41 / 49
四月二十七日(水)午後 喫茶店②
しおりを挟む
「これ以上、話すことはないわ」
事実だった。
白井は全部理解している。
――だから、最後まで言わせなかったし、私に謝ったのだ。
「僕から少し話をさせてもらえますか」
「どうぞ」
白井は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
テーブルに置かれたスマートホンに目をやり、一息つくと麗華を見つめた。
「三田は結婚しているそうですけれど」
「そうよ」
「本人がそう言っているのでしょうか」
「えぇ。私にはそう言ったわ。別れるとも言っていたけど、その本心なんかどうでも良いの。冷静に考えれば、あっちも今の生活を捨てるメリットなんかないんだから」
白井は再び下を向き、何やら考え込んだ。
麗華も冷め切ったコーヒーを口に含んだ。
苦味だけのただの液体だ。
白井はしばらく考え込んでいたが、ふいに顔を上げた。
「三田は、何が狙いで麗華さんに近づいたんでしょうね」
――。
この男は本当に言葉を飾るのが苦手なようだ。
あまりに率直過ぎて、麗華は苦笑した。
「どうして、白井さんは人の心をグサッと突き刺すのかしら」
「す、すみません」
慌てて白井が頭を下げた。
「あの、本当に申し訳ないです」
「いいのよ。気を遣われるより良い。嫌いじゃないわ」
白井の顔が、やや紅潮している。
「私に近づいた理由、ね。本人に聞くのが一番だろうけど、もう済んだことよ。案外、ホステスの金目当てだったのかもね。そんなに稼いでるわけでもないのに」
麗華の言葉に納得したのだろうか、白井も頷いた。
「それが一番わかりやすいです。しかし、それなら関係を続ける方が三田にとっては都合が良いはずです。離れた理由が何かあるはずなのですが、わかりませんね」
白井は片手で頭を抱えると、なおも何かを考え始めた。
その顔には悩んでいるとわかるような要素は何一つないが、もう片方の指がゆっくりテーブルを叩き出した。
白井は、麗華自身のことが気になると言ったが、それ以上にアヤメと三田のことを知りたがっているように思えてきた。
そんなことを聞いて、何をどうするつもりなのだ。
しかし、本当にもう話すことはない。
話を打ち切ろうとすると、白井がこちらに顔を向けた。
「麗華さん」
「何かしら」
「三田は、本当に結婚しているんでしょうか」
思わず呆気にとられた。しかし、白井は持論を続けた。
「ちゃんと婚姻関係の証拠は見せられました?あなたは結婚式にも出席していないと思いますし、ましてや婚姻届の証人にもなっていませんよね」
そして、麗華を見つめながら少しだけ首を傾けてみせた。
同調を求めているのか、困っているのかよくわからないが、何よりわからないのは、この男の考えていることだ。
麗華は白井と同様に首をかしげてみせた。
「白井さんが言う証拠とやらは確かに見ていないわ。でも、結婚していると言ったら、そうなんだって思うのが普通でしょう?指輪をしてない夫婦だってたくさんいるくらいなんだから」
「はあ。世間的にはそうですね。でも、信じる信じないは個人の勝手です」
意味がわからない。
麗華は白井の顔を見つめたが、何一つ読み取れない。
「三田は結婚していない、白井さんはそう思うの?」
「そういう場合もある、といった感じです」
「全然わからないわ。何が気になるの?」
あまりに突拍子もない展開に麗華も戸惑ったが、もしも三田が結婚していないのなら、自分はすでに騙されていたことになるではないか。
「はあ。あくまで推論ですが」
「いいわ。言ってちょうだい」
白井は腕時計に目を落とすと、ゆっくり麗華を見つめた。
「僕が思うに、女性が既婚男性相手に結婚を迫ることは、現実的には滅多に無いと思うのです」
「そうね。人によるだろうけど」
「唯一、結婚を迫るとしたら、考えられる理由は……おそらく一つです」
その言葉で、反射的に腹部を触れようとした麗華を白井が制した。
「……白井さん……」
「許してください。僕はこういう人間です。でも、あなたには立ち直って欲しいんです」
続けます、白井は言った。
「中には、愛人の立場である自分から身を引こうとする女性もいるでしょう。不倫は双方に責任があるのに、婚姻関係にある方が圧倒的に有利ですから」
ゆっくりと話が続けられる。
