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月下の酒盛り

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 とくりとくりと杯に精進酒を注ぐ。月が杯に映り込んでいて、ひどく贅沢な気分だ。長雨の続く時期だが今夜は綺麗な星空が広がっている。三蔵はふくよかな香りを楽しんだ後、ゆっくりと杯を傾け一口含んだ。

「経をひとさらいした後は寝るんじゃなかったんですか。」

 突然振り向きざまに声をかけられて、三蔵はぶほおと一気に吹き出した。

 一番弟子の悟空だった。怒りと焦りでぶるぶる震える三蔵とは対照的に、悟空は顔にかかった酒をくいっと手の甲で拭いながら唇を舐め、美味い酒ですね、と宣う余裕さえある。

「な……ね、寝ていたのでは……。」

 月明かりで読経した後、部屋に戻って忍び足で酒を取ってきた時にはたしかに弟子三人ともすこやかな寝息といびきを立てていたはずだった。

 今日は山道で迷子になっていた老人程(チェン)氏を家まで送り届けた結果、彼の真摯な誘いを断りきれず、世話になることとなった。程氏の邸宅は広く、一行に離れを用意してくれ、思いがけず快適な一夜を過ごしていた。

「荷物ごそごそしてたでしょ。何をやってるのかと思ったら。……もしかしてお師匠様、お一人の時は飲むんですか。」

「い、いや、これ……これは。」

「人に勧められた時は修行の身ゆえってがんとして受け付けないくせに。今日の夕食の時だってさんざん勧められてたんだから、呑めば良かったじゃないですか。人が見ていない時だけ戒律破るんですか。」

 悟空の頬がにやついていて、イラッとする。なぜかこの猿は三蔵の癇に障ることを的確に突いてくる。八戒や悟浄に言われたのであれば軽く受け流せるのに、この悟空にだけは冷静さを失い本気で言い返してしまうのはなぜなのか。本来己の心得不足であるにも関わらず、今回も開き直ってしまう。

「う、うるさい。人前では醜態を晒さぬように禁酒しておるのじゃ。一人の時くらい眠り薬として少し嗜んだからとて何も悪いことはなかろう。」

「そうですね、でも一人で飲むのは礼儀知らずになります(注1)し、呑み過ぎる心配がありますから、おれも御相伴しますよ。」

 悟空はどこからともなく金色の杯を取り出した。おそらく自分の毛を変化させたのだろう。

「呑み過ぎることはない。この杯に二杯までと決めておる。」

と言いながらも、三蔵は仕方なく悟空に徳利から酒を注いでやる。両手で押し頂きながら杯を受けた悟空はさらに目を丸くする。

「ってことは、自分の適量も分かってるんですね。お師匠様、実は呑み慣れてますね。」

 この猿は油断も隙もならない。言葉の端々から自分の気持ちを汲み取られてしまいそうで落ち着かない気持ちになる。

 なぜ悟空がうきうきと自分の隣に座るのかも理解ができない。一体、何を考えているのか。たしかに酒にありつける場面は少ないが、悟空のほくほく顔を見るにそれだけではないようだ。掟破りの常連である悟空からすれば仲間ができたようで嬉しいのか。

 悟空は三蔵に向かって問う。

「『随意』(注2)ですか。」

「もちろんです。」

 悟空は三蔵に構わず、くっと一気に呑み干してしまった。三蔵は苦笑した後、もう一度酒を注いでやった。

 三蔵も杯を持つと、悟空がその上で手を閃かせた。細かな雪の結晶のようなものが散らつくのが見えた後、陶器の杯が一瞬で冷える。

「これは……。」

「呑んでみてくださいよ。」

 悟空は上機嫌で言った。三蔵はそっと口を付ける。冷感が舌に心地よい。いつも呑んでいた時よりも咽喉の爽快感と香りに鋭敏さが増している。

「美味い……。酒を冷やしたのか。」

「そうです。気に入ってもらえると思いました。それと酒だけを腹に入れると身体に良くないんで……。」

と言いながら、悟空はするするっと手近な木に登り、一瞬で戻ってきた。片手には杏の実を三つほど抱えている。

「お前はまた勝手なことを。御亭主に申し訳なかろう。」

「ここの主人は信心深くて器が大きいから、杏の数個で青筋立てたりしませんよ。」

 悟空はくるくるっと器用に皮を剥くと、三蔵の口の前にその手を寄せた。 

「どうぞ。」

「自分で食べられるが。」

 横目でちらりと窺うと、悟空は涼しい顔をしている。

「熟してますから瑞々しくて、手が汚れますよ。ほら、早くかじりついちゃってください。」

 三蔵は少し悟空を睨んだが、おずおずと顔を寄せて、杏を頬張った。おちょぼ口の三蔵の一口には入りきらずに歯型のついた果実が悟空の手の中に残された。それが恥ずかしい三蔵はもきゅもきゅと素早く口を動かして飲み込み、もう一度顔を近づけて果実の残りを食べた。

