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縄の跡が消えるまで下帯は履かせません
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さんざんに手を焼かされた紅孩児が観音により帰依した瞬間、悟空は慌てて火雲洞の中を探し回った。三蔵が攫われてから助けるまでに想定よりも時間がかかってしまった。
きっとお師匠様は辛い思いをされているだろう。捜索ついでに見つけた皮袋の中から悟浄が八戒を助け出すのを目の端で見ながら、悟空はさらに洞の奥に進んだ。
洞の一番奥はどういう仕組みか吹き抜けになっていて、上からは日光が射す小さい果樹林になっていた。一番奥の果樹の根元にいる肌色の塊が……、師父だった。慌てて駆け寄れば、悟空はみぞおちを打たれたように声も出なかった。
三蔵は丸裸のまま荒縄で何十にも縛られていた。情け容赦もなく無雑作に巻かれた縄は三蔵の首、胸、腰、膝、足首を通った後に木の幹の反対側に集約されているが、三蔵の股間には何も巻かれておらず顕わなままだった。それは本体の三蔵と同様に力なくぐったりと身体を傾げている。
何度も身を捩って縄を緩めようとしたのだろうか、三蔵の柔肌は縄のちくちくした硬い剛毛にさされて至る所が赤くなっていた。今、三蔵は気を失っているのか、眠っているのか、目の端に涙を溜めたまま目を瞑ったままだ。
大切な人が自分の知らない場所でこんなに凄惨たる扱いを受けていたことに、悟空はぎりぎり歯噛みをした。叔父甥の間柄だからと紅孩児を説得してようとしていた自分が馬鹿だった。もっと早く観音を連れてくれば良かった。いや、紅孩児なんて殺してやればよかった。そうすれば辛い状態からもっと早くに助け出してやれたのに。三蔵はこんなにもはかなく、こんなにもか弱い。
「お、お師匠様……。」
足に根が生えたかのように、まるで近づけなかった。早くなんとかしなくてはと思うのに、身体がどろどろに溶けてしまったかのように動かない。
金角と銀閣が持っていた紫金紅葫蘆に閉じ込められても身体の毛一本も溶けなかった悟空の身体は、おかしなことに頽れた三蔵の姿を見ただけで力が入らないのであった。自分ではない大切な他者を攻撃されることがこんなにも自分の脅威になるのだということを、悟空はこの取経の旅に出るまで知らなかった。
花果山には大勢の手下がいるが、仮に花果山を焼き討ちされたとしてもこうはならないだろう。きっと、その敵への報復を画策するだけだ。今感じている、自分の心の蔵を抉り獲られて身体から全ての血液が流れて出てしまうような衝撃はきっとないだろう。
「兄者、何をやっている。お師匠様!」
棒のように突っ立ったままの悟空を脇に押しのけるようにして悟浄が駆け寄った。木の幹の後ろに周り結び目をあっというまにほどいて、三蔵の身体に巻き付いたいまいましい縄を解き捨てる。何も隠すもののなくなった赤くなった肌がさらけ出され、悟空はさらに突き刺されるような痛みを覚える。拘束を解き放たれた三蔵は力のない身体をそのまま柔らかい苔の上に横たえた。
「ん……、悟空……。」
ゆっくり目を開いた三蔵が掠れた声で名を呼ぶ。一番に呼んでくれることが何より嬉しい。
「はい、はい、悟空はここにおります。」
三蔵の一言で金縛りが解けたように悟空は文字通り跳び上がって駆け寄った。悟浄は何か言いたそうな顔をしながらも少し距離を取り、手早く荷を解いて何かを探し始めた。
「遅かったの。」
開口一番、文句を言われた。いつも通りの三蔵に悟空はなぜだか知らないが涙が出そうな気分だった。
「……文句を言う元気があって何よりです。本当にお待たせしました。」
柔毛を一本抜いて、肌当たりの良い薄木綿の長衣に変化させ、三蔵の上からふわりと掛けてやった。痛めつけられた肌はすぐに衣で擦るようなことがない方がいいだろう。
「身体を起こしてほしい。」
「はい。」
三蔵の肩に腕を回して助け起こす。上から衣をかけただけなので、背中は覆われるものもない裸のままだ。