「そして、そういう良識があるのは、ある程度人生経験がある女性です。こういう言い方はあれですけど、年齢を重ねた自分に自信を失いかけていた時、優しい男性に大切にされたらやはり嬉しいものでしょう。そして物分りが良い大人の女性に徹しようと努めるのではないですか」
白井の言葉は痛烈だが、自分にも当てはまる。
若い女にはないもの、それが武器だと思っていた。
「三田は、麗華さんに結婚を申し出たたそうですが」
「そうよ」
「三田が既婚者だと知っている麗華さんは、結婚が簡単ではないことを理解していた。しかし、三田の気持ちを伝えられて信じて待つことにした。そして、あんなことが起きても、物分りの良いあなたは身を引こうとした。違いますか」
「――」
「もし、先に麗華さんが三田は結婚していないと知っていれば、彼があなたに結婚を迫ることはなかったでしょう。これは勘ですけど」
白井が深い息をついた。
「それだけ、愛人関係を続けていきたかったのかもしれないですね。目的が金なのかどうかは本人に聞くしかありませんが」
あくまで推論でしかない。
しかし、自分の胸に風穴を開けるには充分だった。
「白井さん、どうして三田は私を捨てたの」
この男に聞いてわかるはずはないのに――。
普通の愛人関係を求めていたのではないのか。
愛人に子供が出来れば、普通の男なら動揺し中絶を求めるものだと思っていた。
しかし、子供が出来たと話した時、予想に反して三田は心配するなと言ったのだ。それは離婚して籍を入れるか、認知してくれるかのいずれだと思っていた。
子宮筋腫の手術というデマを知って、態度を急変させた理由は何だ。中絶費用を騙し取るために嘘をついたと疑われたくらいだ。
子供などいない方が、遊びの付き合いは楽なのに。
なぜ私から離れていった。
本当に、狙いは何だったのだ。
身体が硬直してくる――。
「どうして、今もあの店に通ってくるのかしら。憎らしい私がいるのに」
「麗華さんがいるからではなく、アヤメさんがいるから、じゃないでしょうか」
ああ、そうか。
未だに心をとらわれているのは、私だけなのだ。
相手には、私への想いなど微塵もないのだ。
あの子にも――。
涙が溢れてくる。
明らかに狼狽した表情を浮かべて白井が謝った。
「す、すみません」
「違うの。良いのよ白井さん。ハッキリ言ってくれて良かったのよ」
「いや、でも」
「あの男は私が子宮筋腫の手術をしたと思い込んでいるんだもの。もう話を聞く耳も持ってくれなかった。その時に気づけば良かったわ。私の身体を何一つ心配してくれなかった男なんだから。妊娠を知って本当は焦ったんでしょうね。きっとその場を取り繕うことばかり考えていたんだわ」
こんなにおかしいのに、涙が止まらない。
愚かだ、私は。
再度、白井が水色のハンカチを差し出した。
「三田はあなたに一言もないのですか」
そう尋ねてきた。
「仕方ないのよ。私の入院は表向きは外科手術ってことになっているから。それが先に伝わってしまったの。本当は流産の手術だったのに、おかげで中絶費用を騙し取ろうとしたなどと守銭奴呼ばわりされたわ。それだけ酷いこと言われたから、私も諦めがついたと思っていたけど、ダメね。もうあまり考えたくないわ」
「手術」
そう一言だけ漏らすと、白井は再び顔をうつむかせた。
しかし、すぐさま顔を上げると、
「本当に、申し訳ありませんでした」
麗華を見つめた。
口元が引き結ばれて、苦しそうな顔に見える。
「結局、あなたに最後まで言わせてしまいました」
すみません、白井はもう一度謝った。
「いいのよ」
だって、これを聞いて欲しかったから、私はあの時――。
泣きそうになるのをこらえた。
「こんな話、聞かせてごめんなさいね」
この湿っぽい空気を吹き飛ばしたかった。
「何にしても、お話できることは全部話したわ。あとは本人に直接聞くのが早そうね。また、お店に来た時にでも、アヤメさんを指名してあげて」
無理に声を明るくしたのを白井は気づいたのだろうか。
ぎこちなく笑いながら、話を合わせてくれた。
「はあ、僕がそういうタイプじゃないのは、ご存知かと思いますが」
少し困った様子の白井に思わず笑ってしまった。
「本当に、あなたはただ連れて来られただけなのね」
「はあ。すみません」
白井はその後も何やら考え込むような素振りを見せたが、思い立ったようにイスを引いて立ち上がった。
「あの、そろそろ時間ですので」
もう窓から西日が差し込んできている。
麗華も慌てて立ち上がった。
「ごめんなさいお仕事中なのに」
