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しおりを挟む今日の仕事はアヴァさんとのペアだからすぐに終わるだろう。
扉の右上に愛想なく表記された部屋番号を確認してから、ドアハンドルに手をかける。指紋認証の働く音はしない。既に鍵もかかっていないのだ。
部屋の主は、つい最近矯正所に収容されたらしい。脱いだままの靴下や少し水が残ったままのコップが残されている。数か月以上無人の部屋になると、何とも言えない濁った空気が部屋に充満しているからすぐにわかる。
特に今日のような上層階特有のはめ殺し窓ばかりの部屋は無人になるとすぐに空き家臭がしてくる。
部屋の家具はベッドと小さなビューローのみだ。個人情報がわかる物や貴重品は情報部が既に持っていったとは言え、物の少ない部屋はすぐに片付いた。
耳たぶのスイッチでコンタクトアイカメラ機能を起動させ、部屋の様子を撮影して会社に送ろうとしたところで、アヴァさんに止められた。
「報告あげるのは少し休憩してからでいいよ」
「なんでです?」
「我々は仕事が早い。しかし仕事を早く片付けたからと言って、報酬が増えるわけじゃないし、場合によっては今日の課題を増やされるだけだ。それなら仕事に時間がかかったふりをして、仕事完了の報告をしても何も変わらない、だろ?」
人民の行動を把握する監視ドローンにサボタージュを見つかったら面倒だと思うが、こんな高層まで登ってくるドローンもそういないだろう。
「まあ、そうですね」
アヴァさんにつられるように私も床に腰を下ろした。薄いカーテンの隙間から射してくる日差しが心地よい。高層階は日当たりだけは最高だ。
私達の仕事は清掃部だ。ただし清掃場所は矯正所に収容された人の部屋のみ。清掃後の部屋にはまた新しく成人してきた若者が入居する。秘密保持が関わってくるだけに清掃業の中ではランクが若干高めのN5という位置づけになっている。
コポコポと水筒からお茶を淹れてアヴァさんが手渡してくれる。
「この部屋のコップですよね」
私が少し眉をしかめたのをアヴァさんは見逃さない。
「綺麗に洗ったのは保証するよ」
「洗ったの、私ですけどね」
「飲まないの?」
「飲みますけど」
飲み込もうとした瞬間、想定外の甘苦さがのどを刺激し思わず咽せた。
「アヴァさん、このお茶、変な味」
「ええ?ただの緑茶だけどなあ」
私からコップを受け取ったアヴァさんは一口飲み、そして頷いた。
「これは……あれだ」
そしてコップのお茶をためらいもなくシンクに捨てた後、グラスの底に指を突っ込んだかと思うと、ぺらりと透明な丸いシールを剥がした。
「透明の情報磁気シート?見た目には位置特定機能付っぽいけど」
ちょうどグラスの底と同じ大きさの円になるようなシールに成形していたせいで、グラスを洗った時にもまったく気づかなかった。
アヴァさんは顎を撫でて言った。
「しかも情報部に見つからないように探知機隠密処理までかけてるっぽい。次にこの部屋にくる入居者がこのコップを使った時に初めて気が付いて、あわよくば助けに来てほしいってことかな」
「ヤバいじゃないですか。会社に報告しなきゃですよね」
焦る私と対照的にアヴァさんは床にごろりと寝そべった。
「面倒くさいから放っておこう。何も気が付かなかったふりで、すべて闇に葬ろう。世界はそうやって回っているんだよ」
あっという間にシャツを捲られ、とんとんと私の背中の素肌を叩いてくる。アヴァさんはその拍子に情報磁気シートを私の背中に貼ったらしい。
「いやだ、剥がしてくださいよ」
ちょうど私の手の届かない背中の中央だ。
「いやだね~」
アヴァさんは歌うように言って尻を掻いた。どうやらここで昼寝する気らしい。
家に帰ってすぐに寝室へ向かう。レンシャリアは、私が朝家を出た時と同じ格好でベッドにいた。
「おかえり」
「ただいま」
「ごめんヴァリ……、あの」
「お尻気持ち悪い?すぐ拭くね」
レンシャリアの陰部を拭いてオムツをあてがう。慣れた作業だ。
天井に設置した介護用アームを操作することで、レンシャリアは自分の身体を持ち上げ、ベッドの隣のトイレで用を足すことはできる。
小の時はそれで事足りるが、介護用アームで尻を丁寧に拭くことはなかなか困難なのだ。疑う人はやってみればいい。アームが一番拭いてほしい奥まった部分まで届かないか、無理に届かせようとして強度を上げて痔になるかのどちらかになるはずだから。
「帰ってきて早々に、ごめんね」
「謝らないで」
「うん……そだね」
レンシャリアと私は五年前にパートナー婚をした。どちらもN5の同ランク婚だから珍しくない。
想定外だったのはレンシャリアの病気だった。結婚して数年後、彼女が何もないところで躓いたり、起きぬけに喋りにくくなったりするようになった。病院にかかったが、進行を遅らせる薬はあるが高価なためN5ランクには使用許可がないとのことだった。年齢が若いせいか進行が早く、ついにはベッドから起きることも一人ではできなくなってからもう一年以上経つ。
それでもいい。彼女が笑ってくれれば私はそれでいい。
レンシャリアのために作ったペースト状の夕食を食べさせながら、私はアヴァさんの話をする。
「あの人も相変わらずテキトーっていうか、仕事はデキるんだからもっと出世をめざせばいいのにね」
レンシャリアはいたずらっぽい瞳をきらめかせて言った。この目が私は好きだ。
「ヴァリだってもっと出世を目指せばいいのに」
「所詮このランクで出世したところで、天井は見えてるし」
私が前髪を掻きあげながら言うと、レンシャリアは笑った。
「その言い方、アヴァさんに似てる」
「え~、地味に嫌なんだけど」
お互いに顔を見合せて笑った後、レンシャリアが咳払いしてから言った。
「あのね」
私はレンシャリアの美しい唇が動くのを見た。
「明日、私は矯正所に行くの」
突然、世界から音が消えたような気がした。
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