初めて触れた師父の肌は熱かった。首回りからほのかに桃の花のような匂いがする。同じものを食べているのに、八戒や悟浄からついぞこんな香りはしたことがない。三蔵だけこんなにいい匂いがするのは、高僧だからなのか、人間だからなのか、それとも三蔵だからなのか、悟空にはわからなかった。
回した腕を離す気になれず、悟空はそのまま自分の胸に三蔵の上半身を寄りかからせた。顎の下に三蔵の頭を優しく固定し倒れないようにする。悟空は気を静め、丹田に新鮮な空気を溜めていく。
「……んっ………………ふう……。」
胸に押し付けるようにすると三蔵の呼吸が悟空の落ち着いたそれと同調していく。呼吸によって痛みを統制する法を悟空は会得している。少しは三蔵にも効果があるといい、と思い、一層身体を近づけたくなる。悟空は三蔵の腰をぐっと自分に引き寄せた。
「なにを……。」
腰に触れた時の三蔵のはっとした顔に、悟空は驚いて釈明した。
「おれと呼吸を合わせてください。痛みが引いてくるはずです。」
「……そうか。」
次第を察した三蔵は素直に身をすり寄せてくる。少し腰を浮かせたかと思うと、胡座をかいている悟空の足の真ん中に座り直しさえした。
そうだった。この人は誰に迷惑をかけることもないという前提であれば、自分の不快を取り除くための努力は怠らない人であった。と考えながらも悟空は思いがけない三蔵からの接近に心拍数が上がっている。失っていたかもしれない三蔵の命の輝きを今この手で自分が抱きしめているのだと思うと、もう手放せなかった。
三蔵に触れている悟空の身体が少しずつ熱くなっていく。丹田の空気が暖炉のように燃えている。
悟空は己の呼吸が徐々に乱れてくるのを感じた。いけない、これでは傷の治りに貢献できなくなるではないか。静まれ、静まれ、と悟空は念じるが、一向に収まる気配はない。それどころか、全身で感じる三蔵の肢体の柔らかさと甘美な匂いに全身の感覚が欲望で昂っていく。
と、悟空にとっては幸いというか残念というか、そこで邪魔が入った。
「お師匠様ー。」
遅れてきた八戒だ。どたどたと大きな足音を上げて走ってくる。そのわりには息が上がっていないので、先程までは歩いていたのをこちらから見える段になって初めて走ってきたのだろう。
「あれ、なんで抱き合ってるんですか?」
八戒の遠慮のない問いに三蔵は俯いた。照れるようなことは何もしているはずがない、と悟空は自分に言い聞かせながら八戒に怒鳴った。
「このまぬけ。抱き合ってなんかねえよ。呼吸を合わせて、お師匠様の痛みを和らげていただけだっ。」
ふうん、そうかそうかと訳知り顔で頷く八戒を殴ってやりたくなる。悟浄が気の毒そうな顔で付け足した。
「拙者らが見つけた時には裸のまま縄でぐるぐる巻きにされておったのだ。」
「縄で巻くのはよくあることだけど、裸ってのが聞き捨てならねえな。紅孩児は加虐性愛でもあったのか。」
「そうだな。それは兄者、興味深い視点だ。加虐性愛というのは捕食関係においても成り立つものだろうか……。」
そもそも摂食行為が加虐とも言える、ただし愛の前提は……などとぶつぶつ言いだした悟浄を放っておいて、八戒は三蔵に改めて向き直った。
「お師匠様、裸に縄を巻くなんてサービスを気安くやってはだめですよ。それは別料金ですって断らないと。」
「私だって別に好きで辱められたのではない。」
「知ってますよ。屈辱的だったでしょ。だから兄貴がこの地に存在する生き物全てを殺しそうな顔で怒ってるんだね。」
自分がそんな顔をしていたとは八戒に言われるまで悟空は気づかなった。
「悟空……。そなた、怒っているのか。」
三蔵に下から見上げられて思わず目を逸らした。自分の腕の中にいる三蔵は小さくて柔らかくて綿菓子みたいに頼りない。腹の中の煮えたぎるマグマさえ光って昇華しそうだ。
「ええ、怒ってますよ。怒ってますけど、お師匠様にはどうにもならなかったこともわかってるし。紅孩児も殺してやりたいくらいですけど、一番はお師匠様を守りきれなった自分に怒ってますから、おれが自分で反省すればそれで終わりです。お師匠様は何も悪くないです。」
「悟空……。」
せせらぎのように心地よい、落ち着いた声で名を呼ばれると、その瞬間だけですべてが許せそうな気がしてくる。腕の中に三蔵がいて、優しく自分の名を呼んでくれて、これ以上の幸福はきっと天竺にだって存在しないだろう。
「おお、忘れていた。お師匠様。傷薬を塗りましょう。」
そそくさと寄ってきた悟浄が膏薬の入った小箱を開けた。
嫌な予感がした。
「悟浄、ありがたい。背中の傷に塗ってもらっても良いか。」
背を起こしながら言う三蔵に、八戒が挙手をして答えた。
「俺が塗って差し上げますよ。」
「だめだだめだだめだー。」
「なんでだよ。」
「お前は目つきも手つきも汚らわしいから、だめだ。」
「拙者であれば良いのか。」
悟浄が尋ねてきたが、悟空は首を振った。
「うーん、だめだな。」
「じゃあ、悟空兄者に任せよう。」
悟浄はぽいっと小箱を悟空に投げ渡すと腰を上げた。そのまま八戒の腕を掴んで元来た道を戻っていく。
「拙者らは洞を焼き討ちするための薪を集めておく。傷薬を塗ってから洞の外に出てくるといい。一刻ほどしか待ってはやれぬから、あまり時間をかけるなよ。」
「なんで?俺も薪拾いより薬塗ってる方がいいよう。」
洞内には悟空と三蔵が残された。相変わらず斜め上に展開する悟浄の配慮がくすぐったい気がする。
二人きりで三蔵の身体の隅々にまで薬を塗ってしまったら自分がどうなるかまったく予測がつかない悟空は、ため息をついた。耳敏く聞きつけた三蔵は口を尖らせた。
「私に薬を塗るのがそんなに嫌なのか。」
ほら、この人はすぐに機嫌を損ねる。
「違いますって。」
と言いながら三蔵の背にそっと触れる。
熱い。
斉天大聖の鉄の理性が試される大いなる困難に悟空は今立ち向かおうとしていた。
⭐︎
主に悟空が四苦八苦しながらなんとか三蔵に薬を塗ってやったあと、一悶着になった。
「このままでは股がすうすうするではないか。下帯くらい寄こしなさい。」
「だめですよ。こんなに傷ついたお師匠様の肌を紐で締め付けるなんて言語道断です。しばらくその衣だけで過ごしてください。」
「下帯なしでどうやって馬に乗るのじゃ。」
「しばらく休んでから出発したらいいでしょう。」
その場は悟空の勢いに言い負けて、しぶしぶ衣を緩く身体に巻きつけただけの格好で洞の外に出た三蔵だったが、その後が悪かった。
「悟空が私に下帯も履かせてくれぬのだ。」
と悟浄と八戒に愚痴ったせいで、悟空はあらぬ誤解を招き、悟浄からは冷たい視線を、八戒からは吹き出しそうな豚面を、向けられたのだった。
きっとお師匠様は辛い思いをされているだろう。捜索ついでに見つけた皮袋の中から悟浄が八戒を助け出すのを目の端で見ながら、悟空はさらに洞の奥に進んだ。
洞の一番奥はどういう仕組みか吹き抜けになっていて、上からは日光が射す小さい果樹林になっていた。一番奥の果樹の根元にいる肌色の塊が……、師父だった。慌てて駆け寄れば、悟空はみぞおちを打たれたように声も出なかった。
三蔵は丸裸のまま荒縄で何十にも縛られていた。情け容赦もなく無雑作に巻かれた縄は三蔵の首、胸、腰、膝、足首を通った後に木の幹の反対側に集約されているが、三蔵の股間には何も巻かれておらず顕わなままだった。それは本体の三蔵と同様に力なくぐったりと身体を傾げている。
何度も身を捩って縄を緩めようとしたのだろうか、三蔵の柔肌は縄のちくちくした硬い剛毛にさされて至る所が赤くなっていた。今、三蔵は気を失っているのか、眠っているのか、目の端に涙を溜めたまま目を瞑ったままだ。
大切な人が自分の知らない場所でこんなに凄惨たる扱いを受けていたことに、悟空はぎりぎり歯噛みをした。叔父甥の間柄だからと紅孩児を説得してようとしていた自分が馬鹿だった。もっと早く観音を連れてくれば良かった。いや、紅孩児なんて殺してやればよかった。そうすれば辛い状態からもっと早くに助け出してやれたのに。三蔵はこんなにもはかなく、こんなにもか弱い。
「お、お師匠様……。」
足に根が生えたかのように、まるで近づけなかった。早くなんとかしなくてはと思うのに、身体がどろどろに溶けてしまったかのように動かない。
金角と銀閣が持っていた紫金紅葫蘆に閉じ込められても身体の毛一本も溶けなかった悟空の身体は、おかしなことに頽れた三蔵の姿を見ただけで力が入らないのであった。自分ではない大切な他者を攻撃されることがこんなにも自分の脅威になるのだということを、悟空はこの取経の旅に出るまで知らなかった。
花果山には大勢の手下がいるが、仮に花果山を焼き討ちされたとしてもこうはならないだろう。きっと、その敵への報復を画策するだけだ。今感じている、自分の心の蔵を抉り獲られて身体から全ての血液が流れて出てしまうような衝撃はきっとないだろう。
「兄者、何をやっている。お師匠様!」
棒のように突っ立ったままの悟空を脇に押しのけるようにして悟浄が駆け寄った。木の幹の後ろに周り結び目をあっというまにほどいて、三蔵の身体に巻き付いたいまいましい縄を解き捨てる。何も隠すもののなくなった赤くなった肌がさらけ出され、悟空はさらに突き刺されるような痛みを覚える。拘束を解き放たれた三蔵は力のない身体をそのまま柔らかい苔の上に横たえた。
「ん……、悟空……。」
ゆっくり目を開いた三蔵が掠れた声で名を呼ぶ。一番に呼んでくれることが何より嬉しい。
「はい、はい、悟空はここにおります。」
三蔵の一言で金縛りが解けたように悟空は文字通り跳び上がって駆け寄った。悟浄は何か言いたそうな顔をしながらも少し距離を取り、手早く荷を解いて何かを探し始めた。
「遅かったの。」
開口一番、文句を言われた。いつも通りの三蔵に悟空はなぜだか知らないが涙が出そうな気分だった。
「……文句を言う元気があって何よりです。本当にお待たせしました。」
柔毛を一本抜いて、肌当たりの良い薄木綿の長衣に変化させ、三蔵の上からふわりと掛けてやった。痛めつけられた肌はすぐに衣で擦るようなことがない方がいいだろう。
「身体を起こしてほしい。」
「はい。」
三蔵の肩に腕を回して助け起こす。上から衣をかけただけなので、背中は覆われるものもない裸のままだ。
初めて触れた師父の肌は熱かった。首回りからほのかに桃の花のような匂いがする。同じものを食べているのに、八戒や悟浄からついぞこんな香りはしたことがない。三蔵だけこんなにいい匂いがするのは、高僧だからなのか、人間だからなのか、それとも三蔵だからなのか、悟空にはわからなかった。
回した腕を離す気になれず、悟空はそのまま自分の胸に三蔵の上半身を寄りかからせた。顎の下に三蔵の頭を優しく固定し倒れないようにする。悟空は気を静め、丹田に新鮮な空気を溜めていく。
「……んっ………………ふう……。」
胸に押し付けるようにすると三蔵の呼吸が悟空の落ち着いたそれと同調していく。呼吸によって痛みを統制する法を悟空は会得している。少しは三蔵にも効果があるといい、と思い、一層身体を近づけたくなる。悟空は三蔵の腰をぐっと自分に引き寄せた。
「なにを……。」
腰に触れた時の三蔵のはっとした顔に、悟空は驚いて釈明した。
「おれと呼吸を合わせてください。痛みが引いてくるはずです。」
「……そうか。」
次第を察した三蔵は素直に身をすり寄せてくる。少し腰を浮かせたかと思うと、胡座をかいている悟空の足の真ん中に座り直しさえした。
そうだった。この人は誰に迷惑をかけることもないという前提であれば、自分の不快を取り除くための努力は怠らない人であった。と考えながらも悟空は思いがけない三蔵からの接近に心拍数が上がっている。失っていたかもしれない三蔵の命の輝きを今この手で自分が抱きしめているのだと思うと、もう手放せなかった。
三蔵に触れている悟空の身体が少しずつ熱くなっていく。丹田の空気が暖炉のように燃えている。
悟空は己の呼吸が徐々に乱れてくるのを感じた。いけない、これでは傷の治りに貢献できなくなるではないか。静まれ、静まれ、と悟空は念じるが、一向に収まる気配はない。それどころか、全身で感じる三蔵の肢体の柔らかさと甘美な匂いに全身の感覚が欲望で昂っていく。
と、悟空にとっては幸いというか残念というか、そこで邪魔が入った。
「お師匠様ー。」
遅れてきた八戒だ。どたどたと大きな足音を上げて走ってくる。そのわりには息が上がっていないので、先程までは歩いていたのをこちらから見える段になって初めて走ってきたのだろう。
「あれ、なんで抱き合ってるんですか?」
八戒の遠慮のない問いに三蔵は俯いた。照れるようなことは何もしているはずがない、と悟空は自分に言い聞かせながら八戒に怒鳴った。
「このまぬけ。抱き合ってなんかねえよ。呼吸を合わせて、お師匠様の痛みを和らげていただけだっ。」
ふうん、そうかそうかと訳知り顔で頷く八戒を殴ってやりたくなる。悟浄が気の毒そうな顔で付け足した。
「拙者らが見つけた時には裸のまま縄でぐるぐる巻きにされておったのだ。」
「縄で巻くのはよくあることだけど、裸ってのが聞き捨てならねえな。紅孩児は加虐性愛でもあったのか。」
「そうだな。それは兄者、興味深い視点だ。加虐性愛というのは捕食関係においても成り立つものだろうか……。」
そもそも摂食行為が加虐とも言える、ただし愛の前提は……などとぶつぶつ言いだした悟浄を放っておいて、八戒は三蔵に改めて向き直った。
「お師匠様、裸に縄を巻くなんてサービスを気安くやってはだめですよ。それは別料金ですって断らないと。」
「私だって別に好きで辱められたのではない。」
「知ってますよ。屈辱的だったでしょ。だから兄貴がこの地に存在する生き物全てを殺しそうな顔で怒ってるんだね。」
自分がそんな顔をしていたとは八戒に言われるまで悟空は気づかなった。
「悟空……。そなた、怒っているのか。」
三蔵に下から見上げられて思わず目を逸らした。自分の腕の中にいる三蔵は小さくて柔らかくて綿菓子みたいに頼りない。腹の中の煮えたぎるマグマさえ光って昇華しそうだ。
「ええ、怒ってますよ。怒ってますけど、お師匠様にはどうにもならなかったこともわかってるし。紅孩児も殺してやりたいくらいですけど、一番はお師匠様を守りきれなった自分に怒ってますから、おれが自分で反省すればそれで終わりです。お師匠様は何も悪くないです。」
「悟空……。」
せせらぎのように心地よい、落ち着いた声で名を呼ばれると、その瞬間だけですべてが許せそうな気がしてくる。腕の中に三蔵がいて、優しく自分の名を呼んでくれて、これ以上の幸福はきっと天竺にだって存在しないだろう。
「おお、忘れていた。お師匠様。傷薬を塗りましょう。」
そそくさと寄ってきた悟浄が膏薬の入った小箱を開けた。
嫌な予感がした。
「悟浄、ありがたい。背中の傷に塗ってもらっても良いか。」
背を起こしながら言う三蔵に、八戒が挙手をして答えた。
「俺が塗って差し上げますよ。」
「だめだだめだだめだー。」
「なんでだよ。」
「お前は目つきも手つきも汚らわしいから、だめだ。」
「拙者であれば良いのか。」
悟浄が尋ねてきたが、悟空は首を振った。
「うーん、だめだな。」
「じゃあ、悟空兄者に任せよう。」
悟浄はぽいっと小箱を悟空に投げ渡すと腰を上げた。そのまま八戒の腕を掴んで元来た道を戻っていく。
「拙者らは洞を焼き討ちするための薪を集めておく。傷薬を塗ってから洞の外に出てくるといい。一刻ほどしか待ってはやれぬから、あまり時間をかけるなよ。」
「なんで?俺も薪拾いより薬塗ってる方がいいよう。」
洞内には悟空と三蔵が残された。相変わらず斜め上に展開する悟浄の配慮がくすぐったい気がする。
二人きりで三蔵の身体の隅々にまで薬を塗ってしまったら自分がどうなるかまったく予測がつかない悟空は、ため息をついた。耳敏く聞きつけた三蔵は口を尖らせた。
「私に薬を塗るのがそんなに嫌なのか。」
ほら、この人はすぐに機嫌を損ねる。
「違いますって。」
と言いながら三蔵の背にそっと触れる。
熱い。
斉天大聖の鉄の理性が試される大いなる困難に悟空は今立ち向かおうとしていた。
⭐︎
主に悟空が四苦八苦しながらなんとか三蔵に薬を塗ってやったあと、一悶着になった。
「このままでは股がすうすうするではないか。下帯くらい寄こしなさい。」
「だめですよ。こんなに傷ついたお師匠様の肌を紐で締め付けるなんて言語道断です。しばらくその衣だけで過ごしてください。」
「下帯なしでどうやって馬に乗るのじゃ。」
「しばらく休んでから出発したらいいでしょう。」
その場は悟空の勢いに言い負けて、しぶしぶ衣を緩く身体に巻きつけただけの格好で洞の外に出た三蔵だったが、その後が悪かった。
「悟空が私に下帯も履かせてくれぬのだ。」
と悟浄と八戒に愚痴ったせいで、悟空はあらぬ誤解を招き、悟浄からは冷たい視線を、八戒からは吹き出しそうな豚面を、向けられたのだった。
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