「良いんです。こちらこそ何のお役にも立てずに……すみません」
さっさと白井は二人分の会計を済ませて店を出た。
地下から上るエレベーターは当分来そうになく、仕方なく二人は階段を使うことにした。
先を行く白井の足取りが、気のせいか少し重たいように思えた。
疲れのせいだけではない。何を考えているのだろう。
アヤメのことか。
三田のことか。
「白井さん」
麗華が声をかけると、白井は階段の途中で振り返った。
わずかに、前髪の間から切れ長の目がのぞいた。
黒目がちの、濡れたような瞳が弱々しく微笑んだ。
「ああ、良かった。いくぶん声が元気になりましたね」
もう大丈夫ですねと再び階段を上り始めた。
地上からの光が注ぐ。
どうしてこの人は、こう何度も心を揺さぶってくるのだ。
その声が――。
その瞳が――。
「まだよ。全然元気なんかじゃないわ」
「はあ、ダメですか」
白井はため息をついた。
「どうして、そんな声なの。あなたの声は」
「はあ。生まれつきですから」
麗華は階段を駆け上がった。
「あなたの声はね、聞いているだけで泣きそうになるのよ」
一段下に立つ男の頬に手を触れ、麗華はそのまま唇に口付けた。
硬直したままの白井を置き去りにし、麗華は春風舞う地上へ駆け出して行った。
事実だった。
白井は全部理解している。
――だから、最後まで言わせなかったし、私に謝ったのだ。
「僕から少し話をさせてもらえますか」
「どうぞ」
白井は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
テーブルに置かれたスマートホンに目をやり、一息つくと麗華を見つめた。
「三田は結婚しているそうですけれど」
「そうよ」
「本人がそう言っているのでしょうか」
「えぇ。私にはそう言ったわ。別れるとも言っていたけど、その本心なんかどうでも良いの。冷静に考えれば、あっちも今の生活を捨てるメリットなんかないんだから」
白井は再び下を向き、何やら考え込んだ。
麗華も冷め切ったコーヒーを口に含んだ。
苦味だけのただの液体だ。
白井はしばらく考え込んでいたが、ふいに顔を上げた。
「三田は、何が狙いで麗華さんに近づいたんでしょうね」
――。
この男は本当に言葉を飾るのが苦手なようだ。
あまりに率直過ぎて、麗華は苦笑した。
「どうして、白井さんは人の心をグサッと突き刺すのかしら」
「す、すみません」
慌てて白井が頭を下げた。
「あの、本当に申し訳ないです」
「いいのよ。気を遣われるより良い。嫌いじゃないわ」
白井の顔が、やや紅潮している。
「私に近づいた理由、ね。本人に聞くのが一番だろうけど、もう済んだことよ。案外、ホステスの金目当てだったのかもね。そんなに稼いでるわけでもないのに」
麗華の言葉に納得したのだろうか、白井も頷いた。
「それが一番わかりやすいです。しかし、それなら関係を続ける方が三田にとっては都合が良いはずです。離れた理由が何かあるはずなのですが、わかりませんね」
白井は片手で頭を抱えると、なおも何かを考え始めた。
その顔には悩んでいるとわかるような要素は何一つないが、もう片方の指がゆっくりテーブルを叩き出した。
白井は、麗華自身のことが気になると言ったが、それ以上にアヤメと三田のことを知りたがっているように思えてきた。
そんなことを聞いて、何をどうするつもりなのだ。
しかし、本当にもう話すことはない。
話を打ち切ろうとすると、白井がこちらに顔を向けた。
「麗華さん」
「何かしら」
「三田は、本当に結婚しているんでしょうか」
思わず呆気にとられた。しかし、白井は持論を続けた。
「ちゃんと婚姻関係の証拠は見せられました?あなたは結婚式にも出席していないと思いますし、ましてや婚姻届の証人にもなっていませんよね」
そして、麗華を見つめながら少しだけ首を傾けてみせた。
同調を求めているのか、困っているのかよくわからないが、何よりわからないのは、この男の考えていることだ。
麗華は白井と同様に首をかしげてみせた。
「白井さんが言う証拠とやらは確かに見ていないわ。でも、結婚していると言ったら、そうなんだって思うのが普通でしょう?指輪をしてない夫婦だってたくさんいるくらいなんだから」
「はあ。世間的にはそうですね。でも、信じる信じないは個人の勝手です」
意味がわからない。
麗華は白井の顔を見つめたが、何一つ読み取れない。
「三田は結婚していない、白井さんはそう思うの?」
「そういう場合もある、といった感じです」
「全然わからないわ。何が気になるの?」
あまりに突拍子もない展開に麗華も戸惑ったが、もしも三田が結婚していないのなら、自分はすでに騙されていたことになるではないか。
「はあ。あくまで推論ですが」
「いいわ。言ってちょうだい」
白井は腕時計に目を落とすと、ゆっくり麗華を見つめた。
「僕が思うに、女性が既婚男性相手に結婚を迫ることは、現実的には滅多に無いと思うのです」
「そうね。人によるだろうけど」
「唯一、結婚を迫るとしたら、考えられる理由は……おそらく一つです」
その言葉で、反射的に腹部を触れようとした麗華を白井が制した。
「……白井さん……」
「許してください。僕はこういう人間です。でも、あなたには立ち直って欲しいんです」
続けます、白井は言った。
「中には、愛人の立場である自分から身を引こうとする女性もいるでしょう。不倫は双方に責任があるのに、婚姻関係にある方が圧倒的に有利ですから」
ゆっくりと話が続けられる。
「そして、そういう良識があるのは、ある程度人生経験がある女性です。こういう言い方はあれですけど、年齢を重ねた自分に自信を失いかけていた時、優しい男性に大切にされたらやはり嬉しいものでしょう。そして物分りが良い大人の女性に徹しようと努めるのではないですか」
白井の言葉は痛烈だが、自分にも当てはまる。
若い女にはないもの、それが武器だと思っていた。
「三田は、麗華さんに結婚を申し出たたそうですが」
「そうよ」
「三田が既婚者だと知っている麗華さんは、結婚が簡単ではないことを理解していた。しかし、三田の気持ちを伝えられて信じて待つことにした。そして、あんなことが起きても、物分りの良いあなたは身を引こうとした。違いますか」
「――」
「もし、先に麗華さんが三田は結婚していないと知っていれば、彼があなたに結婚を迫ることはなかったでしょう。これは勘ですけど」
白井が深い息をついた。
「それだけ、愛人関係を続けていきたかったのかもしれないですね。目的が金なのかどうかは本人に聞くしかありませんが」
あくまで推論でしかない。
しかし、自分の胸に風穴を開けるには充分だった。
「白井さん、どうして三田は私を捨てたの」
この男に聞いてわかるはずはないのに――。
普通の愛人関係を求めていたのではないのか。
愛人に子供が出来れば、普通の男なら動揺し中絶を求めるものだと思っていた。
しかし、子供が出来たと話した時、予想に反して三田は心配するなと言ったのだ。それは離婚して籍を入れるか、認知してくれるかのいずれだと思っていた。
子宮筋腫の手術というデマを知って、態度を急変させた理由は何だ。中絶費用を騙し取るために嘘をついたと疑われたくらいだ。
子供などいない方が、遊びの付き合いは楽なのに。
なぜ私から離れていった。
本当に、狙いは何だったのだ。
身体が硬直してくる――。
「どうして、今もあの店に通ってくるのかしら。憎らしい私がいるのに」
「麗華さんがいるからではなく、アヤメさんがいるから、じゃないでしょうか」
ああ、そうか。
未だに心をとらわれているのは、私だけなのだ。
相手には、私への想いなど微塵もないのだ。
あの子にも――。
涙が溢れてくる。
明らかに狼狽した表情を浮かべて白井が謝った。
「す、すみません」
「違うの。良いのよ白井さん。ハッキリ言ってくれて良かったのよ」
「いや、でも」
「あの男は私が子宮筋腫の手術をしたと思い込んでいるんだもの。もう話を聞く耳も持ってくれなかった。その時に気づけば良かったわ。私の身体を何一つ心配してくれなかった男なんだから。妊娠を知って本当は焦ったんでしょうね。きっとその場を取り繕うことばかり考えていたんだわ」
こんなにおかしいのに、涙が止まらない。
愚かだ、私は。
再度、白井が水色のハンカチを差し出した。
「三田はあなたに一言もないのですか」
そう尋ねてきた。
「仕方ないのよ。私の入院は表向きは外科手術ってことになっているから。それが先に伝わってしまったの。本当は流産の手術だったのに、おかげで中絶費用を騙し取ろうとしたなどと守銭奴呼ばわりされたわ。それだけ酷いこと言われたから、私も諦めがついたと思っていたけど、ダメね。もうあまり考えたくないわ」
「手術」
そう一言だけ漏らすと、白井は再び顔をうつむかせた。
しかし、すぐさま顔を上げると、
「本当に、申し訳ありませんでした」
麗華を見つめた。
口元が引き結ばれて、苦しそうな顔に見える。
「結局、あなたに最後まで言わせてしまいました」
すみません、白井はもう一度謝った。
「いいのよ」
だって、これを聞いて欲しかったから、私はあの時――。
泣きそうになるのをこらえた。
「こんな話、聞かせてごめんなさいね」
この湿っぽい空気を吹き飛ばしたかった。
「何にしても、お話できることは全部話したわ。あとは本人に直接聞くのが早そうね。また、お店に来た時にでも、アヤメさんを指名してあげて」
無理に声を明るくしたのを白井は気づいたのだろうか。
ぎこちなく笑いながら、話を合わせてくれた。
「はあ、僕がそういうタイプじゃないのは、ご存知かと思いますが」
少し困った様子の白井に思わず笑ってしまった。
「本当に、あなたはただ連れて来られただけなのね」
「はあ。すみません」
白井はその後も何やら考え込むような素振りを見せたが、思い立ったようにイスを引いて立ち上がった。
「あの、そろそろ時間ですので」
もう窓から西日が差し込んできている。
麗華も慌てて立ち上がった。
「ごめんなさいお仕事中なのに」
「良いんです。こちらこそ何のお役にも立てずに……すみません」
さっさと白井は二人分の会計を済ませて店を出た。
地下から上るエレベーターは当分来そうになく、仕方なく二人は階段を使うことにした。
先を行く白井の足取りが、気のせいか少し重たいように思えた。
疲れのせいだけではない。何を考えているのだろう。
アヤメのことか。
三田のことか。
「白井さん」
麗華が声をかけると、白井は階段の途中で振り返った。
わずかに、前髪の間から切れ長の目がのぞいた。
黒目がちの、濡れたような瞳が弱々しく微笑んだ。
「ああ、良かった。いくぶん声が元気になりましたね」
もう大丈夫ですねと再び階段を上り始めた。
地上からの光が注ぐ。
どうしてこの人は、こう何度も心を揺さぶってくるのだ。
その声が――。
その瞳が――。
「まだよ。全然元気なんかじゃないわ」
「はあ、ダメですか」
白井はため息をついた。
「どうして、そんな声なの。あなたの声は」
「はあ。生まれつきですから」
麗華は階段を駆け上がった。
「あなたの声はね、聞いているだけで泣きそうになるのよ」
一段下に立つ男の頬に手を触れ、麗華はそのまま唇に口付けた。
硬直したままの白井を置き去りにし、麗華は春風舞う地上へ駆け出して行った。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説

高校生なのに娘ができちゃった!?
まったりさん
キャラ文芸
不思議な桜が咲く島に住む主人公のもとに、主人公の娘と名乗る妙な女が現われた。その女のせいで主人公の生活はめちゃくちゃ、最初は最悪だったが、段々と主人公の気持ちが変わっていって…!?
そうして、紅葉が桜に変わる頃、物語の幕は閉じる。
招く家
雲井咲穂(くもいさほ)
ホラー
その「家」に招かれると、決して逃げられない――。
仕事を辞めたばかりで先の見えない日々を送っていた谷山慶太は、大学時代の先輩・木村雄介の誘いで、心霊調査団「あやかし」の撮影サポート兼記録係としてバイトをすることになった。
初仕事の現場は、取り壊しを控えた一軒家。
依頼者はこの家のかつての住人――。
≪心霊調査団「あやかし」≫のファンだという依頼人は、ようやく決まった取り壊しの前に木村達に調査を依頼する。この家を、「本当に取り壊しても良いのかどうか」もう一度検討したいのだという――。
調査のため、慶太たちは家へ足を踏み入れるが、そこはただの空き家ではなかった。風呂場から聞こえる水音、扉の向こうから聞こえるかすかな吐息、窓を叩く手に、壁を爪で削る音。
次々と起きる「不可思議な現象」は、まるで彼らの訪れを待ち構えていたかのようだった。
軽い気持ちで引き受けた仕事のはずが、徐々に怪異が慶太達の精神を蝕み始める。
その「家」は、○△を招くという――。
※保険の為、R-15とさせていただいております。
※この物語は実話をベースに執筆したフィクションです。実際の場所、団体、個人名などは一切存在致しません。また、登場人物の名前、名称、性別なども変更しております。
※信じるか、信じないかは、読者様に委ねます。
ーーーーーーーーーーーー
02/09 ホラー14位 ありがとうございました!
