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四月二十七日(水)昼 源氏山ハイキングコース

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「お待たせ。じゃあ、行こうか」

 しかし、宇佐見は車に乗り込もうとしない。
 手招きをされて、菜々美も車の外に出た。

「行くってどこに?」
「さぁ、どこでしょう」

 宇佐見は車をロックした。そして菜々美を振り返り一度だけ微笑むと大股で歩き始めた。

「ま、待ってよ」

 宇佐見は普通に歩いているつもりだろうが、そのストライドの大きさに菜々美は小走りになってしまう。

「ああ、そうかそうか。よしよし」

 宇佐見は少し歩幅を小さくした。それでも菜々美は何とかついていけるくらいだった。

「本当にどこ行くの?」
「お散歩だよ。特に場所は決めてない」

 宇佐見はどんどん歩いていく。
 場所を決めていないと言いながら、道に迷う気配もない。
 感覚で歩いているのだろうか。

 菜々美は不安になってきた。
 なぜなら、だんだん人気がない方へ向かっている気がしたからだ。

 ついには、坂道になり始めた。

 宇佐見が振り返り、菜々美がついてくるのを待った。

「よし、リスカちゃんはスニーカー履いてるね。じゃあこっち」

 方向を変えた先は、同じような道であったが、途中から明らかに様相が変わっていた。

 見上げれば、うっそうとした木々が取り囲んでいる。

「待って、無理」
「どうして?」
「どうしてって。私、体力ないもの」

 たどり着いたのは、もはや完全な山道への入り口だった。

 よりによって、なぜ山なのだ。

「海が良かった」
「さっき見たでしょ」
「そうじゃなくて」
「海で泳ぐにはまだ寒いじゃん」

 宇佐見は笑った。

「大丈夫だよ。リスカちゃんはフルートやってたんでしょ?肺活量あるんだから、こんな小山なんて楽勝だって」
「そういう問題じゃないし」

 菜々美は苛立たしくなって、声を荒らげた。
 それでも宇佐見は笑みを浮かべている。

「大丈夫なのになあ。オレは行くよ。そこで待ってる?」

 そう言うと宇佐見は軽快な足取りで登山道に入って行った。

「ちょっと!」
「平気だって、おいでよ」

 宇佐見が振り返る。
 そして菜々美が立ち尽くすその横を、何事かと視線を向けながら高齢の女性二人が通り過ぎ、宇佐美の先にある登山道へ入って行った。

「ホラね。あんなオバサンたちでも行けちゃうんだから」

 宇佐見は菜々美の元まで戻ると右手を掴んだ。

「しょうがない甘えん坊だなあ。貴公子のエスコートが必要?」

 甘えん坊と言われ、菜々美は無性に腹が立った。
 宇佐見の顔を睨みつけ、掴まれた腕を振りほどいた。

「ほんと、ウザい」

 菜々美は苛立ちながら登山道へ歩いて行った。


 春の木漏れ日が地面を照らす。
 どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。
 少し後ろを振り返れば、遅咲きの桜がピンク色の綿毛のように遠くに広がっていた。

 そして前を向けば宇佐見が歩いている。

 菜々美は途中の大木に手をついて止まった。

 宇佐見が声をかけてきた。

「いやあ、これはビックリだよ。もっと歩きやすいのかと思ったけど普通に山道だったね。リスカちゃん大丈夫?」

 ――今さら何を言ってるの。

 怒りに任せて登ってきた。

 先に入って行った高齢女性が座り込んでいたのを、ついさっき追い抜いてきたが、途中から菜々美の身体も正直な悲鳴を上げ始めた。

 一方、宇佐見は元気だ。
 時々、スマートホンをいじりながら菜々美を待っている。

 さすがに立てなくなった姿を案じてか、せっかく登ったのに、菜々美の元まで降りてきて言った。

「これはウサちゃんのミステイクだったねえ。歩ける?」

 宇佐見が鞄から水を取り出して菜々美に渡した。

 一口飲んで、宇佐見に返す。
 その手を掴んで宇佐見は笑った。

「さあ、行こうか」

 菜々美のショルダーバッグを肩に担ぎ宇佐見は手を引っ張った。
 少しだけ身体が軽く感じた。
 けれども。

「先に行って」

 菜々美は座り込んだ。

「立てそうにない」

 山の上からは下山してくるグループが次々とやって来る。
 その内の何人かが、菜々美に向かって声をかけてきた。

「ホラ頑張れ、頑張れ」

 なぜか、それに少し腹が立った。

 他人事だと思って――。

 その時だった。

 肩で息をする菜々美の身体がいきなり宙に浮いた。

「きゃあ!」

 頭上にあった木の枝が頭を叩いた。
 その隙間から木漏れ日が顔を照らす。

 すれ違う登山客が驚いた顔で見上げていたが、次の瞬間、一斉に大笑いした。

 宇佐見に抱き上げられた菜々美は激しく抵抗した。

「離してよ!は、恥ずかしいじゃないの!」
「いやいや、さすがのウサちゃんも責任感じているのよ。これはオレが悪かった。いや面目ない。これはお詫びでーす。さあ、頂上を目指すよ!」

 宇佐見はそのまま再び登山道を登り始めた。

 しかも全速力で。

「いやーっ!ちょっと、待って、本当に」

 すごい速さで木々が後ろに流れていく。
 カップルに笑われる。

「止まってよっ!ウサちゃん!」

 宇佐見が足を止めた。
 さすがに息切れしている。

「と、年だなあ。昔だったら女の子二人は余裕だったのに」

 物悲しい声が聞こえた。

「お願いだから、下ろしてってば」

 ようやく解放されると、菜々美は息切れをする大男の鞄から水を取り出した。
 すると、宇佐見がニヤニヤ笑った。

「あれ、何だい。立てそうにないとか言って、リスカちゃん自分で立てるじゃん」

 菜々美はようやく気づいた。

 ――コイツ。

 はめられた。

 菜々美は宇佐見にペットボトルを投げつけたが、難なくキャッチされた。

「……」

 怒りのあまり、言葉もない。菜々美はさっさと歩き出した。
 宇佐見が嬉しそうに追いついてくる。

「いやいや、お供しますよ姫様。引きこもりの身体には、この道は険しく危のうございますよ」
「ウザい。ついて来ないでよ!」
「そうですか、じゃあお先に」

 宇佐見は再び全速力で走り出すと、追い抜き様に菜々美の尻を叩いた。

「ちょ、マジありえないッ!」

 菜々美も怒りと羞恥で駆け出した。

 すると、すれ違った若い女性の登山客が笑いながら声をかけてきた。

「お元気ねえ。こんにちはあ」

 その優しい声に菜々美は立ち止まった。
 女性はそのまま下を目指して歩いていく。
 すぐさま、今度は老夫婦が下りてきた。

「こんにちは、良い天気ですねえ」
「上の方には野生のリスがいますよ」

 にこやかに菜々美に挨拶をした。

「……こんにちは」

 かろうじて小さい声で返すと、老夫婦は会釈をしながら去って行った。

 その後も。
 その後も。

 挨拶されるたびに菜々美は会釈をし、歩みを止めた。

 山道の先で宇佐見が待っている。その横を登山客が通り過ぎるとやはり宇佐見も会釈をした。若い女性の集団に対しては互いにハイタッチをしてふざけ合っている。

 菜々美が宇佐見の隣に到着すると、再び二人は並んで歩き始めた。

「どうして、みんな私に声かけるんだろう。他人なのに」

 菜々美がつぶやくと、宇佐見は菜々美の頭に手を置いた。

「リスカちゃんはすれ違った人がどんな感じだったか覚えてるかい?」
「……若い女の人と、おじいさんおばあさん。子連れの人もいた、かな」

 素晴らしいねえと宇佐見が感嘆の声を上げた。

「挨拶するには、ちゃんと理由があってね。例えばさ、その若い女の人が、この源氏山で遭難して連絡が取れなくなったとしても、その女の人とリスカちゃんがすれ違ったポイントまでは無事だったことがわかるよね?しかも、下山していたなら、そのポイントより麓に近いところで見つかる可能性があるわけだ。わかるかな?」

 菜々美は最初に声をかけてくれた女性を思い出した。
 ショートカットで白いパーカーを着ていた。

「生きたマナーとはこのことだね。今すれ違って来た人たちは、みんなリスカちゃんとイケメンの顔を覚えていってくれたわけよ。何かあった時はお互い様ってね。まあ、この程度の山じゃあ遭難することあまりないかもだけどさ」

 宇佐見の歩幅が大きくなった。

 青空が開けて、広い場所に出た。
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