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八空
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うだるような暑さに一時の涼を求め、我々一行は木陰の湧水で休憩をとっていた。
象もかくやという勢いで水をがぶ飲みした八戒は、当面の喉の渇きは癒えたようで手慰みにでっぷりとした腹をぼこんぼこんと叩いている。我らが師の三蔵は僧頭巾を外し、青々とした頭を滑る汗を手巾で拭う。一番弟子の悟空は「背中の汗を拭いましょう」と濡れた手巾を絞りながら師父に声をかける。
師父の世話は誰にも譲らないという大兄の姿勢は尊敬に値すると同時に少し滑稽でもある。拙者と次兄の八戒を合わせても大兄の神通力にはてんで敵わないのに加えて、何かと細かいところまで気のつく大兄のような世話焼きの性分は拙者も次兄のどちらも持ち合わせていない。我らの師父は尊い存在ではあるが、わがままな面があることは否めない。先だって大兄が一時的に破門された時は、思うように世話を焼いてくれぬ拙者と次兄に苛立ちを募らせていたことからもわかる。
しかるべくして師父の世話は一番弟子の大兄に任せるのが道理でもあり、最適である。つまり、師父の世話について、大兄が我らに張りあう必要はまったくないのだが、大兄自身は何かというと「おれがやるからお前らは手を出すな」という視線を我々に向けてくるのが、いちいち苦笑いを誘うのである。
「ああ、頼む」
三蔵が襟元をはだけ、しどけなく背中を見せる。
悟空が背中を丁寧に拭いてやると、三蔵はふぅっと息をつく。
「すっとするな……」
「少しでもさっぱりして頂けたならよかったです。……前は自分で拭いてくださいね」
暑さのせいか、少し頬を赤らめた大兄が師父の肩を撫でる。
「ああ」
三蔵が手巾を受け取ろうとすると、それを横から奪い取ったのが、次兄だった。
「師父、俺が拭いてさしあげますよ」
「え……」
「オメー、何を企んでやがる」
きょとんとした三蔵を自分の背後に庇うようにして、次兄から距離を取らせたのは大兄だった。急に眼が鋭くなっている。
「別に何も企んでないってば。今日は八月の三日だろ?八三の日。つまりは、八戒と三蔵の日だ。今日は一年の内で唯一、おれが師父といちゃついても罰が当たらない日なんだな」
「そんなわけねーだろっ。そんな都合のいい展開があるか!」
「あるある。来月の九月の三日は空三の日だから、悟空と三蔵の日。ひと月後には兄貴もいちゃつけんだから、楽しみに待ってなよ。二郎真君もこの日一日は見逃してくれるって保証してくれてたし」
「空三……?」
大兄はしばし考え込む。いつもなら次兄の口から出まかせであるのをすぐに看破するはずであるのに、こと師父との関係の件になると途端に浮足立ってしまうのは大兄の瑕疵である。情愛とも敬愛とも判別しがたい切っても切れぬ師弟の愛とは因果なものである、と拙者はため息をつく。
「いけないよ、八戒。いくら顕聖二郎真君の保証があったとしても、私は天竺につくまで元陽を漏らすわけにはいかぬのだから」
きりりとした顔で否定した我らが師父は、拙者でも美しいと感じた。この何人にも侵せない凛とした荘厳さが師父の源なのだ。ほう、と大兄が師父を見つめて感嘆のため息をついているのもよくわかる。
ところが感性の乏しい次兄はこの師父の美しさを全く理解しない。次兄の凡庸な美的感覚では、師父の内面の美しさまでは見通せずに、外見の見目が整っていることにしか気づけないのだ。案の定、へらへらとした顔で次兄は言った。
「わかってますよぉ。別に元陽までとは言ってませんよ。ただ一発、接吻するだけです。ほら、何も減るもんもないでしょ?ね?ぶちゅっとほら、すぐすみますから」
大兄を押しのけて、師父の両肩を握ろうとした次兄の頭に、大兄が拳骨を落とした。
「なんでテメーと師父が接吻する必要があんだよ、本当にあほんだらだな、テメーはよ」
「一年に一日しかない八月三日を祝うためだろぉ?祝福の接吻じゃん。見逃してよ」
「だめだ、だめだ。師父だってテメーみてえな口の臭いブタとは接吻なんぞ反吐が出るってよ」
「えぇ?さすがに口臭いとか言われるとへこむんですけどぉ」
へなへなと座り込む次兄に、師父は