02/08 ホラー19位 HOT30位 ありがとうございました!
02/07 ホラー20位 HOT49位 ありがとうございました!
02/06 ホラー21位 HOT81位 ありがとうございました!
02/05 ホラー21位 HOT83位 ありがとうございました!

日奉家夜ノ見町支部 怪異封印録
鯉々
キャラ文芸
古くより怪異を封じてきた日奉家。そんな一族の一人として活動を続ける日奉雅はある日、山に安置されていた祠から街を守護していた呪物が消失している事に気が付く。それを合図にする様に封じられていた怪異や異常存在達が各地で確認され始めた。
各地で怪異を封印するに連れて、雅は一族にまつわるある過去を知る事となる。それは全ての事件の始まりであり、日本や世界を巻き込む一大事件へと繋がっていく。

彼女のことは許さない
まるまる⭐️
恋愛
「彼女のことは許さない」 それが義父様が遺した最期の言葉でした…。
トラマール侯爵家の寄り子貴族であるガーネット伯爵家の令嬢アリエルは、投資の失敗で多額の負債を負い没落寸前の侯爵家に嫁いだ。両親からは反対されたが、アリエルは初恋の人である侯爵家嫡男ウィリアムが自分を選んでくれた事が嬉しかったのだ。だがウィリアムは手広く事業を展開する伯爵家の財力と、病に伏す義父の世話をする無償の働き手が欲しかっただけだった。侯爵夫人とは名ばかりの日々。それでもアリエルはずっと義父の世話をし、侯爵家の持つ多額の負債を返済する為に奔走した。いつかウィリアムが本当に自分を愛してくれる日が来ると信じて。
それなのに……。
負債を返し終えると、夫はいとも簡単にアリエルを裏切り離縁を迫った。元婚約者バネッサとよりを戻したのだ。
最初は離縁を拒んだアリエルだったが、彼女のお腹に夫の子が宿っていると知った時、侯爵家を去る事を決める…。
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
護堂先生と神様のごはん 護堂教授の霊界食堂
栗槙ひので
キャラ文芸
考古学者の護堂友和は、気が付くと死んでいた。
彼には死んだ時の記憶がなく、死神のリストにも名前が無かった。予定外に早く死んでしまった友和は、未だ修行が足りていないと、閻魔大王から特命を授かる。
それは、霊界で働く者達の食堂メニューを考える事と、自身の死の真相を探る事。活動しやすいように若返らせて貰う筈が、どういう訳か中学生の姿にまで戻ってしまう。
自分は何故死んだのか、神々を満足させる料理とはどんなものなのか。
食いしん坊の神様、幽霊の料理人、幽体離脱癖のある警察官に、御使の天狐、迷子の妖怪少年や河童まで現れて……風変わりな神や妖怪達と織りなす、霊界ファンタジー。
「護堂先生と神様のごはん」もう一つの物語。
2019.12.2 現代ファンタジー日別ランキング一位獲得
同窓会に行ったら、知らない人がとなりに座っていました
菱沼あゆ
キャラ文芸
「同窓会っていうか、クラス会なのに、知らない人が隣にいる……」
クラス会に参加しためぐるは、隣に座ったイケメンにまったく覚えがなく、動揺していた。
だが、みんなは彼と楽しそうに話している。
いや、この人、誰なんですか――っ!?
スランプ中の天才棋士VS元天才パティシエール。
「へえー、同窓会で再会したのがはじまりなの?」
「いや、そこで、初めて出会ったんですよ」
「同窓会なのに……?」
後宮の隠れ薬師は、ため息をつく~花果根茎に毒は有り~
絹乃
キャラ文芸
陸翠鈴(ルーツイリン)は年をごまかして、後宮の宮女となった。姉の仇を討つためだ。薬師なので薬草と毒の知識はある。だが翠鈴が後宮に潜りこんだことがばれては、仇が討てなくなる。翠鈴は目立たぬように司燈(しとう)の仕事をこなしていた。ある日、桃莉(タオリィ)公主に毒が盛られた。幼い公主を救うため、翠鈴は薬師として動く。力を貸してくれるのは、美貌の宦官である松光柳(ソンクアンリュウ)。翠鈴は苦しむ桃莉公主を助け、犯人を見つけ出す。※表紙はminatoさまのフリー素材をお借りしています。※中国の複数の王朝を参考にしているので、制度などはオリジナル設定となります。
※第7回キャラ文芸大賞、後宮賞を受賞しました。ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる