23 / 49
四月二十四日(日)夜 パブ・ホルン
しおりを挟む
「キャーッ!ウサちゃんじゃないのお」
「嬉しい!来てくれたんだあ」
数人のホステス達が宇佐見を取り囲んだ。
「相変わらず、ホルンのアラフォーさん達は綺麗だねえ。えいえい」
宇佐見に腰を突っつかれた一人が甲高い声を上げる。その輪の中をホステスの麗華は静かに入って行く。
「ウサちゃん、こんばんは」
「おお。麗華ちゃんじゃないか。もう良くなったの?」
麗華は宇佐見に頭を下げた。
「おかげさまで。心配かけちゃってごめんなさい」
「手術もしたんだっけか。大変だったねえ」
下げた頭を宇佐見に軽くなでられた。
「よしよし、快気祝いだ。いこうか」
「はい」
宇佐見に肩を抱かれながら、麗華は奥の席に案内した。
麗華は四十歳である。
ここで働くホステスは全員が同年代で、それが売りでもあった。多くがシングルマザー、または離婚暦のある女性である。その中でも麗華はそこそこ指名の多いホステスだったが、数ヶ月前に入院をしてしばらく店を離れていた。オーナーが親切な男で、麗華のために復帰の機会を与えると約束してくれたものの、回復まで思いのほか時間がかかってしまった。
身体はすぐに良くなったが、精神的なものの方がひどかった。
表向きには婦人科系の病気ということになっているはずだ。
実際は大いに違った。
麗華は客の一人と親しくなり、男女の関係になった。店の決まりではルール違反な上に、こともあろうか、麗華は妊娠してしまったのだ。産むか下ろすか迷った。客の男は結婚しており、軌道に乗った仕事もあるのだ。身を引くべきだとわかっていながらも麗華は腹の中の命に対して日に日に想いが強くなった。
ただ、伝えたかった。責任を取らせるつもりなど毛頭ない。一人で産み育てることも覚悟している。ただ、子の存在を知って欲しい、それだけだった。
男は微笑んで、心配するなと言った。
そして申し訳なさそうに、何とかすると言った。
それが嬉しかったのに。
麗華は今でも自分の下腹部を押さえる癖が治らない。
わずか七週で流産した。
自分の腹の中で失われた命のことを受け入れるには時間が必要だった。
男にも連絡をしたが、店の誰かから子宮筋腫だったという情報が先に伝わっていた。
――嘘をついたな。
――本当は中絶費用を騙し取ろうとしたんじゃないのか。
何度も否定した。しかし男が聞き入れることはなかった。結局、その方が好都合だったからだろう。
麗華は退院後も自宅で療養していたが、神経症にまでなった。それでも何とか復帰して、事情を知らない仲間達も温かく迎えてくれた。ところが、自分が店を離れている間に新しいホステスも増えていた。やたらライバル心を向けてくる者もおり、今この瞬間も、数人のホステスから刺々しい視線を浴びたことにも麗華は気づいていた。
しかし、そんなことは大したことではない。
自分の胸を締め付けている存在は別にある。
今日も姿を見せるのだろうか――。
「若い子も元気があって可愛いけど、大人の女性は落ち着いた色気が良いよねえ。はい、それじゃあ乾杯!」
宇佐見の声で我に返った。
麗華は取り繕うように宇佐見とグラスを合わせ、彫りの深い顔立ちを眺める。
確か自分より十歳は年下だが、まったくそうは思えなかった。この安心感は何だろう。姿形のせいだけではない。今までも何度か会話を重ねてきたが、決して順風満帆とはいえない麗華の生き方を尊重してくれた。おべっかではない言葉に勇気が持てた。宇佐見が会いに来てくれるから、この仕事を続けていられるのかもしれない。恋愛感情とは違う、不思議な気持ちだ。
宇佐見との会話が弾んできた時、麗華の身体が瞬時に強張った。
視界に入ってきたあの女。
こちらを一瞥した気がした。わざと気づいていないように、麗華は視線を落とす。
ノルマはおろか、システムにもないのに、同伴のように連れてきたのは――あの男。
あの男。
私のことなど一人の遊び相手にしか過ぎなかったのはわかっている。
けれど、あの日まで腹にいた命は間違いなくお前の子供なのに。
「ん、どうしたの?」
宇佐見が顔をのぞきこむ。
「うぅん。平気」
麗華はグラスに口をつける。
「平気って顔じゃないねえ。ホラ、ここに思いっきり皺を寄せるからファンデーション崩れちゃったよ」
宇佐見が自分の眉間を突いた。慌てて麗華は自分の目元に手を触れる。
「イヒヒ、冗談だよ」
子供のようにハシャぐ宇佐見を軽く叩いた。けれど同時に申し訳ない気持ちになった。
また心配かけている。
表情に出やすいのは自覚していたが、よりによって客の前で何という振る舞いだ。
麗華はどうにか心を平静に保ち、宇佐見に微笑みかけた。
「もっと何か飲まない?」
「飲もう飲もう」
麗華がオーダーを入れると、急に宇佐見が顔を近づけてきた。柔らかい髪の毛が頬に触れた。
「ねえ、麗華ちゃん。あの子は新しい人?ずいぶん若いみたいだけど」
宇佐見が指をさした先で、あの女が男と笑っていた。
無理矢理に心を落ち着ける。
「あ、ああ。そうなの。私が入院中に新しく入ってきたみたいで」
「へえ、アラフォーには見えないねえ。あの堂々とした感じも新人らしからぬ雰囲気があるし。経験者なのかな」
「どうかしら。でも年齢は私と変わらないくらいだと思うわ」
麗華はその隣にいる客を見つめた。
――どうして、私の前で楽しそうな顔ができるの。
「麗華さあん」
振り向くと後輩のリナが隣に座ってきた。
「どうしたの?」
「私もご一緒します」
「こっちは大丈夫よ?」
「いいの!こんばんは宇佐見さん」
こんばんはぁと宇佐見がグラスを軽く持ち上げた。
リナは麗華が以前から面倒を見ている新人のホステスだった。新人といっても、三十五歳で離婚歴もある。しょっちゅう失敗をして、その度に麗華は手を焼いてきたが、入院当時は頻繁に見舞いに来るなど、その優しい性格が麗華は好きだった。
リナは意味ありげにため息をついた。
「それにしても、アヤメさんとあの常連サマ、いつまで続くんでしょうねえ」
アヤメとはあの女の源氏名だ。
暗い気持ちになってきた。
「誰だれ?アヤメって」
宇佐見が興味深そうに聞いてきた。
「ウサちゃんも気になってる、あの若作りのホステスさんよ」
宇佐見が再度アヤメの姿を確認すると、
「いつまで続くって、男に金があるうちは遊び通すでしょう。オレが落とす前に、アヤメちゃんが落ちちゃうかなあ」
残念そうに口を突き出した。
「あの男、あれだけ麗華さんに一生懸命だったのに、ひどいですよね」
「仕方ないわよ。ブランクがあり過ぎたもの。店を離れていかなかっただけでもアヤメさんには感謝しなきゃ」
嘘だ。
自分の口から出た言葉に吐き気がした。
いっそのこと目の前から消えて欲しいくらいなのに。
「私、アヤメさん嫌い。何かツンツンしてるっていうか、冷たいっていうか。バックルームでイライラしている感じが苦手」
「リナちゃん。お客様の前でしょ」
リナがふてくされた。この子は本当に素直だ。それが心配でもあるのだが。しかし、かえって宇佐見の興味を引いたようで、異国顔の男はリナに顔を寄せた。
「何それ?アヤメちゃん嫌われキャラなの?麗華ちゃんともワケありってこと?」
「あくまで噂なんですけど、あの二人、どうも本格的に恋仲らしいんですよ。うちは、普通のキャバクラみたいなガチガチのシステムがあるわけじゃないですけど、さすがにお客さんとの恋愛はアウトなんですよ。しかも、あの常連サマは結婚してるんですって。てゆーか、世間的にも不倫はアウトでしょ?でも、アヤメさんは、アラフォーに見えないスタイルとお顔でしょ?オーナーも客が取れるからってチヤホヤしちゃってさ。それで調子乗って何かとツンツンしているところがムカつくんです」
へえと宇佐見が再度アヤメの姿を確認した。
「それで、あの男は麗華ちゃんから乗り換えてアヤメちゃんの客になったのかあ」
胸が締め付けられた。
思わず下を向いてしまった。
「ん、麗華ちゃんも未練があるのかい?」
つい、上目遣いで宇佐見を睨む。
「そんなわけないでしょ。仕事なんだから」
うんうんと意味不明に宇佐見はうなずいた。
「それでリナちゃん。あのニヤニヤした常連男は何屋さんなの?」
「詳しくは知らないですけど、金持ちなのは確かです。一度、銀行で見かけたことありますしね」
「何、強盗でもしていたの?そりゃ大金持ってるはずだ」
リナが大笑いした。
「面白いなあ宇佐見さん。そうだったら新聞に載りますよ。私、昼間は契約社員で銀行のロビーでクレジットカードの案内とか時々やってるんです。ちょっと前に、その店の奥にあるブース室から出てくるアイツを見ました。やたら偉そうでしたね。みんな頭を下げるし」
宇佐見はあご髭に手を添えて、何か考えだした。
「銀行員……なのかなあ。いや、違うか」
「ただの金持ち客ですよ。いっぱい貯金しているから行員もヘーコラするんですよ。でも、金があるなら、もっと高い店に行きゃ良いと思いません?」
さすがに麗華はリナを諌めた。少し声が大きいことに気づいたらしく、リナは途中からボソボソした声になった。
通ってくる客の生活など興味はない――本来はそうあるべきなのに、麗華はあの一件以来、知る必要のない男の生活を想像しては自分と相手を呪った。
――産んで良いと言ってくれた。
――もしかしたら、結婚も考えてくれていたのではないか。
――そんなにお金があるなら、女房に払う慰謝料だって困らないはずだ。
もう、何の意味もない。グラスを掴む手に力が入った。
「おかわりっ」
宇佐見が隣で陽気に声を上げた。
「実際どんなヤツなんだろうね。金持ちって、もっと金銀財宝でギラギラしてると思ったけど、何か爽やかに遊びを楽しんでいる男だよねえ。まあ、オレの方がカッコいいけど」
そう笑いながら、宇佐見は麗華の肩を抱いた。
温かい。
「ねえ、リナちゃん。あのニヤつき男はいつも銀行に来るの?」
「さあ私も毎日出ているわけじゃないから。周りの人とかに今度聞いてみます」
ヨロシクね、宇佐見はリナに連絡先を渡した。
「宇佐見さん、今度は私も指名してくださいよ」
「ここって、本指名とか場内指名とかシステムあったっけ?ボーイくんもいないのに」
「ないのが売りです。けど、裏対応オッケーなんです。指名入ると、オーナーからご褒美もらえるくらいかなあ。若い子相手に派手にお金使って遊びたい人は、そもそも来ない店ですしね」
ちょうどそこへ、リナは他のテーブルに呼ばれ、名残惜しそうに離れて行った。
「ウサちゃん、アヤメさんたちの何がそんなに気になるの?」
麗華は宇佐見の彫の深い横顔を見つめた。
リナにあの男の身辺調査の真似をさせるなど、どうしたというのだ。
異国顔の男は微笑んだ。
「よしよし、もうこの話は終わり」
「待ってよ」
「麗華ちゃん」
薄い茶色の目に見つめられる。
「違うでしょ。気になっているのはアナタでしょ」
「そんなこと――」
宇佐見は首を横に振った。
「オレは麗華ちゃんが入院している間も、この店によく来たけど、あの男以外の常連客も麗華ちゃんから他のホステスに乗り換えてベッタリしてるのよ。そいつらのことは何とも思ってないのにさ。何が違う?」
「だから、気にしてなんかないってば」
「だったら、どうしてアヤメちゃんに敵意を向けるの?」
麗華は自分が動揺しているのがわかった。
「……敵意って」
「さっきアヤメちゃんのこと若作りって言ったでしょ。褒め言葉じゃないどころか完全にライバル視してるじゃん」
思わず口をつぐむ。構わず宇佐見は続けた。
「仲間内で競争するのは良いことだと思うし、そもそもこの世界じゃ当たり前だからね。オレの気にしすぎかもしれないけどさ、この話の最中で麗華ちゃんはまるで笑わないんだもん」
麗華はうつむいた。そんなつもりはなかったのに、宇佐見には見抜かれていた。
だめだ、知られたくない。
私の中では、終わった話なのだから。
「あの男が好きなの?」
背中が冷たくなった。
宇佐見はニコニコ笑っている。
「冗談じゃないわよ」
麗華は宇佐見から目をそらした。
そらした先に、あの男の姿を見つけてしまった。
仕方なくまた下を向いた。
その後の会話は途切れた。
それでも宇佐見は麗華の肩を離すことなく、静かに酒を飲んでいた。
「嬉しい!来てくれたんだあ」
数人のホステス達が宇佐見を取り囲んだ。
「相変わらず、ホルンのアラフォーさん達は綺麗だねえ。えいえい」
宇佐見に腰を突っつかれた一人が甲高い声を上げる。その輪の中をホステスの麗華は静かに入って行く。
「ウサちゃん、こんばんは」
「おお。麗華ちゃんじゃないか。もう良くなったの?」
麗華は宇佐見に頭を下げた。
「おかげさまで。心配かけちゃってごめんなさい」
「手術もしたんだっけか。大変だったねえ」
下げた頭を宇佐見に軽くなでられた。
「よしよし、快気祝いだ。いこうか」
「はい」
宇佐見に肩を抱かれながら、麗華は奥の席に案内した。
麗華は四十歳である。
ここで働くホステスは全員が同年代で、それが売りでもあった。多くがシングルマザー、または離婚暦のある女性である。その中でも麗華はそこそこ指名の多いホステスだったが、数ヶ月前に入院をしてしばらく店を離れていた。オーナーが親切な男で、麗華のために復帰の機会を与えると約束してくれたものの、回復まで思いのほか時間がかかってしまった。
身体はすぐに良くなったが、精神的なものの方がひどかった。
表向きには婦人科系の病気ということになっているはずだ。
実際は大いに違った。
麗華は客の一人と親しくなり、男女の関係になった。店の決まりではルール違反な上に、こともあろうか、麗華は妊娠してしまったのだ。産むか下ろすか迷った。客の男は結婚しており、軌道に乗った仕事もあるのだ。身を引くべきだとわかっていながらも麗華は腹の中の命に対して日に日に想いが強くなった。
ただ、伝えたかった。責任を取らせるつもりなど毛頭ない。一人で産み育てることも覚悟している。ただ、子の存在を知って欲しい、それだけだった。
男は微笑んで、心配するなと言った。
そして申し訳なさそうに、何とかすると言った。
それが嬉しかったのに。
麗華は今でも自分の下腹部を押さえる癖が治らない。
わずか七週で流産した。
自分の腹の中で失われた命のことを受け入れるには時間が必要だった。
男にも連絡をしたが、店の誰かから子宮筋腫だったという情報が先に伝わっていた。
――嘘をついたな。
――本当は中絶費用を騙し取ろうとしたんじゃないのか。
何度も否定した。しかし男が聞き入れることはなかった。結局、その方が好都合だったからだろう。
麗華は退院後も自宅で療養していたが、神経症にまでなった。それでも何とか復帰して、事情を知らない仲間達も温かく迎えてくれた。ところが、自分が店を離れている間に新しいホステスも増えていた。やたらライバル心を向けてくる者もおり、今この瞬間も、数人のホステスから刺々しい視線を浴びたことにも麗華は気づいていた。
しかし、そんなことは大したことではない。
自分の胸を締め付けている存在は別にある。
今日も姿を見せるのだろうか――。
「若い子も元気があって可愛いけど、大人の女性は落ち着いた色気が良いよねえ。はい、それじゃあ乾杯!」
宇佐見の声で我に返った。
麗華は取り繕うように宇佐見とグラスを合わせ、彫りの深い顔立ちを眺める。
確か自分より十歳は年下だが、まったくそうは思えなかった。この安心感は何だろう。姿形のせいだけではない。今までも何度か会話を重ねてきたが、決して順風満帆とはいえない麗華の生き方を尊重してくれた。おべっかではない言葉に勇気が持てた。宇佐見が会いに来てくれるから、この仕事を続けていられるのかもしれない。恋愛感情とは違う、不思議な気持ちだ。
宇佐見との会話が弾んできた時、麗華の身体が瞬時に強張った。
視界に入ってきたあの女。
こちらを一瞥した気がした。わざと気づいていないように、麗華は視線を落とす。
ノルマはおろか、システムにもないのに、同伴のように連れてきたのは――あの男。
あの男。
私のことなど一人の遊び相手にしか過ぎなかったのはわかっている。
けれど、あの日まで腹にいた命は間違いなくお前の子供なのに。
「ん、どうしたの?」
宇佐見が顔をのぞきこむ。
「うぅん。平気」
麗華はグラスに口をつける。
「平気って顔じゃないねえ。ホラ、ここに思いっきり皺を寄せるからファンデーション崩れちゃったよ」
宇佐見が自分の眉間を突いた。慌てて麗華は自分の目元に手を触れる。
「イヒヒ、冗談だよ」
子供のようにハシャぐ宇佐見を軽く叩いた。けれど同時に申し訳ない気持ちになった。
また心配かけている。
表情に出やすいのは自覚していたが、よりによって客の前で何という振る舞いだ。
麗華はどうにか心を平静に保ち、宇佐見に微笑みかけた。
「もっと何か飲まない?」
「飲もう飲もう」
麗華がオーダーを入れると、急に宇佐見が顔を近づけてきた。柔らかい髪の毛が頬に触れた。
「ねえ、麗華ちゃん。あの子は新しい人?ずいぶん若いみたいだけど」
宇佐見が指をさした先で、あの女が男と笑っていた。
無理矢理に心を落ち着ける。
「あ、ああ。そうなの。私が入院中に新しく入ってきたみたいで」
「へえ、アラフォーには見えないねえ。あの堂々とした感じも新人らしからぬ雰囲気があるし。経験者なのかな」
「どうかしら。でも年齢は私と変わらないくらいだと思うわ」
麗華はその隣にいる客を見つめた。
――どうして、私の前で楽しそうな顔ができるの。
「麗華さあん」
振り向くと後輩のリナが隣に座ってきた。
「どうしたの?」
「私もご一緒します」
「こっちは大丈夫よ?」
「いいの!こんばんは宇佐見さん」
こんばんはぁと宇佐見がグラスを軽く持ち上げた。
リナは麗華が以前から面倒を見ている新人のホステスだった。新人といっても、三十五歳で離婚歴もある。しょっちゅう失敗をして、その度に麗華は手を焼いてきたが、入院当時は頻繁に見舞いに来るなど、その優しい性格が麗華は好きだった。
リナは意味ありげにため息をついた。
「それにしても、アヤメさんとあの常連サマ、いつまで続くんでしょうねえ」
アヤメとはあの女の源氏名だ。
暗い気持ちになってきた。
「誰だれ?アヤメって」
宇佐見が興味深そうに聞いてきた。
「ウサちゃんも気になってる、あの若作りのホステスさんよ」
宇佐見が再度アヤメの姿を確認すると、
「いつまで続くって、男に金があるうちは遊び通すでしょう。オレが落とす前に、アヤメちゃんが落ちちゃうかなあ」
残念そうに口を突き出した。
「あの男、あれだけ麗華さんに一生懸命だったのに、ひどいですよね」
「仕方ないわよ。ブランクがあり過ぎたもの。店を離れていかなかっただけでもアヤメさんには感謝しなきゃ」
嘘だ。
自分の口から出た言葉に吐き気がした。
いっそのこと目の前から消えて欲しいくらいなのに。
「私、アヤメさん嫌い。何かツンツンしてるっていうか、冷たいっていうか。バックルームでイライラしている感じが苦手」
「リナちゃん。お客様の前でしょ」
リナがふてくされた。この子は本当に素直だ。それが心配でもあるのだが。しかし、かえって宇佐見の興味を引いたようで、異国顔の男はリナに顔を寄せた。
「何それ?アヤメちゃん嫌われキャラなの?麗華ちゃんともワケありってこと?」
「あくまで噂なんですけど、あの二人、どうも本格的に恋仲らしいんですよ。うちは、普通のキャバクラみたいなガチガチのシステムがあるわけじゃないですけど、さすがにお客さんとの恋愛はアウトなんですよ。しかも、あの常連サマは結婚してるんですって。てゆーか、世間的にも不倫はアウトでしょ?でも、アヤメさんは、アラフォーに見えないスタイルとお顔でしょ?オーナーも客が取れるからってチヤホヤしちゃってさ。それで調子乗って何かとツンツンしているところがムカつくんです」
へえと宇佐見が再度アヤメの姿を確認した。
「それで、あの男は麗華ちゃんから乗り換えてアヤメちゃんの客になったのかあ」
胸が締め付けられた。
思わず下を向いてしまった。
「ん、麗華ちゃんも未練があるのかい?」
つい、上目遣いで宇佐見を睨む。
「そんなわけないでしょ。仕事なんだから」
うんうんと意味不明に宇佐見はうなずいた。
「それでリナちゃん。あのニヤニヤした常連男は何屋さんなの?」
「詳しくは知らないですけど、金持ちなのは確かです。一度、銀行で見かけたことありますしね」
「何、強盗でもしていたの?そりゃ大金持ってるはずだ」
リナが大笑いした。
「面白いなあ宇佐見さん。そうだったら新聞に載りますよ。私、昼間は契約社員で銀行のロビーでクレジットカードの案内とか時々やってるんです。ちょっと前に、その店の奥にあるブース室から出てくるアイツを見ました。やたら偉そうでしたね。みんな頭を下げるし」
宇佐見はあご髭に手を添えて、何か考えだした。
「銀行員……なのかなあ。いや、違うか」
「ただの金持ち客ですよ。いっぱい貯金しているから行員もヘーコラするんですよ。でも、金があるなら、もっと高い店に行きゃ良いと思いません?」
さすがに麗華はリナを諌めた。少し声が大きいことに気づいたらしく、リナは途中からボソボソした声になった。
通ってくる客の生活など興味はない――本来はそうあるべきなのに、麗華はあの一件以来、知る必要のない男の生活を想像しては自分と相手を呪った。
――産んで良いと言ってくれた。
――もしかしたら、結婚も考えてくれていたのではないか。
――そんなにお金があるなら、女房に払う慰謝料だって困らないはずだ。
もう、何の意味もない。グラスを掴む手に力が入った。
「おかわりっ」
宇佐見が隣で陽気に声を上げた。
「実際どんなヤツなんだろうね。金持ちって、もっと金銀財宝でギラギラしてると思ったけど、何か爽やかに遊びを楽しんでいる男だよねえ。まあ、オレの方がカッコいいけど」
そう笑いながら、宇佐見は麗華の肩を抱いた。
温かい。
「ねえ、リナちゃん。あのニヤつき男はいつも銀行に来るの?」
「さあ私も毎日出ているわけじゃないから。周りの人とかに今度聞いてみます」
ヨロシクね、宇佐見はリナに連絡先を渡した。
「宇佐見さん、今度は私も指名してくださいよ」
「ここって、本指名とか場内指名とかシステムあったっけ?ボーイくんもいないのに」
「ないのが売りです。けど、裏対応オッケーなんです。指名入ると、オーナーからご褒美もらえるくらいかなあ。若い子相手に派手にお金使って遊びたい人は、そもそも来ない店ですしね」
ちょうどそこへ、リナは他のテーブルに呼ばれ、名残惜しそうに離れて行った。
「ウサちゃん、アヤメさんたちの何がそんなに気になるの?」
麗華は宇佐見の彫の深い横顔を見つめた。
リナにあの男の身辺調査の真似をさせるなど、どうしたというのだ。
異国顔の男は微笑んだ。
「よしよし、もうこの話は終わり」
「待ってよ」
「麗華ちゃん」
薄い茶色の目に見つめられる。
「違うでしょ。気になっているのはアナタでしょ」
「そんなこと――」
宇佐見は首を横に振った。
「オレは麗華ちゃんが入院している間も、この店によく来たけど、あの男以外の常連客も麗華ちゃんから他のホステスに乗り換えてベッタリしてるのよ。そいつらのことは何とも思ってないのにさ。何が違う?」
「だから、気にしてなんかないってば」
「だったら、どうしてアヤメちゃんに敵意を向けるの?」
麗華は自分が動揺しているのがわかった。
「……敵意って」
「さっきアヤメちゃんのこと若作りって言ったでしょ。褒め言葉じゃないどころか完全にライバル視してるじゃん」
思わず口をつぐむ。構わず宇佐見は続けた。
「仲間内で競争するのは良いことだと思うし、そもそもこの世界じゃ当たり前だからね。オレの気にしすぎかもしれないけどさ、この話の最中で麗華ちゃんはまるで笑わないんだもん」
麗華はうつむいた。そんなつもりはなかったのに、宇佐見には見抜かれていた。
だめだ、知られたくない。
私の中では、終わった話なのだから。
「あの男が好きなの?」
背中が冷たくなった。
宇佐見はニコニコ笑っている。
「冗談じゃないわよ」
麗華は宇佐見から目をそらした。
そらした先に、あの男の姿を見つけてしまった。
仕方なくまた下を向いた。
その後の会話は途切れた。
それでも宇佐見は麗華の肩を離すことなく、静かに酒を飲んでいた。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説

冥官小野君のお手伝い ~ 現代から鎌倉時代まで、皆が天国へ行けるようサポートします ~
夢見楽土
キャラ文芸
大学生の小野君は、道路に飛び出した子どもを助けようとして命を落とし、あの世で閻魔様のお手伝いをすることに。
そのお手伝いとは、様々な時代を生きた人々が無事に天国へ行けるよう、生前の幸福度を高めるというもの。
果たして小野君は、無事に皆の生前幸福度を高めることが出来るのでしょうか。
拙いお話ではありますが、どうか、小野君の頑張りを優しい目で見守ってやってください。
「小説家になろう」様、「カクヨム」様にも掲載しています。
神様の住まう街
あさの紅茶
キャラ文芸
花屋で働く望月葵《もちづきあおい》。
彼氏との久しぶりのデートでケンカをして、山奥に置き去りにされてしまった。
真っ暗で行き場をなくした葵の前に、神社が現れ……
葵と神様の、ちょっと不思議で優しい出会いのお話です。ゆっくりと時間をかけて、いろんな神様に出会っていきます。そしてついに、葵の他にも神様が見える人と出会い――
※日本神話の神様と似たようなお名前が出てきますが、まったく関係ありません。お名前お借りしたりもじったりしております。神様ありがとうございます。


彼女のことは許さない
まるまる⭐️
恋愛
「彼女のことは許さない」 それが義父様が遺した最期の言葉でした…。
トラマール侯爵家の寄り子貴族であるガーネット伯爵家の令嬢アリエルは、投資の失敗で多額の負債を負い没落寸前の侯爵家に嫁いだ。両親からは反対されたが、アリエルは初恋の人である侯爵家嫡男ウィリアムが自分を選んでくれた事が嬉しかったのだ。だがウィリアムは手広く事業を展開する伯爵家の財力と、病に伏す義父の世話をする無償の働き手が欲しかっただけだった。侯爵夫人とは名ばかりの日々。それでもアリエルはずっと義父の世話をし、侯爵家の持つ多額の負債を返済する為に奔走した。いつかウィリアムが本当に自分を愛してくれる日が来ると信じて。
それなのに……。
負債を返し終えると、夫はいとも簡単にアリエルを裏切り離縁を迫った。元婚約者バネッサとよりを戻したのだ。
最初は離縁を拒んだアリエルだったが、彼女のお腹に夫の子が宿っていると知った時、侯爵家を去る事を決める…。
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
あやかし狐の身代わり花嫁
シアノ
キャラ文芸
第4回キャラ文芸大賞あやかし賞受賞作。
2024年2月15日書下ろし3巻を刊行しました!
親を亡くしたばかりの小春は、ある日、迷い込んだ黒松の林で美しい狐の嫁入りを目撃する。ところが、人間の小春を見咎めた花嫁が怒りだし、突如破談になってしまった。慌てて逃げ帰った小春だけれど、そこには厄介な親戚と――狐の花婿がいて? 尾崎玄湖と名乗った男は、借金を盾に身売りを迫る親戚から助ける代わりに、三ヶ月だけ小春に玄湖の妻のフリをするよう提案してくるが……!? 妖だらけの不思議な屋敷で、かりそめ夫婦が紡ぎ合う優しくて切ない想いの行方とは――

日奉家夜ノ見町支部 怪異封印録
鯉々
キャラ文芸
古くより怪異を封じてきた日奉家。そんな一族の一人として活動を続ける日奉雅はある日、山に安置されていた祠から街を守護していた呪物が消失している事に気が付く。それを合図にする様に封じられていた怪異や異常存在達が各地で確認され始めた。
各地で怪異を封印するに連れて、雅は一族にまつわるある過去を知る事となる。それは全ての事件の始まりであり、日本や世界を巻き込む一大事件へと繋がっていく。
護堂先生と神様のごはん 護堂教授の霊界食堂
栗槙ひので
キャラ文芸
考古学者の護堂友和は、気が付くと死んでいた。
彼には死んだ時の記憶がなく、死神のリストにも名前が無かった。予定外に早く死んでしまった友和は、未だ修行が足りていないと、閻魔大王から特命を授かる。
それは、霊界で働く者達の食堂メニューを考える事と、自身の死の真相を探る事。活動しやすいように若返らせて貰う筈が、どういう訳か中学生の姿にまで戻ってしまう。
自分は何故死んだのか、神々を満足させる料理とはどんなものなのか。
食いしん坊の神様、幽霊の料理人、幽体離脱癖のある警察官に、御使の天狐、迷子の妖怪少年や河童まで現れて……風変わりな神や妖怪達と織りなす、霊界ファンタジー。
「護堂先生と神様のごはん」もう一つの物語。
2019.12.2 現代ファンタジー日別ランキング一位獲得
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる