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四月二十七日(水)午後 喫茶店②
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「これ以上、話すことはないわ」
事実だった。
白井は全部理解している。
――だから、最後まで言わせなかったし、私に謝ったのだ。
「僕から少し話をさせてもらえますか」
「どうぞ」
白井は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
テーブルに置かれたスマートホンに目をやり、一息つくと麗華を見つめた。
「三田は結婚しているそうですけれど」
「そうよ」
「本人がそう言っているのでしょうか」
「えぇ。私にはそう言ったわ。別れるとも言っていたけど、その本心なんかどうでも良いの。冷静に考えれば、あっちも今の生活を捨てるメリットなんかないんだから」
白井は再び下を向き、何やら考え込んだ。
麗華も冷め切ったコーヒーを口に含んだ。
苦味だけのただの液体だ。
白井はしばらく考え込んでいたが、ふいに顔を上げた。
「三田は、何が狙いで麗華さんに近づいたんでしょうね」
――。
この男は本当に言葉を飾るのが苦手なようだ。
あまりに率直過ぎて、麗華は苦笑した。
「どうして、白井さんは人の心をグサッと突き刺すのかしら」
「す、すみません」
慌てて白井が頭を下げた。
「あの、本当に申し訳ないです」
「いいのよ。気を遣われるより良い。嫌いじゃないわ」
白井の顔が、やや紅潮している。
「私に近づいた理由、ね。本人に聞くのが一番だろうけど、もう済んだことよ。案外、ホステスの金目当てだったのかもね。そんなに稼いでるわけでもないのに」
麗華の言葉に納得したのだろうか、白井も頷いた。
「それが一番わかりやすいです。しかし、それなら関係を続ける方が三田にとっては都合が良いはずです。離れた理由が何かあるはずなのですが、わかりませんね」
白井は片手で頭を抱えると、なおも何かを考え始めた。
その顔には悩んでいるとわかるような要素は何一つないが、もう片方の指がゆっくりテーブルを叩き出した。
白井は、麗華自身のことが気になると言ったが、それ以上にアヤメと三田のことを知りたがっているように思えてきた。
そんなことを聞いて、何をどうするつもりなのだ。
しかし、本当にもう話すことはない。
話を打ち切ろうとすると、白井がこちらに顔を向けた。
「麗華さん」
「何かしら」
「三田は、本当に結婚しているんでしょうか」
思わず呆気にとられた。しかし、白井は持論を続けた。
「ちゃんと婚姻関係の証拠は見せられました?あなたは結婚式にも出席していないと思いますし、ましてや婚姻届の証人にもなっていませんよね」
そして、麗華を見つめながら少しだけ首を傾けてみせた。
同調を求めているのか、困っているのかよくわからないが、何よりわからないのは、この男の考えていることだ。
麗華は白井と同様に首をかしげてみせた。
「白井さんが言う証拠とやらは確かに見ていないわ。でも、結婚していると言ったら、そうなんだって思うのが普通でしょう?指輪をしてない夫婦だってたくさんいるくらいなんだから」
「はあ。世間的にはそうですね。でも、信じる信じないは個人の勝手です」
意味がわからない。
麗華は白井の顔を見つめたが、何一つ読み取れない。
「三田は結婚していない、白井さんはそう思うの?」
「そういう場合もある、といった感じです」
「全然わからないわ。何が気になるの?」
あまりに突拍子もない展開に麗華も戸惑ったが、もしも三田が結婚していないのなら、自分はすでに騙されていたことになるではないか。
「はあ。あくまで推論ですが」
「いいわ。言ってちょうだい」
白井は腕時計に目を落とすと、ゆっくり麗華を見つめた。
「僕が思うに、女性が既婚男性相手に結婚を迫ることは、現実的には滅多に無いと思うのです」
「そうね。人によるだろうけど」
「唯一、結婚を迫るとしたら、考えられる理由は……おそらく一つです」
その言葉で、反射的に腹部を触れようとした麗華を白井が制した。
「……白井さん……」
「許してください。僕はこういう人間です。でも、あなたには立ち直って欲しいんです」
続けます、白井は言った。
「中には、愛人の立場である自分から身を引こうとする女性もいるでしょう。不倫は双方に責任があるのに、婚姻関係にある方が圧倒的に有利ですから」
ゆっくりと話が続けられる。
「そして、そういう良識があるのは、ある程度人生経験がある女性です。こういう言い方はあれですけど、年齢を重ねた自分に自信を失いかけていた時、優しい男性に大切にされたらやはり嬉しいものでしょう。そして物分りが良い大人の女性に徹しようと努めるのではないですか」
白井の言葉は痛烈だが、自分にも当てはまる。
若い女にはないもの、それが武器だと思っていた。
「三田は、麗華さんに結婚を申し出たたそうですが」
「そうよ」
「三田が既婚者だと知っている麗華さんは、結婚が簡単ではないことを理解していた。しかし、三田の気持ちを伝えられて信じて待つことにした。そして、あんなことが起きても、物分りの良いあなたは身を引こうとした。違いますか」
「――」
「もし、先に麗華さんが三田は結婚していないと知っていれば、彼があなたに結婚を迫ることはなかったでしょう。これは勘ですけど」
白井が深い息をついた。
「それだけ、愛人関係を続けていきたかったのかもしれないですね。目的が金なのかどうかは本人に聞くしかありませんが」
あくまで推論でしかない。
しかし、自分の胸に風穴を開けるには充分だった。
「白井さん、どうして三田は私を捨てたの」
この男に聞いてわかるはずはないのに――。
普通の愛人関係を求めていたのではないのか。
愛人に子供が出来れば、普通の男なら動揺し中絶を求めるものだと思っていた。
しかし、子供が出来たと話した時、予想に反して三田は心配するなと言ったのだ。それは離婚して籍を入れるか、認知してくれるかのいずれだと思っていた。
子宮筋腫の手術というデマを知って、態度を急変させた理由は何だ。中絶費用を騙し取るために嘘をついたと疑われたくらいだ。
子供などいない方が、遊びの付き合いは楽なのに。
なぜ私から離れていった。
本当に、狙いは何だったのだ。
身体が硬直してくる――。
「どうして、今もあの店に通ってくるのかしら。憎らしい私がいるのに」
「麗華さんがいるからではなく、アヤメさんがいるから、じゃないでしょうか」
ああ、そうか。
未だに心をとらわれているのは、私だけなのだ。
相手には、私への想いなど微塵もないのだ。
あの子にも――。
涙が溢れてくる。
明らかに狼狽した表情を浮かべて白井が謝った。
「す、すみません」
「違うの。良いのよ白井さん。ハッキリ言ってくれて良かったのよ」
「いや、でも」
「あの男は私が子宮筋腫の手術をしたと思い込んでいるんだもの。もう話を聞く耳も持ってくれなかった。その時に気づけば良かったわ。私の身体を何一つ心配してくれなかった男なんだから。妊娠を知って本当は焦ったんでしょうね。きっとその場を取り繕うことばかり考えていたんだわ」
こんなにおかしいのに、涙が止まらない。
愚かだ、私は。
再度、白井が水色のハンカチを差し出した。
「三田はあなたに一言もないのですか」
そう尋ねてきた。
「仕方ないのよ。私の入院は表向きは外科手術ってことになっているから。それが先に伝わってしまったの。本当は流産の手術だったのに、おかげで中絶費用を騙し取ろうとしたなどと守銭奴呼ばわりされたわ。それだけ酷いこと言われたから、私も諦めがついたと思っていたけど、ダメね。もうあまり考えたくないわ」
「手術」
そう一言だけ漏らすと、白井は再び顔をうつむかせた。
しかし、すぐさま顔を上げると、
「本当に、申し訳ありませんでした」
麗華を見つめた。
口元が引き結ばれて、苦しそうな顔に見える。
「結局、あなたに最後まで言わせてしまいました」
すみません、白井はもう一度謝った。
「いいのよ」
だって、これを聞いて欲しかったから、私はあの時――。
泣きそうになるのをこらえた。
「こんな話、聞かせてごめんなさいね」
この湿っぽい空気を吹き飛ばしたかった。
「何にしても、お話できることは全部話したわ。あとは本人に直接聞くのが早そうね。また、お店に来た時にでも、アヤメさんを指名してあげて」
無理に声を明るくしたのを白井は気づいたのだろうか。
ぎこちなく笑いながら、話を合わせてくれた。
「はあ、僕がそういうタイプじゃないのは、ご存知かと思いますが」
少し困った様子の白井に思わず笑ってしまった。
「本当に、あなたはただ連れて来られただけなのね」
「はあ。すみません」
白井はその後も何やら考え込むような素振りを見せたが、思い立ったようにイスを引いて立ち上がった。
「あの、そろそろ時間ですので」
もう窓から西日が差し込んできている。
麗華も慌てて立ち上がった。
「ごめんなさいお仕事中なのに」
「良いんです。こちらこそ何のお役にも立てずに……すみません」
さっさと白井は二人分の会計を済ませて店を出た。
地下から上るエレベーターは当分来そうになく、仕方なく二人は階段を使うことにした。
先を行く白井の足取りが、気のせいか少し重たいように思えた。
疲れのせいだけではない。何を考えているのだろう。
アヤメのことか。
三田のことか。
「白井さん」
麗華が声をかけると、白井は階段の途中で振り返った。
わずかに、前髪の間から切れ長の目がのぞいた。
黒目がちの、濡れたような瞳が弱々しく微笑んだ。
「ああ、良かった。いくぶん声が元気になりましたね」
もう大丈夫ですねと再び階段を上り始めた。
地上からの光が注ぐ。
どうしてこの人は、こう何度も心を揺さぶってくるのだ。
その声が――。
その瞳が――。
「まだよ。全然元気なんかじゃないわ」
「はあ、ダメですか」
白井はため息をついた。
「どうして、そんな声なの。あなたの声は」
「はあ。生まれつきですから」
麗華は階段を駆け上がった。
「あなたの声はね、聞いているだけで泣きそうになるのよ」
一段下に立つ男の頬に手を触れ、麗華はそのまま唇に口付けた。
硬直したままの白井を置き去りにし、麗華は春風舞う地上へ駆け出して行った。
事実だった。
白井は全部理解している。
――だから、最後まで言わせなかったし、私に謝ったのだ。
「僕から少し話をさせてもらえますか」
「どうぞ」
白井は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
テーブルに置かれたスマートホンに目をやり、一息つくと麗華を見つめた。
「三田は結婚しているそうですけれど」
「そうよ」
「本人がそう言っているのでしょうか」
「えぇ。私にはそう言ったわ。別れるとも言っていたけど、その本心なんかどうでも良いの。冷静に考えれば、あっちも今の生活を捨てるメリットなんかないんだから」
白井は再び下を向き、何やら考え込んだ。
麗華も冷め切ったコーヒーを口に含んだ。
苦味だけのただの液体だ。
白井はしばらく考え込んでいたが、ふいに顔を上げた。
「三田は、何が狙いで麗華さんに近づいたんでしょうね」
――。
この男は本当に言葉を飾るのが苦手なようだ。
あまりに率直過ぎて、麗華は苦笑した。
「どうして、白井さんは人の心をグサッと突き刺すのかしら」
「す、すみません」
慌てて白井が頭を下げた。
「あの、本当に申し訳ないです」
「いいのよ。気を遣われるより良い。嫌いじゃないわ」
白井の顔が、やや紅潮している。
「私に近づいた理由、ね。本人に聞くのが一番だろうけど、もう済んだことよ。案外、ホステスの金目当てだったのかもね。そんなに稼いでるわけでもないのに」
麗華の言葉に納得したのだろうか、白井も頷いた。
「それが一番わかりやすいです。しかし、それなら関係を続ける方が三田にとっては都合が良いはずです。離れた理由が何かあるはずなのですが、わかりませんね」
白井は片手で頭を抱えると、なおも何かを考え始めた。
その顔には悩んでいるとわかるような要素は何一つないが、もう片方の指がゆっくりテーブルを叩き出した。
白井は、麗華自身のことが気になると言ったが、それ以上にアヤメと三田のことを知りたがっているように思えてきた。
そんなことを聞いて、何をどうするつもりなのだ。
しかし、本当にもう話すことはない。
話を打ち切ろうとすると、白井がこちらに顔を向けた。
「麗華さん」
「何かしら」
「三田は、本当に結婚しているんでしょうか」
思わず呆気にとられた。しかし、白井は持論を続けた。
「ちゃんと婚姻関係の証拠は見せられました?あなたは結婚式にも出席していないと思いますし、ましてや婚姻届の証人にもなっていませんよね」
そして、麗華を見つめながら少しだけ首を傾けてみせた。
同調を求めているのか、困っているのかよくわからないが、何よりわからないのは、この男の考えていることだ。
麗華は白井と同様に首をかしげてみせた。
「白井さんが言う証拠とやらは確かに見ていないわ。でも、結婚していると言ったら、そうなんだって思うのが普通でしょう?指輪をしてない夫婦だってたくさんいるくらいなんだから」
「はあ。世間的にはそうですね。でも、信じる信じないは個人の勝手です」
意味がわからない。
麗華は白井の顔を見つめたが、何一つ読み取れない。
「三田は結婚していない、白井さんはそう思うの?」
「そういう場合もある、といった感じです」
「全然わからないわ。何が気になるの?」
あまりに突拍子もない展開に麗華も戸惑ったが、もしも三田が結婚していないのなら、自分はすでに騙されていたことになるではないか。
「はあ。あくまで推論ですが」
「いいわ。言ってちょうだい」
白井は腕時計に目を落とすと、ゆっくり麗華を見つめた。
「僕が思うに、女性が既婚男性相手に結婚を迫ることは、現実的には滅多に無いと思うのです」
「そうね。人によるだろうけど」
「唯一、結婚を迫るとしたら、考えられる理由は……おそらく一つです」
その言葉で、反射的に腹部を触れようとした麗華を白井が制した。
「……白井さん……」
「許してください。僕はこういう人間です。でも、あなたには立ち直って欲しいんです」
続けます、白井は言った。
「中には、愛人の立場である自分から身を引こうとする女性もいるでしょう。不倫は双方に責任があるのに、婚姻関係にある方が圧倒的に有利ですから」
ゆっくりと話が続けられる。
「そして、そういう良識があるのは、ある程度人生経験がある女性です。こういう言い方はあれですけど、年齢を重ねた自分に自信を失いかけていた時、優しい男性に大切にされたらやはり嬉しいものでしょう。そして物分りが良い大人の女性に徹しようと努めるのではないですか」
白井の言葉は痛烈だが、自分にも当てはまる。
若い女にはないもの、それが武器だと思っていた。
「三田は、麗華さんに結婚を申し出たたそうですが」
「そうよ」
「三田が既婚者だと知っている麗華さんは、結婚が簡単ではないことを理解していた。しかし、三田の気持ちを伝えられて信じて待つことにした。そして、あんなことが起きても、物分りの良いあなたは身を引こうとした。違いますか」
「――」
「もし、先に麗華さんが三田は結婚していないと知っていれば、彼があなたに結婚を迫ることはなかったでしょう。これは勘ですけど」
白井が深い息をついた。
「それだけ、愛人関係を続けていきたかったのかもしれないですね。目的が金なのかどうかは本人に聞くしかありませんが」
あくまで推論でしかない。
しかし、自分の胸に風穴を開けるには充分だった。
「白井さん、どうして三田は私を捨てたの」
この男に聞いてわかるはずはないのに――。
普通の愛人関係を求めていたのではないのか。
愛人に子供が出来れば、普通の男なら動揺し中絶を求めるものだと思っていた。
しかし、子供が出来たと話した時、予想に反して三田は心配するなと言ったのだ。それは離婚して籍を入れるか、認知してくれるかのいずれだと思っていた。
子宮筋腫の手術というデマを知って、態度を急変させた理由は何だ。中絶費用を騙し取るために嘘をついたと疑われたくらいだ。
子供などいない方が、遊びの付き合いは楽なのに。
なぜ私から離れていった。
本当に、狙いは何だったのだ。
身体が硬直してくる――。
「どうして、今もあの店に通ってくるのかしら。憎らしい私がいるのに」
「麗華さんがいるからではなく、アヤメさんがいるから、じゃないでしょうか」
ああ、そうか。
未だに心をとらわれているのは、私だけなのだ。
相手には、私への想いなど微塵もないのだ。
あの子にも――。
涙が溢れてくる。
明らかに狼狽した表情を浮かべて白井が謝った。
「す、すみません」
「違うの。良いのよ白井さん。ハッキリ言ってくれて良かったのよ」
「いや、でも」
「あの男は私が子宮筋腫の手術をしたと思い込んでいるんだもの。もう話を聞く耳も持ってくれなかった。その時に気づけば良かったわ。私の身体を何一つ心配してくれなかった男なんだから。妊娠を知って本当は焦ったんでしょうね。きっとその場を取り繕うことばかり考えていたんだわ」
こんなにおかしいのに、涙が止まらない。
愚かだ、私は。
再度、白井が水色のハンカチを差し出した。
「三田はあなたに一言もないのですか」
そう尋ねてきた。
「仕方ないのよ。私の入院は表向きは外科手術ってことになっているから。それが先に伝わってしまったの。本当は流産の手術だったのに、おかげで中絶費用を騙し取ろうとしたなどと守銭奴呼ばわりされたわ。それだけ酷いこと言われたから、私も諦めがついたと思っていたけど、ダメね。もうあまり考えたくないわ」
「手術」
そう一言だけ漏らすと、白井は再び顔をうつむかせた。
しかし、すぐさま顔を上げると、
「本当に、申し訳ありませんでした」
麗華を見つめた。
口元が引き結ばれて、苦しそうな顔に見える。
「結局、あなたに最後まで言わせてしまいました」
すみません、白井はもう一度謝った。
「いいのよ」
だって、これを聞いて欲しかったから、私はあの時――。
泣きそうになるのをこらえた。
「こんな話、聞かせてごめんなさいね」
この湿っぽい空気を吹き飛ばしたかった。
「何にしても、お話できることは全部話したわ。あとは本人に直接聞くのが早そうね。また、お店に来た時にでも、アヤメさんを指名してあげて」
無理に声を明るくしたのを白井は気づいたのだろうか。
ぎこちなく笑いながら、話を合わせてくれた。
「はあ、僕がそういうタイプじゃないのは、ご存知かと思いますが」
少し困った様子の白井に思わず笑ってしまった。
「本当に、あなたはただ連れて来られただけなのね」
「はあ。すみません」
白井はその後も何やら考え込むような素振りを見せたが、思い立ったようにイスを引いて立ち上がった。
「あの、そろそろ時間ですので」
もう窓から西日が差し込んできている。
麗華も慌てて立ち上がった。
「ごめんなさいお仕事中なのに」
「良いんです。こちらこそ何のお役にも立てずに……すみません」
さっさと白井は二人分の会計を済ませて店を出た。
地下から上るエレベーターは当分来そうになく、仕方なく二人は階段を使うことにした。
先を行く白井の足取りが、気のせいか少し重たいように思えた。
疲れのせいだけではない。何を考えているのだろう。
アヤメのことか。
三田のことか。
「白井さん」
麗華が声をかけると、白井は階段の途中で振り返った。
わずかに、前髪の間から切れ長の目がのぞいた。
黒目がちの、濡れたような瞳が弱々しく微笑んだ。
「ああ、良かった。いくぶん声が元気になりましたね」
もう大丈夫ですねと再び階段を上り始めた。
地上からの光が注ぐ。
どうしてこの人は、こう何度も心を揺さぶってくるのだ。
その声が――。
その瞳が――。
「まだよ。全然元気なんかじゃないわ」
「はあ、ダメですか」
白井はため息をついた。
「どうして、そんな声なの。あなたの声は」
「はあ。生まれつきですから」
麗華は階段を駆け上がった。
「あなたの声はね、聞いているだけで泣きそうになるのよ」
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