 悟空の指先はつゆつゆと湿っている。

「お師匠様、美味しいですか。」

「え、ええ。」

 心臓がやけに速く高鳴っているのは酒のせいだろうか。

「もう一つ剥きましょうか。」

 いつも甲高い声でけたたましく喋る悟空が、落ち着いた声で尋ねるものだから、飲み込んだ杏が腹に落ち着かず胸にふわふわ浮いているような気がする。

「お、お前は食べぬのか。」

「お師匠様が剥いてくださるのであれば。」

 下から覗き込むように悟空の目に射抜かれた。

「そ、……それは。」

 悟空の視線は三蔵の口元から動かない。まるで試すように。祈るように。
 何を。三蔵の真意を。

 三蔵は口を開いた。が、言葉は出てこない。さっきまで潤っていた口の中がひりひりと乾燥していく。

 悟空はふっと肩の力を抜いて息を吐き出すように快活に言った。

「嘘ですよ。お師匠様にはこんな汚れ仕事させませんから。お相伴して良いのなら一つ頂きましょう。」

 ものの数秒で杏の皮を剥いた悟空は、ぱくりと口に放り込んだかと思うと、ごりごりと種まで噛み砕き一飲みにしてしまった。

 三蔵はまだ早鐘を打つ心臓をごまかすために、酒を啜った。冷やした酒は確かに美味い。






          •••
 体を揺さぶられて目を覚ますと、八戒が目の前にいた。

「酒だ、酒だ。一緒に呑もうや。」

 悟浄は伸びをしつつ身体を起こした。

「お師匠様と悟空兄者は?」

「外で二人は酒盛りだ。うるさいこと言う二人がいない間に、こっちで楽しくやろうぜ。」

 三蔵と悟空が酒盛りをするなんてことがありえるのか。まだ自分はは夢の中にいるのかもしれぬと疑い、悟浄はぶるるっと頭を振ってみる。が、特段変化は見られない。

「何驚いてんだよ、悟浄。お師匠様は時々一人でこっそり呑んでんだよ。妖怪退治やらなんやらの御礼で貰った精進酒をさ。この俺が少しずつ減っていく酒の量に気づかないわけないだろう。」

 八戒は卓の上に夜食用に差入れられた果物だの握り飯だのを並べ、早くも準備万端の様相である。

「そ、そうなのか。」

「だからこっちも酒盛りだ。なんせバレても、向こうも同罪だ。気兼ねなく呑んじまえ。」

「しかし、徳利は師が持っているのでは。」

「なんの。酒を貰った時点で既に俺の分は別に取り分けて肌身外さず持ってんだよ。」

 食に関しては感心するほど抜け目のない八戒は、得意気に衣の袂から小ぶりの瓢箪を取り出し、二人の前に注ぎわけた。八戒が自分の杯だけを多めに注ぐのは、さすがである。

「相伴させてもらってかたじけないな。」 

「気にすんなって。一人で呑むのは礼儀知らずだからな。(注3)」

「干杯だな。」 

「もちろん。」 

 二人揃って杯を空ける。少し酸味が強く、舌が軽くぴりりとする。

「兄者、これは薹の立った酒だろうか。」

「いいや、そうでもないぞ。おおかた俺の人肌で発酵が進んだんだろう。気に入らんか。」

「酒でさえあれば文句なぞない。」

「そうだろう、そうだろう。気のいい奴め。呑め呑め。」

 八戒は肩を揺らして笑い、また二人に酒を注いだ。




 
 小ぶりな瓢箪には驚くべきことに見かけよりもたくさん酒が入っているらしい。いくら注いでも尽きることがない。決して法術の扱いが得意とは言えない八戒が工夫を凝らして細工を施したのだろう、と悟浄は推測する。

 杯を重ねて酔いも回り、舌の回転も早くなる。悟浄はとうとう尋ねた。

「八戒兄者は享楽を好いておる。それなのになぜ苦難ばかりの取経の旅を続けるのだ。」

「お師匠様を尊敬してるのと、兄貴が怖えからだな。」 

 打てば響くように間髪入れずに八戒は答えた。もちろん悟浄は納得しない。 

「それだけで乗り越えられるほど平坦な道のりではあるまい。」

 八戒はいつも快楽を探してきょろきょろ動かしている瞳を伏せた。長い睫毛が影を落とす。この豚の瞳は意外なほど澄んで美しくあることに悟浄は初めて気がついた。

「俺は空腹の化け物なんだ。」

 と呟くと八戒はためらいもなく酒の入った杯ごと口に入れてぐおおりごおおりと噛み砕いた。思わずぎょっとして腰を浮かせる悟浄を、八戒は暗闇に満ちた目で見つめる。

「どんなに気持ちの良いことをしても、どんなに美味いものを食っても、喜びは瞬く間に終わる。俺の心と身体は満たされない。もっともっとと、いつも渇望する魂を抱えている。それが何を意味するかわかるか。」

 じりじりと燃える蝋燭の火が揺らめいた。

「餓鬼道だよ。際限のない餓えがこの身を滅ぼす。このまま突き進めば破滅しかない。わかってるんだが、溢れる欲は止めようがない。」

 ぐががごん、と大きな音を立てて、杯の最後を噛み砕き、八戒は飲み込んだ。

「お師匠様に付いて、天竺に行けばこの生地獄から救われるかもしれない。それだけだ。」 

 悟浄には答える言葉が見つからなかった。この豚は自分と同じだ。ただひたすらに一縷の望みを頼りにこの旅に懸けている。八戒は求不得苦の闇を抱えて享楽の儚さも知りながら、求道の道のりで可能な限りの快楽を追求する。その振舞いに哀れを感じこそすれ、非難などできようもはずもない。

「杯、食べてしまったな。」 

「美味くなかったけど、俺に食べられぬものなどないな。」

「酒はどうやって飲む。」 

「こうやってだ。いつも一人の時はこうしている。」
と、八戒は瓢箪に直接口をつけ、ぐびりぐびりと喉仏を大きく動かした。

 なるほど発酵が進んだのは兄者の唾液による効果もあるのかもしれぬ、と悟浄は考えた。





          •••          
 三蔵はくったりと悟空の肩に頭を寄せている。明らかに呑み過ぎであるが酔っ払いの常で自分の酩酊を認めぬ様子である。 

「悟空、もう一杯いれておくれ。あの冷やした酒を。」

「だめです、お師匠様。もう三杯呑みました。とっくに適量を超えてますよ。」

「悟空が冷やしてくれる酒は格別じゃ。なあ、こんなに頼んでおるのだから、一杯だけ。」

 三蔵は悟空の袖を掴んでその瞳をひっしと見つめる。三蔵の頬はたんと蒸かした桃饅頭のように紅く熱り、目と唇は微かに潤んでいる。悟空は情に流されそうになるのを必死に思いとどまった。

「そうだ、杏でも食べれば酔いも覚めてちょうど良い。悟空、剥いておくれ。」

 まるで幼児のようにぱんと手を叩きながら三蔵は思いついたままを言う。

「お師匠様、普段と随分違いますね。」

「どんなところがだ。申してみよ。」

「欲に素直というか……遠慮がないというか、いつもの慎み深さが聞いて呆れますよ。」

「素直な私は……駄目か。」

 見放されるのが怖いとでも言うように、悟空の袖に三蔵は両手で縋りつく。悟空は泡を食って肩を縮こめ、必死で肩を抱きたくなる衝動を抑えた。

「……いや、別に……。駄目、じゃないです。」

 悟空は行き場を失った手で杏の皮を剥き、三蔵の前に差し出した。 

「ふふふ、ありがとう、悟空。」

 ふいに、お釈迦様の手のひらでくるくる回っていた自分の姿が思い起こされるが、不思議と嫌な気分ではない。この柔らかい微笑みで礼を言ってくれれば千万の金にも値する気さえする。

 三蔵は瞳を伏せてゆっくりと杏を齧る。その口元から目が離せない。果汁を吸う舌にまるで吸い込まれそうな気さえしてくる。

 もきゅりもきゅりと頬を動かす三蔵はやはり悟空の肩に額を寄せる。もはや定位置と決めたようでもある。悟空は二の腕で三蔵の咀嚼を感じ、自分が三蔵の口の中の杏になった気分になっている。杏を呑み込んだ三蔵は徳利を持ち上げて言った。

「さあ、酔いも醒めたし、もう一杯だけ呑んでも良いな。」

「もうやめておきましょう。お師匠様。それよりも水を飲んだ方がいいです。」

 さすがに三蔵の身体が心配になった悟空は、三蔵の徳利を持つ手を抑えた。いやいやをするように首を振る三蔵から目を離せない。動けない。

 仕方がないので身外身の法を使って、分身に清らかな水を湯呑に汲んでこさせた。法術を使えない凡人はこういう時にどう対処しているのだろう、と悟空は心底不思議に思う。邪魔な分身をすぐ身に戻してから、三蔵の背を支えてその口元に湯呑を近づけた。

「さあ、飲んでください。後生ですから。」

 三蔵は薄桃色の唇でくすりと笑った。

「わかった。そのように怖い顔をせずとも良い。」

 素直に湯呑に口を付けた三蔵は、そのまま悟空の唇に自分のそれを押し付けた。悟空の口の中に冷水が流れ込んでくる。あまりの驚きに悟空はすぐにそれを飲み込んでしまった後、思わず唇を抑えた。

「お、し、師匠様……。あ、あの……。」

 三蔵は平気な顔で微笑んでいる。

「悟空も酒を飲んだのだ。お前も水を飲んだ方がいい。」

「でも、なぜ……。あの……。」

「一杯しかなかったから分けた。嫌だったのか?」

「いやっ、嫌じゃないですけど、あの、でも、心の準備というか、そういうのは気持ちの確認を経てからというか……。」

「ただの水の受け渡しだ。何を準備することがあろう。」

 酔っ払いには敵わないと白旗を上げた悟空は、心の内で誓った。 

(絶対にお師匠様に人前で酒を呑ませてはならない……。)





                       •••
 ゆらりと戸が開き、三蔵を横抱きに抱えながら部屋に入ってきた悟空と、机に食べかすを散らかしながら酒を酌み交わしていた悟浄と八戒は目が合った。

 八戒はあんぐりと口を開け、一瞬沈黙した後、ごでんと大きな音を立てて机に突っ伏して大いびきを立て始めた。どうやらたぬき寝入りを決め込むようだ。どう考えても宴会をしていたのは丸わかりであるのに、すっとぼけようとするその根性は悟浄には理解ができない。(が、羨ましくもある。)

 悟空はと言えば、いつもであれば八戒に説教のひとつも始めるところであるが、そのまま戸口で三蔵を抱えたまま狼狽えている。こちらも八戒に構っている心の余裕がないようだ。

「あ、あの、悟浄、これは別に、おれがお師匠様に無理に酒を勧めたとか、わざと酔い潰したとか、その隙に抱き抱えたとか、そんなんじゃねえからな。お師匠様が勝手に呑んで、勝手に潰れただけだ。外に放り出しておくわけにもいかねえから、寝床に運んでやってるだけで、別にしたくてしてるわけではねえし、別に良い匂いがするとか、赤くなってる頬が綺麗だとか、そういう理由で抱き締めてるわけじゃねえから。ただの運搬。そう、ただの移動。」 

 立て板に水のようにとめどなく説明を続けようとする悟空を、悟浄は手を挙げて制した。

「あの敬虔なお師匠様が酒など呑まれるはずがなかろう。拙者は見たことがない。兄者は読経に疲れて眠ってしまったお師匠様を寝台へと運んで差し上げるだけなのだな。」

 悟浄の助け舟に悟空はほっとしたように息をついた。

「そ、そうだな。そうだった。お師匠様が飲酒されるなんて、そんなわけねえよな。眠っちまうまで経を読むなんて、どんだけ真面目なんだよお師匠様は、なあ。」

 と悟空は言いながら、悟浄も目を丸くするほどゆっくりと三蔵を寝台に下ろし、丁寧に掛布を胸まで掛けてやった。

「さ、さあて、ちょっとおれは厠にでも行ってくるかな。」

 浮き足立ったままの足取りで悟空が外に出ていく。悟空の腰元を見てしばらく帰ってくるまい、と確信した悟浄は、瓢箪に残っていた酒を全て自分の杯に注ぎ込み、ふうと小さく息をついた。夜明けは近いかもしれない、と思った。

 


 



注1中国では一人酒はマナー違反で、誰かと誘い合って一緒に杯を空けるという風習がある。
注2中国では、敬意を表すために一気に杯を空にする「干杯」という風習があり、お互いにどの程度呑む確認しあってから呑む。ここで「随意」というのは自分のペースで少量ずつ呑むのですか、と悟空が三蔵に確認している。
注3前述の通り、一人酒は中国ではマナー違反だが、八戒はいつもは一人でこっそり呑んでいたのだからここでマナーを気にするのはおかしい。人好きなので、誰かと呑みたかった気持ちの照れ隠しと理解できる。



 
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