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四月二十八日(木)夜 ふじいし司法書士事務所③

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「藤石先生」

 押し殺したような、敬太の母親の声が聞こえてきた。

「はい」
「あなたを信用します。ですから、あなたが知っていることを全て教えて下さい」
「えっと、その前に確認です」

 藤石の声が真剣味を帯びた気がした。

「あなたの現在のご家族は、あなたと息子さん……敬太くんだけ、ですね」
「はい」

 そうですか、そう藤石の声が聞こえた。
 敬太の家庭に複雑な事情があるのは忠志も知っている。
 あの母親が、どういう経緯で藤石を知ったかわからないが、こうして、わざわざ訪ねて来たのには何か理由があるに違いない。

 敬太自身も知らないような話になるのではないか。
 そう思うと、忠志は書き込まずにはいられなかった。

 19:58 ニセ〉あの、僕は、ここにいて大丈夫ですか。
 19:58 ウサ〉やっぱり、不安かなぁ。ヘッドホン貸すから映画でも見てる?
 19:58 ニセ〉できれば、敬太のために、力にはなりたいのですが。
 19:59 シロ〉僕は、帰らせてあげたいくらいなんですけど。

 向かいの応接では、やり取りが続いている。

「先生、あの」
「はい」
「三田のことですが」
「あまり、良い人物じゃないと思いますよ。やっぱり」
「具体的には?」

 母親の声が少し苦しそうに思えた。
 しかし、藤石は相変わらずのらりくらりしている。

「俺の個人的感想なので、うかつには言えません。しかし、三田がよろしい人間じゃないと困る理由がありそうですね」

 しばらく沈黙が続いた。
 そして、敬太の母親が決心したような口調で言った。

「私は三田を愛しています。けれど、騙されている気がするのです」
「騙されている?穏やかじゃないですね」

 それに対する回答は聞こえてこなかった。

 再び沈黙が部屋を包んだ。

 三田という名前に忠志は考えを巡らせた。
 確か、敬太は元父親とは名字が違うと言っていた。

 ――例の……【元親父】が三田という名前なのかな。

 敬太はその父親を毛嫌いしているが、当の両親は互いにヨリを戻す予感があった。
 しかし、今の話を聞いて忠志は寒気がした。

 ――お母さん、今『騙されている』って言ったよな。

 藤石の言葉を待っていると、液晶画面が点滅した。

 20:01 フジ〉困ったぞ。すでに母ちゃん泣きそうだ。
 20:01 フジ〉さて、どうしたものか。偽マジメの情報も欲しいんだが、未成年に聞かせて平気だろうか。

 忠志は思わず向かいの応接の方を向いた。
 藤石の声だけが届く。

「いずれにしても、俺なりに調べた結果があなたにどういう意味合いをもたらすかはわかりません。真相は本人に聞くしかないです。吉と出るか凶と出るか、それで良いんですね?」
「大丈夫です」

 画面が点滅した。

 20:02 フジ〉おい、偽マジメ。お前、心はもう大人だよな?
 20:02 ウサ〉あのバカ書士のことは気にしないで良いよ。オンラインゲームでもする?

 確かに巻き込まれただけなのだ。
 そもそも役に立てる気もしない。
 とはいえ、この三人が責任を感じているのもよくわかった。
 敬太の母親が藤石を頼って来ている事情はわからないけれど、藤石が敬太の家を貶めるようなことをするはずはない。

 きっと、僕の家を救ってくれたように――。

 忠志は考えた末、ゆっくり入力した。

 20:03 ニセ〉ティラノさんのことを信じます。
 20:03 ニセ〉敬太のために僕が必要だと思ったから呼んだんでしょう?力になりたいです。
 20:04 シロ〉フジさん、僕もアフターケアには協力します。

 忠志は隣の白井を見つめた。
 暗闇の中でいつにもまして表情は読めなかったが、ゆっくり頷き返してくれた。

 画面が点滅する。

 20:04 フジ〉それより、シロップは昨日の密会で麗華さんと何があったか報告しろ。
 20:04 ウサ〉それよりアサトは、以下同文。

 藤石の咳払いが聞こえた。

「聖川さんは、そもそも三田という男がどんな人物かご存知なんですよね」
「な、何ですか。当たり前でしょう」
「なぜ、せっかく離婚した男と、わざわざ再婚したいのですか?」

 再び沈黙だ。
 敬太の母親の低い声が響いた。

「それを、誰から」
「息子さんが言ってました。幼いころに暴力を振るわれたことを今でも覚えているようです。名字も違う三田を一応は父親だと認識しているようですけど、だいぶ毛嫌いしていましたよ。ヨリを戻すのかどうか気になっているみたいです」
「敬太……」

 一言、そう聞こえただけだった。
 顔が見えないと、何もかも想像するしかない。

 敬太の母親は泣いているのだろうか。

「まあ、そのあたりはご家族で話し合ってください。俺にはメリットないですから」
「メリット?」
「はい。メリットがないことは頼まれてもしません。実は俺の狙いは別にあるんですよ」
「な、何ですか?」
「聖川さんはお気づきじゃないと思いますが、貴女は司法書士にとって、実はとても大きな仕事の伝手をお持ちなのです。いかがです?これまでの調査料は無料にしますから、お互いに情報交換ということで協力しませんか?」

 20:06 ウサ〉やっぱり、狙いはそこかい!この邪悪な一寸法師め!

「情報交換と言われましても、私には何も」

 敬太の母親が小声で言った。

「俺の質問に答えてくれるだけで良いです。わからないことはわからないで結構。ただ、こちらの情報も多く知りたいなら、頑張って話すことです」

 20:06 シロ〉本当に、すごいとしか言えないです。その歪んだ仕事意識。

 こちら二人の批判に対する書き込みはなかった。

 忠志は、藤石の人柄を充分に理解しているわけではなかったが、少なくとも今のやりとりを聞いて困っている人に対する態度とは思えなかった。
 けれど、どこか期待してしまうのは、きっと前例があるからだ。
 藤石にしたら不本意だったに違いないが、忠志は何度も助けられた。敬太や、他のゲーセン仲間も同じだ。

 いつの間にか心酔している。

「わかりました。先生、それでかまいません」

 敬太の母親が思いつめたような声で言った。

「では、さっそく」

 藤石の嬉しそうな声がした。

「三田という男は三田興産の代取、社長ですよね」
「はい」
「景気はいかがなものでしょうね」
「それは」

 敬太の母親が言葉を濁した。
 藤石が妙な声を出した。

「あれ、どうしました?大事なところですよ。再婚するかもしれない男の経済状況って気になりませんか?」

 しかし、敬太の母親は答えなかった。

「まあ良いでしょう。それでは俺からの情報提供です」

 藤石は本当に気にする様子もなく先を続けた。

「ダラダラ説明しても長くなるだけですから、結論から申し上げますよ。三田興産の景気は良くないです」
「えっ」
「その様子だと本当にご存知なかったのかな。あの会社はむしろ危ないといってもいい。今データを出しますね」

 それに合わせるように、おもむろに白井がノートパソコンの画面を操作し始めた。
 そこには何かの書類のような画面が映し出された。
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