をつけてなかなか実行に移さなかったではないか。」
気持ちを誤解され、気の短い悟空はしおらしい気持ちを忘れて声を大きくした。
「接吻したことを後悔してるなんて言ってませんっ。いいですか、接吻をしたくない者があんなに何度も何度も激しい接吻をするわけないじゃないですか。おれにとっては精魂込めた接吻だったんです。ただ、勢いが良すぎたというか、あんなに激しくしたらお師匠様に気色悪いと思われただろうと、後悔したというのはそういう意味です。」
「別に気色悪いなどとは思わなかった……。」
三蔵が口の中で呟いた独り言を耳聡く聞いた悟空はほんの少し気持ちが上向くのを感じた。三蔵は答えを探すように悟空の瞳を覗き込んだ。
「……なぜ悟空は私と接吻したいのか。」
「好きだからに決まってるじゃないですかっ。」
勢いで口をついて出てしまったものの、すぐに我に返った悟空は慌てた。恋愛沙汰など聖僧に許されるはずもなく、そのままでは天竺へのお供すらできなくなる。
「いや、その、好きというのは、師として敬愛してるという意味で、ですよっ。高僧や仏像の足に敬意を込めて信徒が接吻したりするじゃないですかっ、そういう意味です。」
「……そうか。」
三蔵は涙で腫れた目を伏せて穏やかに答えた。
「お師匠様を敬愛していることは本当です。ただ、誠意を込めた敬意の接吻にしては激しすぎた。それを後悔しているのです。」
「……あの接吻は激しかったのか。」
きょとんとする三蔵を悟空は呆れて見つめた。
「激しかったでしょう。覚えていないんですか。」
「悟空の舌が私の口の中に入ってきて縦横無尽に動き回り、夢見心地になったことは覚えている。」
「ちょ……っと、そういうことを簡単に言うもんじゃないですよ。」
だんだん議論が事前の予想とは違う方向に向かっていくが、悟空にとっては願ってもない展開である。お師匠様も気持ち良かったのか、と思った途端に熱くなってくる馬鹿正直な身体を呪いながら、悟空は深呼吸をしてごまかす。
「自ら接吻をしたこともなく、人の接吻も見たことなどほとんどない。比較の対象がないのだ。ただし、悟空以外の誰か他の人と接吻がしたいかと言われればそんな気持ちにはまったくならない。」
思いもよらなかった三蔵の気持ちを聞かされ、悟空はおどおどと尋ねた。
「では、おれのことを汚らわしいと思っていたから避けていたわけではないんですね。おれはてっきり、嫌われたものだとばかり……。」
悟空は安堵の息をつく。
「私も同意して接吻をしたのだから、汚らわしいと思うのであればそなたよりもまず自分を責めねばならぬ。それが出家というものだ。」
「出家したのに接吻してもいいんですかね。」
「お釈迦様のご加護が尽きておれば、艱難辛苦の旅路の果てに私は命を落としておるだろう。まだ生きているということはご加護の恩恵をまだ受けているものと解釈しておる。」
「あの接吻は許された、ということですね。」
「ただ……、困ったことに接吻してからというもの、そなたを見るとなぜか動悸が激しくなるのだ。しかしそなたは普段通りだし、私だけが動揺しているのは馬鹿みたいではないか。私は今でも毎晩のようにあの時の部屋の夢を見る。接吻をせずに出る方法を二人で探すのだが結局夢の終わりには必ずそなたと接吻をしてしまう。毎晩心を乱されるのだ。きっと私の信心が足りておらぬのだろうと、心苦しくてな。」
三蔵は再びぐすっと鼻を鳴らす。これが泣いていた理由らしい。
「それって……あの……。」
もしかして三蔵と気持ちが通じ合っているのでは、とやっと期待を持ち始めた悟空はそっと先を促すが、三蔵の矛先は思わぬ方向へ向いた。
「しかし、そなたにとっては接吻など大したことではないのだろう。本気の接吻であったとすれば、その後も私に対する態度が変わらぬのはおかしい。八戒からビーチバレー大会の時に二郎真君とも接吻をしたと聞いたぞ。昨日だって二郎真君と二人で酒を飲み交わしていた。私は彼のように武術の話も天界の話もできぬからな。どうせ昨日も二郎真君と接吻を交わしたのだろう。」
悟空は八戒が帰宅したら半死半生の目に遭わせてやることを心に決めた。
「違いますって。おれの態度が変わらないのは接吻をする前も後もお師匠様を敬愛しているという事実に変わりがないからです。」
「では、なぜ私の心持ちは変わったのだろう。」
そんなことおれに説明させるのかよ、と悟空は思うがこの赤ちゃんのような師父には恋愛感情というものを逐一解説してやらねばならないらしい。
「接吻する前はおれのことを弟子としか考えていなかったのでしょう。接吻してからは、お、おれのことを少しは意識してい……るのでは。」
「ふぅん、では悟空に近寄られると心臓が破裂するほど拍動するのも、その手を握ると天に舞い上がりそうなほど心が浮き立つのも、悟空の目を見ると吸い込まれそうになるのも、真剣な表情をする横顔を盗み見たくなるのも、悟空が二郎真君と二人で出かけるのがたまらなく悔しい気持ちになるのも、そして再びあの部屋に閉じ込められる夢を見るのも、全てそれが理由だろうか……。」
お師匠様ぁ、破壊力ぅ……。
悟空はもう息も絶え絶えである。そんなに嬉しい言葉をこの朴念仁からかけてもらえる日がくるとは思ってもいなかった。
「あ、あの……それって、つまり……お師匠様もおれのことが好きということですよね。」
「……そうなるな。」
その言葉を聞いて飛び上がりたくなる悟空だったが、三蔵はさらに付け加えた。
「そなたが私のことを師として敬愛してくれているのと同様に、私もそなたのことを弟子として、いや時には人生の師として敬愛している、ということであろう。」
「……いや、あの………はぁ、……そうですか。」
元はといえば、自分の気持ちも師弟愛の仮衣に包んだ報いである。悟空は仕方なく頷いた。
「ついでに誤解のないよう言っときますけどね、誓って真君とはそういう関係ではないですからね。」
真君の名前を口にした瞬間、悟空は懐にある視根鏡の存在を思い出した。これを今こそ役立てるべきである。三蔵に例の鏡を握らせて言った。
「お師匠様、これは視根鏡といって相手の本音を見ることのできる道具です。これでおれを見てください。おれの本当の気持ちがわかるはずです。」
半信半疑といった様子で三蔵は鏡を悟空に向けた。
「お師匠様、おれが心に決めたたった一人の相手は……。」
悟空は三蔵の名前を心に思い浮かべてじっと念を送る。三蔵は悟空の顔に浮き出た文字を読んだ瞬間、湯気が出そうなほど赤くなり、その顔を袖で隠してしまった。
「お師匠様、どうしました。何て書いてありました。」
「……言えぬ。」
「なぜですか。では代わりにこの視根鏡でお師匠様を見てもいいですか。」
「だめじゃ。」
「ええ。なぜですか。」
顔を隠そうとする三蔵の両腕を悟空は抑えた。勢い二人の顔が近付く。まるで接吻を交わした時のように。三蔵が屈みながら俯いているため、両者の額は拳一つほどしか空いていない。
両者は頬を赤く染めてしばらく見つめ合った。先に口を開いたのは悟空だった。
「……あの、前のようにしつこくしないので一回だけ接吻してもいいですか。」
「だめじゃ。」
「もう一度したら、接吻の夢を見なくなるかもしれませんよ。」
三蔵は視根鏡を使って悟空の顔を再び見つめた。
「『おれとの接吻の夢など何度も見ればいい』『理由なんてどうでもいいから接吻したい。』、これがそなたの本音か。」
「お師匠様ずるいですよ。自分ばっかり気持ちを読んで。そうですよ、おれはお師匠様といつでも接吻したいんです。」
開き直った悟空に、三蔵は少しだけ口元を緩めた。悟空はもう一度尋ねてみる。
「していいですか。」
「だめじゃ。」
「一回だけです。」
「……だめじゃ。」
「お師匠様、今ちょっと迷いましたよね。」
「迷ってなどおらぬ。」
悟空は嫌われていなかったどころか、三蔵も自分のことを意識してくれていたことを知り、心躍る気持ちである。お互いをくすぐりあうような言い合いでさえ楽しく、ずっと二人でこんな風にいちゃついていたいと思う。
邪魔したのは、力強い大声だった。
「たのもー。」
悟空はぎょっとしながらも三蔵をその背に隠す。目の前に突然現れたのは二郎真君であった。
「なんだ、おどかすなよ、二郎真君。どうした。」
「先刻から隠身して見守っていたのだが、じれったくなり出てきたのだ。まったく話が進まぬではないか。」
「いつから覗き見してやがった。」
「唐僧が布団に包まり泣いている時からだな。」
「最初からじゃねえか、この野郎。」
「悟空、顕聖二郎真君に失礼な物言いはやめなさい。」
耳に手をやり今にも如意金箍棒を取り出しそうな悟空を三蔵が押しとどめる。
「大聖殿、視根鏡を返してもらうぞ。」
まったく怯むことのない二郎真君は鏡を使って、悟空と三蔵の顔をじっくりと眺めながら何度も頷いた。完全に二郎真君のペースである。
「よし。よし。問題なし。何一つ障害はないな。」
そして、二郎真君はその太い腕で三蔵と悟空の背中を引き寄せ、二人を向かい合わせに近づけた。
「さあ、お二人とも気兼ねなく接吻を交わすがいい。」
「はあ?」
「ええ?」
「二人の気持ちは一致しておる。私がきちんと確認したことを太鼓判を押して保証しよう。さあ、遠慮なく、さあさあ。」
二郎真君は二人の後頭部を押しつけようとさえしてくる。三蔵の唇が眼前にまで迫り、悟空は慌てて首を捩った。
「やめろっ、情緒もへったくれもねえ接吻なんかなんの意味があんだよっ。この唐変木っ。」
「おおっ、そうかそうか。邪魔者は消えよう。ちゃんと見守っておるからな。うまくやるんだぞ、大聖。この前の反省を生かしてがっつきすぎんようにな。」
朗らかな笑いを残して二郎真君は姿を消した。途端に身体を離そうとする三蔵の背中を悟空はぐっと引き寄せる。三蔵の高なる心音を悟空は額で聞く。
「まだ話は終わってないですよ。」
「……何の話じゃ。」
「二郎真君は傍迷惑ですが嘘は言いません。お師匠様の気持ちがおれと一致しているのならば……。」
「……。」
三蔵の視線は悟空の唇を見つめている。きっと本人だけが気づいていない。
「接吻してほしいですか。」
「してほしくなどないわ。」
頬を染めながらも、悟空の腕の中を出ていこうとしない三蔵はこの世のものとも思えない可愛さで悟空はにやけそうになる顔を取りつくろうのに必死である。
「一回だけしましょうか。」
「……そなたがどうしてもというなら……。」
「どうしてもです。」
三蔵は早くも目を閉じている。悟空は満足気に一息吐いた後、ゆっくりと顔を寄せた。
唇がやっと触れ合うかと思われた次の瞬間、玄関の方で「ただいま帰りましたー。果物が山ほどあったぞ。お師匠様も兄貴も残念だったなあ。」「お二人の分もお土産を頂いて参りましたぞ。」と八戒と悟浄の声がした。
「あれ、お師匠様いないな。」
「寝室で休まれているのなら邪魔せぬ方が良いだろう。」
「兄貴もいないぞ。寝室で二人きりでナニしてんのか、見に行こうぜ。」
「兄者、やめておいてくれ。」
「八戒、悟浄、大儀であった。そちらに今行く。」
と、三蔵は内心の落胆を押し隠し、声を張って弟子二人に応えた。そのまま身体を離そうとする三蔵を悟空は無言で力強く引き寄せた。一瞬だけ掠めるような接吻をする。驚いたように目を見張る三蔵に悟空は悪戯っぽく笑いかけ、その耳元で「続きはまた今度。」と囁いた。
手のひらで視根鏡をくるくると玩びながらため息をつく。二郎真君から預かったこの怪しげな物品を使えば、三蔵の真意を視ることができる。悟空が心底気になっているのは、あのときの接吻を三蔵がどう思っているのかに加え、接吻以降悟空を避ける言動をしている理由である。
(知りたいような……知りたくないような……お師匠様に嫌われていたらどうしよう。破廉恥な接吻をする汚らわしい猿だと思われていたら、おれは立ち直れないかもしれない)
しかし、旅が始まればまた降りかかる災厄に惑わされてゆっくりと離す機会もないだろう。長い長いと思っていた取経の旅ももう後半である。この朱紫国にいるうちにはっきりさせておくべきかもしれない、と悟空は重い腰を上げて枝から跳び降りた。
朝のお勤めを終えた三蔵を悟空はお茶を淹れて待ちかまえていた。
「おつかれさまでした。お師匠様。」
「ああ、ありがとう。」
そわそわと落ち着かなげに視線を彷徨わせる三蔵は、やはり悟空と目を合わせようとはしない。湯呑を持ち、一服するかと思われた三蔵だったが、悟空が正面に座ってそれを見守ることがわかるとすぐに再び立ち上がった。
「そういえば上衣の裾がほつれておったのだった。今のうちに繕ってしまおう。悟浄、悟浄はおるか。針と糸はどこにあるだろう。」
「繕い物くらい、おれがしますよ。」
「そうか、では頼むな。」
碌にこちらを見ようともしない三蔵から衣を手渡される。三蔵の指に悟空のそれがふれた瞬間、三蔵の肩がびくりと震える。三蔵に警戒される対象になり下がってしまったようで、悟空は切なくなる。しかし、ここでめげるわけにはいかない。今日こそ三蔵に真意を聞かねばならぬ。
「では天気も良いし、私は八戒と散歩でもしてこようか。」
そらとぼけて悟空との相席を避けようとする三蔵の手首を、悟空は掴んで引き留めた。握り方はごく柔らかいが、答えを得られるまで離しはしない所存である。
「お師匠様、お待ちください。」
「ど、どうした。」
「八戒と悟浄は国王からのお招きに行かせました。国王の快癒記念に果樹園で祭典が開かれるそうです。本当はお師匠様が招かれたのですが、体調が思わしくないからとお断りしてます。そして一番弟子のおれがお師匠様の看病役です。」
「何を勝手なことを。体調はどこも悪くない。」
「悪いですよ。」
「最近、いつもおれを避けるじゃないですか。何かわだかまりがあるんでしょう。」
「避けてなど……おらぬ。」
三蔵は勢い込んで否定したが、真剣な表情をした悟空と目が合った瞬間すぐにまた逸らしてしまった。
「今だっておれのことを見ようともしないじゃないですか。」
「そんなこと……。」
「じゃあ見てください。」
ついに立ち上がって目の前に立ち塞がった。三蔵は不満そうに口を結んで、悟空の顔を見た。三蔵の顔立ちは墨で描いたような清白な印象である。しばらく避けられていたせいか正面からその顔を見るのは久しぶりで何ならあの接吻した日以来かもしれず、感慨深いものがある。
何度見ても三蔵の顔貌は息を呑むほど美しいと悟空は思う。飽きっぽく落ち着きのない悟空であるが、三蔵の顔であれば一日中眺めていても満足である。
「悟空……。」
「なんですか。」
手を伸ばせばすぐ触れられる距離で互いに視線を離さずに言葉を交わす。
「見ているが。」
「知ってます。おれも見てます。」
悟空は食い入るように三蔵の顔を見つめる。造形の美しさにひれ伏しながらその睫毛の一本一本まで数えたいくらいだ。圧の強い悟空の視線のせいで、次第に三蔵の頬が赤らんでくる。その瞳に動揺と焦りの色がにじんでくるのがわかる。
「お師匠様、やはり熱でもあるんじゃないですか。頬が赤いです。」
悟空にとっては三蔵の体調を把握するのは弟子として当然の務めである。手首を掴んでいた右手を離し、何気なく三蔵の頬に手を添わせると三蔵はびくりと大きく肩を震わせ、息を呑んだ。刹那、物欲しそうな視線が悟空の唇を彷徨った。
「っう……。」
「どうしました。」
悟空には三蔵の動揺の理由がわからない。やはり汚らわしい猿に触れられたのが嫌だったのだろうか。
「……っ、この猿めがっ……。」
三蔵は踵を返し、高僧には似つかわしくないどたどたとした音を立てて寝所に引きこもった。
「私はっ、今日はやはり体調不良だっ。しばらく横になろうっ。」
こういう時の三蔵は下手に刺激しないほうがいい。悟空はよく知っているが、しかし邪魔者二人の帰宅までに話しておきたいことがまだ残っている。あの接吻を理由に軽蔑されているとしても、よく反省している事実を伝え、二度と接吻をしないことを誓約して三蔵に安心してもらい、天竺までの御供をさせていただく許可をもらわねばならない。
三蔵の気持ちが落ち着くだけの時間をとってから、温かい薬湯をこしらえて悟空はそっと寝所の戸を開けた。寝台の上には毛布を頭まで被った三蔵がいる。
「繕い物もしておきました、お師匠様。何も口にしないのも身体に毒ですし召し上がってください。」
三蔵は自分で毛布を剥いで上半身を起こした。むすっとした顔をしており、頬には涙の痕がある。涙の痕?
「お師匠様……、何を悲しいことがあるんです。」
「なんでもない。」
「たしかにお師匠様は普段からぴーぴー泣く御仁ですが、理由もなしに泣くことはありませんよ。どうしました。」
「……。」
「もしかして、お師匠様の態度が最近変なのは……あの、前におれとした接吻……と関係ありますか。」
三蔵は視線を揺らしたが何も答えない。しかし、接吻という単語を聞いて三蔵の目がさらに潤んだのでおそらく正解であろう、と悟空は見当を付ける。
泣くほど嫌だったのか、と心がずんと沈むのを感じる。三蔵の気持ちを確認する前に先走って暑苦しい接吻をしたのは途方もない間違いであった。あんなにしつこくするのではなかったと内心ため息をつく。
「やはり……後悔してるんですね。おれとしたこと。」
「そなたは後悔しているのか。」
目尻を朱く染めた三蔵は化粧でもしているかのように妖艶である。睨むように見つめられて悟空は口ごもる。
「……後悔……。それは……そうかもしれません。」
部屋を開けるための方便としての接吻であったのだから軽く唇を合わせれば済む話であったところを、熱烈に舌を絡めて首筋にまで唇を沿わせたのはやりすぎであった。一度唇を合わせたら激流のような想いが堰を切ったようにほとばしり、歯止めが効かなかったのは自分でも予想外の出来事であった。
ただ天竺まで御供できればそれでよいと思っていた。自分の命より大切な師父の宿願を果たすための手助けになれればもう他に望むものなどないと思っていた。
でも本心では師父との接吻を心から望んでいたのかもしれない。しかし、悟空にとっては夢のような出来事であったあの接吻は、三蔵にとっては身の毛がよだつ出来事だったようであり、心身を傷つけてしまったことに対しては後悔しかない。
言葉足らずに黙った悟空に対し、三蔵は唇を噛んだ。
「そうか……。やはり他に手段がなかったとはいえ、弟子と接吻を交わした師を修行不足とそなたも軽蔑するのだな。」
「そんなことは言っていませんよっ。」
「接吻せずに部屋を出る方法をもっと探すべきであったのだ。術など使わずともそなたなら扉を蹴破るくらいのことは容易くできたであろう。反抗的態度と掟破りにかけては右に出るもののない悟空が、なぜあの部屋の指示通りに大人しく接吻をしたのか。」
長い睫毛で瞳を曇らせながら三蔵は責める。もう悟空は黙っていられなかった。
「そんなの、そんなのっ。お師匠様と接吻したかったからに決まってるじゃないですか。」
三蔵は目を丸くして口を開けたまま動作を止めた。
「おれっ、おれは……部屋を出る口実でもなんでもいいから、お師匠様と接吻したかったんです。でも、お師匠様がおれとの接吻で御身を汚されたことを後悔しておられるのはよくわかります。おれのことはいくら軽蔑しても構いません。あの時に調子に乗って激しい接吻をした全責任はおれにあります。罰として緊箍児を唱えて頂いてもいいです。しかしもう二度としないと誓いますから、どうか天竺にいくまでどうかお傍に置いてください。」
悟空は三歩退いてその場に膝を突き三蔵を伏し拝んだ。
「ご……悟空……。」
「はいっ。」
次に三蔵が口を開けば緊箍児だと思う悟空は、身体の緊張を解かないままだ。
「……嘘をつくでない。そなたが私と接吻したいと思うはずがなかろう。」
「嘘ではありませんっ。」
「先程、私との接吻を後悔していると言ったではないか。その舌の根も乾かぬうちに、よくもまあぬけぬけと嘘をつくものだ。接吻する前もなんのかんのと理由をつけてなかなか実行に移さなかったではないか。」
気持ちを誤解され、気の短い悟空はしおらしい気持ちを忘れて声を大きくした。
「接吻したことを後悔してるなんて言ってませんっ。いいですか、接吻をしたくない者があんなに何度も何度も激しい接吻をするわけないじゃないですか。おれにとっては精魂込めた接吻だったんです。ただ、勢いが良すぎたというか、あんなに激しくしたらお師匠様に気色悪いと思われただろうと、後悔したというのはそういう意味です。」
「別に気色悪いなどとは思わなかった……。」
三蔵が口の中で呟いた独り言を耳聡く聞いた悟空はほんの少し気持ちが上向くのを感じた。三蔵は答えを探すように悟空の瞳を覗き込んだ。
「……なぜ悟空は私と接吻したいのか。」
「好きだからに決まってるじゃないですかっ。」
勢いで口をついて出てしまったものの、すぐに我に返った悟空は慌てた。恋愛沙汰など聖僧に許されるはずもなく、そのままでは天竺へのお供すらできなくなる。
「いや、その、好きというのは、師として敬愛してるという意味で、ですよっ。高僧や仏像の足に敬意を込めて信徒が接吻したりするじゃないですかっ、そういう意味です。」
「……そうか。」
三蔵は涙で腫れた目を伏せて穏やかに答えた。
「お師匠様を敬愛していることは本当です。ただ、誠意を込めた敬意の接吻にしては激しすぎた。それを後悔しているのです。」
「……あの接吻は激しかったのか。」
きょとんとする三蔵を悟空は呆れて見つめた。
「激しかったでしょう。覚えていないんですか。」
「悟空の舌が私の口の中に入ってきて縦横無尽に動き回り、夢見心地になったことは覚えている。」
「ちょ……っと、そういうことを簡単に言うもんじゃないですよ。」
だんだん議論が事前の予想とは違う方向に向かっていくが、悟空にとっては願ってもない展開である。お師匠様も気持ち良かったのか、と思った途端に熱くなってくる馬鹿正直な身体を呪いながら、悟空は深呼吸をしてごまかす。
「自ら接吻をしたこともなく、人の接吻も見たことなどほとんどない。比較の対象がないのだ。ただし、悟空以外の誰か他の人と接吻がしたいかと言われればそんな気持ちにはまったくならない。」
思いもよらなかった三蔵の気持ちを聞かされ、悟空はおどおどと尋ねた。
「では、おれのことを汚らわしいと思っていたから避けていたわけではないんですね。おれはてっきり、嫌われたものだとばかり……。」
悟空は安堵の息をつく。
「私も同意して接吻をしたのだから、汚らわしいと思うのであればそなたよりもまず自分を責めねばならぬ。それが出家というものだ。」
「出家したのに接吻してもいいんですかね。」
「お釈迦様のご加護が尽きておれば、艱難辛苦の旅路の果てに私は命を落としておるだろう。まだ生きているということはご加護の恩恵をまだ受けているものと解釈しておる。」
「あの接吻は許された、ということですね。」
「ただ……、困ったことに接吻してからというもの、そなたを見るとなぜか動悸が激しくなるのだ。しかしそなたは普段通りだし、私だけが動揺しているのは馬鹿みたいではないか。私は今でも毎晩のようにあの時の部屋の夢を見る。接吻をせずに出る方法を二人で探すのだが結局夢の終わりには必ずそなたと接吻をしてしまう。毎晩心を乱されるのだ。きっと私の信心が足りておらぬのだろうと、心苦しくてな。」
三蔵は再びぐすっと鼻を鳴らす。これが泣いていた理由らしい。
「それって……あの……。」
もしかして三蔵と気持ちが通じ合っているのでは、とやっと期待を持ち始めた悟空はそっと先を促すが、三蔵の矛先は思わぬ方向へ向いた。
「しかし、そなたにとっては接吻など大したことではないのだろう。本気の接吻であったとすれば、その後も私に対する態度が変わらぬのはおかしい。八戒からビーチバレー大会の時に二郎真君とも接吻をしたと聞いたぞ。昨日だって二郎真君と二人で酒を飲み交わしていた。私は彼のように武術の話も天界の話もできぬからな。どうせ昨日も二郎真君と接吻を交わしたのだろう。」
悟空は八戒が帰宅したら半死半生の目に遭わせてやることを心に決めた。
「違いますって。おれの態度が変わらないのは接吻をする前も後もお師匠様を敬愛しているという事実に変わりがないからです。」
「では、なぜ私の心持ちは変わったのだろう。」
そんなことおれに説明させるのかよ、と悟空は思うがこの赤ちゃんのような師父には恋愛感情というものを逐一解説してやらねばならないらしい。
「接吻する前はおれのことを弟子としか考えていなかったのでしょう。接吻してからは、お、おれのことを少しは意識してい……るのでは。」
「ふぅん、では悟空に近寄られると心臓が破裂するほど拍動するのも、その手を握ると天に舞い上がりそうなほど心が浮き立つのも、悟空の目を見ると吸い込まれそうになるのも、真剣な表情をする横顔を盗み見たくなるのも、悟空が二郎真君と二人で出かけるのがたまらなく悔しい気持ちになるのも、そして再びあの部屋に閉じ込められる夢を見るのも、全てそれが理由だろうか……。」
お師匠様ぁ、破壊力ぅ……。
悟空はもう息も絶え絶えである。そんなに嬉しい言葉をこの朴念仁からかけてもらえる日がくるとは思ってもいなかった。
「あ、あの……それって、つまり……お師匠様もおれのことが好きということですよね。」
「……そうなるな。」
その言葉を聞いて飛び上がりたくなる悟空だったが、三蔵はさらに付け加えた。
「そなたが私のことを師として敬愛してくれているのと同様に、私もそなたのことを弟子として、いや時には人生の師として敬愛している、ということであろう。」
「……いや、あの………はぁ、……そうですか。」
元はといえば、自分の気持ちも師弟愛の仮衣に包んだ報いである。悟空は仕方なく頷いた。
「ついでに誤解のないよう言っときますけどね、誓って真君とはそういう関係ではないですからね。」
真君の名前を口にした瞬間、悟空は懐にある視根鏡の存在を思い出した。これを今こそ役立てるべきである。三蔵に例の鏡を握らせて言った。
「お師匠様、これは視根鏡といって相手の本音を見ることのできる道具です。これでおれを見てください。おれの本当の気持ちがわかるはずです。」
半信半疑といった様子で三蔵は鏡を悟空に向けた。
「お師匠様、おれが心に決めたたった一人の相手は……。」
悟空は三蔵の名前を心に思い浮かべてじっと念を送る。三蔵は悟空の顔に浮き出た文字を読んだ瞬間、湯気が出そうなほど赤くなり、その顔を袖で隠してしまった。
「お師匠様、どうしました。何て書いてありました。」
「……言えぬ。」
「なぜですか。では代わりにこの視根鏡でお師匠様を見てもいいですか。」
「だめじゃ。」
「ええ。なぜですか。」
顔を隠そうとする三蔵の両腕を悟空は抑えた。勢い二人の顔が近付く。まるで接吻を交わした時のように。三蔵が屈みながら俯いているため、両者の額は拳一つほどしか空いていない。
両者は頬を赤く染めてしばらく見つめ合った。先に口を開いたのは悟空だった。
「……あの、前のようにしつこくしないので一回だけ接吻してもいいですか。」
「だめじゃ。」
「もう一度したら、接吻の夢を見なくなるかもしれませんよ。」
三蔵は視根鏡を使って悟空の顔を再び見つめた。
「『おれとの接吻の夢など何度も見ればいい』『理由なんてどうでもいいから接吻したい。』、これがそなたの本音か。」
「お師匠様ずるいですよ。自分ばっかり気持ちを読んで。そうですよ、おれはお師匠様といつでも接吻したいんです。」
開き直った悟空に、三蔵は少しだけ口元を緩めた。悟空はもう一度尋ねてみる。
「していいですか。」
「だめじゃ。」
「一回だけです。」
「……だめじゃ。」
「お師匠様、今ちょっと迷いましたよね。」
「迷ってなどおらぬ。」
悟空は嫌われていなかったどころか、三蔵も自分のことを意識してくれていたことを知り、心躍る気持ちである。お互いをくすぐりあうような言い合いでさえ楽しく、ずっと二人でこんな風にいちゃついていたいと思う。
邪魔したのは、力強い大声だった。
「たのもー。」
悟空はぎょっとしながらも三蔵をその背に隠す。目の前に突然現れたのは二郎真君であった。
「なんだ、おどかすなよ、二郎真君。どうした。」
「先刻から隠身して見守っていたのだが、じれったくなり出てきたのだ。まったく話が進まぬではないか。」
「いつから覗き見してやがった。」
「唐僧が布団に包まり泣いている時からだな。」
「最初からじゃねえか、この野郎。」
「悟空、顕聖二郎真君に失礼な物言いはやめなさい。」
耳に手をやり今にも如意金箍棒を取り出しそうな悟空を三蔵が押しとどめる。
「大聖殿、視根鏡を返してもらうぞ。」
まったく怯むことのない二郎真君は鏡を使って、悟空と三蔵の顔をじっくりと眺めながら何度も頷いた。完全に二郎真君のペースである。
「よし。よし。問題なし。何一つ障害はないな。」
そして、二郎真君はその太い腕で三蔵と悟空の背中を引き寄せ、二人を向かい合わせに近づけた。
「さあ、お二人とも気兼ねなく接吻を交わすがいい。」
「はあ?」
「ええ?」
「二人の気持ちは一致しておる。私がきちんと確認したことを太鼓判を押して保証しよう。さあ、遠慮なく、さあさあ。」
二郎真君は二人の後頭部を押しつけようとさえしてくる。三蔵の唇が眼前にまで迫り、悟空は慌てて首を捩った。
「やめろっ、情緒もへったくれもねえ接吻なんかなんの意味があんだよっ。この唐変木っ。」
「おおっ、そうかそうか。邪魔者は消えよう。ちゃんと見守っておるからな。うまくやるんだぞ、大聖。この前の反省を生かしてがっつきすぎんようにな。」
朗らかな笑いを残して二郎真君は姿を消した。途端に身体を離そうとする三蔵の背中を悟空はぐっと引き寄せる。三蔵の高なる心音を悟空は額で聞く。
「まだ話は終わってないですよ。」
「……何の話じゃ。」
「二郎真君は傍迷惑ですが嘘は言いません。お師匠様の気持ちがおれと一致しているのならば……。」
「……。」
三蔵の視線は悟空の唇を見つめている。きっと本人だけが気づいていない。
「接吻してほしいですか。」
「してほしくなどないわ。」
頬を染めながらも、悟空の腕の中を出ていこうとしない三蔵はこの世のものとも思えない可愛さで悟空はにやけそうになる顔を取りつくろうのに必死である。
「一回だけしましょうか。」
「……そなたがどうしてもというなら……。」
「どうしてもです。」
三蔵は早くも目を閉じている。悟空は満足気に一息吐いた後、ゆっくりと顔を寄せた。
唇がやっと触れ合うかと思われた次の瞬間、玄関の方で「ただいま帰りましたー。果物が山ほどあったぞ。お師匠様も兄貴も残念だったなあ。」「お二人の分もお土産を頂いて参りましたぞ。」と八戒と悟浄の声がした。
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「寝室で休まれているのなら邪魔せぬ方が良いだろう。」
「兄貴もいないぞ。寝室で二人きりでナニしてんのか、見に行こうぜ。」
「兄者、やめておいてくれ。」
「八戒、悟浄、大儀であった。そちらに今行く。」
と、三蔵は内心の落胆を押し隠し、声を張って弟子二人に応えた。そのまま身体を離そうとする三蔵を悟空は無言で力強く引き寄せた。一瞬だけ掠めるような接吻をする。驚いたように目を見張る三蔵に悟空は悪戯っぽく笑いかけ、その耳元で「続きはまた今度。」と囁いた。
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