「さすがにそこまでは思ってないよ、私はね」と、とりなしている。
次の瞬間、次兄の肩をぽんぽんと励ますように叩く師父の腕が引かれた。
「師父、油断大敵ですよ」
次兄の唇が師父の頬に触れようとした時、次兄の頬が強い衝撃で張り飛ばされた。
言うまでもない、大兄である。大兄が次兄の頬を殴り飛ばしたのだ。次兄の頭は湧き水のくぼみに埋まっている。
「油断大敵なのはオメーだよ」
大兄は師父の前に立ちはだかるようにして宣言したあと、打ってかわって優しい声で師父に告げた。
「今日一日、こいつは油断ならねえですから、おれの後ろから離れないでくださいよ。今日は付近の妖怪よりも危険なのはこのアホ豚です」
「師父のこと、拙者もお守りしますから」
師父はきらきらした目で、大兄と拙者に礼を言ってくれた。
次兄は起き上がると、水で濡れた頭をぶんぶんと振ってやけくそで突進してきた。まるで兇暴化した牛である。
「うおー!!師父の唇~!!」
「させるかっ」
大兄が師父を背に庇う。
そのまま突進するかに見えた次兄だったが、突然方向を変えた。気合を入れて口を結んだ大兄の唇に次兄のそれがぶち当たった。
一瞬、時が止まったように感じたのは拙者の気のせいだろうか。
重たい沈黙を破ったのは軽薄な次兄の笑いだった。
「へへへ、兄貴は師父に接吻したことあるし、間接的に師父と接吻できたってことで今年は勘弁してやるかな」
「てっめえ……、殴られ足りねえらしいな。この鉄棒でぶん殴るぞ」
大兄は二の腕でごしごしと唇を拭きながら、耳の中から既に如意棒を取り出して振り回している。
「師父の唇は守られたんだから、兄貴が怒るこたねえだろうよ。何百年も生きてるくせに今更、一度や二度の接吻で何を動揺してやがる」
「う、うるせー」
日の当たる山道を次兄は駆け降り、大兄はそれを追っていく。残された師父と拙者は顔を見合せる。
「師父……」
師父は続く拙者の問いを知ってか知らずか、合掌した。
「なんだい」
「悟空大兄の唇が奪われたのは、腹立たしいです?」
「悟空の唇と私の感情に何か因果関係でも?」
「……あ、いえ……ないですよね」
師父は合掌したまま目を閉じた。本当に心に動揺がないのなら、なぜ安寧を求める合掌の姿勢をとるのだろう。師弟の縁は深くて複雑だ。拙者にはまだ解けそうもない。
象もかくやという勢いで水をがぶ飲みした八戒は、当面の喉の渇きは癒えたようで手慰みにでっぷりとした腹をぼこんぼこんと叩いている。我らが師の三蔵は僧頭巾を外し、青々とした頭を滑る汗を手巾で拭う。一番弟子の悟空は「背中の汗を拭いましょう」と濡れた手巾を絞りながら師父に声をかける。
師父の世話は誰にも譲らないという大兄の姿勢は尊敬に値すると同時に少し滑稽でもある。拙者と次兄の八戒を合わせても大兄の神通力にはてんで敵わないのに加えて、何かと細かいところまで気のつく大兄のような世話焼きの性分は拙者も次兄のどちらも持ち合わせていない。我らの師父は尊い存在ではあるが、わがままな面があることは否めない。先だって大兄が一時的に破門された時は、思うように世話を焼いてくれぬ拙者と次兄に苛立ちを募らせていたことからもわかる。
しかるべくして師父の世話は一番弟子の大兄に任せるのが道理でもあり、最適である。つまり、師父の世話について、大兄が我らに張りあう必要はまったくないのだが、大兄自身は何かというと「おれがやるからお前らは手を出すな」という視線を我々に向けてくるのが、いちいち苦笑いを誘うのである。
「ああ、頼む」
三蔵が襟元をはだけ、しどけなく背中を見せる。
悟空が背中を丁寧に拭いてやると、三蔵はふぅっと息をつく。
「すっとするな……」
「少しでもさっぱりして頂けたならよかったです。……前は自分で拭いてくださいね」
暑さのせいか、少し頬を赤らめた大兄が師父の肩を撫でる。
「ああ」
三蔵が手巾を受け取ろうとすると、それを横から奪い取ったのが、次兄だった。
「師父、俺が拭いてさしあげますよ」
「え……」
「オメー、何を企んでやがる」
きょとんとした三蔵を自分の背後に庇うようにして、次兄から距離を取らせたのは大兄だった。急に眼が鋭くなっている。
「別に何も企んでないってば。今日は八月の三日だろ?八三の日。つまりは、八戒と三蔵の日だ。今日は一年の内で唯一、おれが師父といちゃついても罰が当たらない日なんだな」
「そんなわけねーだろっ。そんな都合のいい展開があるか!」
「あるある。来月の九月の三日は空三の日だから、悟空と三蔵の日。ひと月後には兄貴もいちゃつけんだから、楽しみに待ってなよ。二郎真君もこの日一日は見逃してくれるって保証してくれてたし」
「空三……?」
大兄はしばし考え込む。いつもなら次兄の口から出まかせであるのをすぐに看破するはずであるのに、こと師父との関係の件になると途端に浮足立ってしまうのは大兄の瑕疵である。情愛とも敬愛とも判別しがたい切っても切れぬ師弟の愛とは因果なものである、と拙者はため息をつく。
「いけないよ、八戒。いくら顕聖二郎真君の保証があったとしても、私は天竺につくまで元陽を漏らすわけにはいかぬのだから」
きりりとした顔で否定した我らが師父は、拙者でも美しいと感じた。この何人にも侵せない凛とした荘厳さが師父の源なのだ。ほう、と大兄が師父を見つめて感嘆のため息をついているのもよくわかる。
ところが感性の乏しい次兄はこの師父の美しさを全く理解しない。次兄の凡庸な美的感覚では、師父の内面の美しさまでは見通せずに、外見の見目が整っていることにしか気づけないのだ。案の定、へらへらとした顔で次兄は言った。
「わかってますよぉ。別に元陽までとは言ってませんよ。ただ一発、接吻するだけです。ほら、何も減るもんもないでしょ?ね?ぶちゅっとほら、すぐすみますから」
大兄を押しのけて、師父の両肩を握ろうとした次兄の頭に、大兄が拳骨を落とした。
「なんでテメーと師父が接吻する必要があんだよ、本当にあほんだらだな、テメーはよ」
「一年に一日しかない八月三日を祝うためだろぉ?祝福の接吻じゃん。見逃してよ」
「だめだ、だめだ。師父だってテメーみてえな口の臭いブタとは接吻なんぞ反吐が出るってよ」
「えぇ?さすがに口臭いとか言われるとへこむんですけどぉ」
へなへなと座り込む次兄に、師父は
「さすがにそこまでは思ってないよ、私はね」と、とりなしている。
次の瞬間、次兄の肩をぽんぽんと励ますように叩く師父の腕が引かれた。
「師父、油断大敵ですよ」
次兄の唇が師父の頬に触れようとした時、次兄の頬が強い衝撃で張り飛ばされた。
言うまでもない、大兄である。大兄が次兄の頬を殴り飛ばしたのだ。次兄の頭は湧き水のくぼみに埋まっている。
「油断大敵なのはオメーだよ」
大兄は師父の前に立ちはだかるようにして宣言したあと、打ってかわって優しい声で師父に告げた。
「今日一日、こいつは油断ならねえですから、おれの後ろから離れないでくださいよ。今日は付近の妖怪よりも危険なのはこのアホ豚です」
「師父のこと、拙者もお守りしますから」
師父はきらきらした目で、大兄と拙者に礼を言ってくれた。
次兄は起き上がると、水で濡れた頭をぶんぶんと振ってやけくそで突進してきた。まるで兇暴化した牛である。
「うおー!!師父の唇~!!」
「させるかっ」
大兄が師父を背に庇う。
そのまま突進するかに見えた次兄だったが、突然方向を変えた。気合を入れて口を結んだ大兄の唇に次兄のそれがぶち当たった。
一瞬、時が止まったように感じたのは拙者の気のせいだろうか。
重たい沈黙を破ったのは軽薄な次兄の笑いだった。
「へへへ、兄貴は師父に接吻したことあるし、間接的に師父と接吻できたってことで今年は勘弁してやるかな」
「てっめえ……、殴られ足りねえらしいな。この鉄棒でぶん殴るぞ」
大兄は二の腕でごしごしと唇を拭きながら、耳の中から既に如意棒を取り出して振り回している。
「師父の唇は守られたんだから、兄貴が怒るこたねえだろうよ。何百年も生きてるくせに今更、一度や二度の接吻で何を動揺してやがる」
「う、うるせー」
日の当たる山道を次兄は駆け降り、大兄はそれを追っていく。残された師父と拙者は顔を見合せる。
「師父……」
師父は続く拙者の問いを知ってか知らずか、合掌した。
「なんだい」
「悟空大兄の唇が奪われたのは、腹立たしいです?」
「悟空の唇と私の感情に何か因果関係でも?」
「……あ、いえ……ないですよね」
師父は合掌したまま目を閉じた。本当に心に動揺がないのなら、なぜ安寧を求める合掌の姿勢をとるのだろう。師弟の縁は深くて複雑だ。拙者にはまだ解けそうもない。
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