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四月二十四日(日)夜 パブ・ホルン

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「キャーッ!ウサちゃんじゃないのお」
「嬉しい!来てくれたんだあ」

 数人のホステス達が宇佐見を取り囲んだ。

「相変わらず、ホルンのアラフォーさん達は綺麗だねえ。えいえい」

 宇佐見に腰を突っつかれた一人が甲高い声を上げる。その輪の中をホステスの麗華は静かに入って行く。

「ウサちゃん、こんばんは」
「おお。麗華ちゃんじゃないか。もう良くなったの?」

 麗華は宇佐見に頭を下げた。

「おかげさまで。心配かけちゃってごめんなさい」
「手術もしたんだっけか。大変だったねえ」

 下げた頭を宇佐見に軽くなでられた。

「よしよし、快気祝いだ。いこうか」
「はい」

 宇佐見に肩を抱かれながら、麗華は奥の席に案内した。

 麗華は四十歳である。

 ここで働くホステスは全員が同年代で、それが売りでもあった。多くがシングルマザー、または離婚暦のある女性である。その中でも麗華はそこそこ指名の多いホステスだったが、数ヶ月前に入院をしてしばらく店を離れていた。オーナーが親切な男で、麗華のために復帰の機会を与えると約束してくれたものの、回復まで思いのほか時間がかかってしまった。

 身体はすぐに良くなったが、精神的なものの方がひどかった。

 表向きには婦人科系の病気ということになっているはずだ。

 実際は大いに違った。

 麗華は客の一人と親しくなり、男女の関係になった。店の決まりではルール違反な上に、こともあろうか、麗華は妊娠してしまったのだ。産むか下ろすか迷った。客の男は結婚しており、軌道に乗った仕事もあるのだ。身を引くべきだとわかっていながらも麗華は腹の中の命に対して日に日に想いが強くなった。

 ただ、伝えたかった。責任を取らせるつもりなど毛頭ない。一人で産み育てることも覚悟している。ただ、子の存在を知って欲しい、それだけだった。

 男は微笑んで、心配するなと言った。
 そして申し訳なさそうに、何とかすると言った。

 それが嬉しかったのに。

 麗華は今でも自分の下腹部を押さえる癖が治らない。

 わずか七週で流産した。

 自分の腹の中で失われた命のことを受け入れるには時間が必要だった。
 男にも連絡をしたが、店の誰かから子宮筋腫だったという情報が先に伝わっていた。

 ――嘘をついたな。
 ――本当は中絶費用を騙し取ろうとしたんじゃないのか。

 何度も否定した。しかし男が聞き入れることはなかった。結局、その方が好都合だったからだろう。

 麗華は退院後も自宅で療養していたが、神経症にまでなった。それでも何とか復帰して、事情を知らない仲間達も温かく迎えてくれた。ところが、自分が店を離れている間に新しいホステスも増えていた。やたらライバル心を向けてくる者もおり、今この瞬間も、数人のホステスから刺々しい視線を浴びたことにも麗華は気づいていた。

 しかし、そんなことは大したことではない。
 自分の胸を締め付けている存在は別にある。

 今日も姿を見せるのだろうか――。

「若い子も元気があって可愛いけど、大人の女性は落ち着いた色気が良いよねえ。はい、それじゃあ乾杯!」

 宇佐見の声で我に返った。
 麗華は取り繕うように宇佐見とグラスを合わせ、彫りの深い顔立ちを眺める。
 確か自分より十歳は年下だが、まったくそうは思えなかった。この安心感は何だろう。姿形のせいだけではない。今までも何度か会話を重ねてきたが、決して順風満帆とはいえない麗華の生き方を尊重してくれた。おべっかではない言葉に勇気が持てた。宇佐見が会いに来てくれるから、この仕事を続けていられるのかもしれない。恋愛感情とは違う、不思議な気持ちだ。

 宇佐見との会話が弾んできた時、麗華の身体が瞬時に強張った。

 視界に入ってきたあの女。

 こちらを一瞥した気がした。わざと気づいていないように、麗華は視線を落とす。
 ノルマはおろか、システムにもないのに、同伴のように連れてきたのは――あの男。

 あの男。

 私のことなど一人の遊び相手にしか過ぎなかったのはわかっている。
 けれど、あの日まで腹にいた命は間違いなくお前の子供なのに。

「ん、どうしたの?」

 宇佐見が顔をのぞきこむ。

「うぅん。平気」

 麗華はグラスに口をつける。

「平気って顔じゃないねえ。ホラ、ここに思いっきり皺を寄せるからファンデーション崩れちゃったよ」

 宇佐見が自分の眉間を突いた。慌てて麗華は自分の目元に手を触れる。

「イヒヒ、冗談だよ」

 子供のようにハシャぐ宇佐見を軽く叩いた。けれど同時に申し訳ない気持ちになった。
 また心配かけている。
 表情に出やすいのは自覚していたが、よりによって客の前で何という振る舞いだ。
 麗華はどうにか心を平静に保ち、宇佐見に微笑みかけた。

「もっと何か飲まない?」
「飲もう飲もう」

 麗華がオーダーを入れると、急に宇佐見が顔を近づけてきた。柔らかい髪の毛が頬に触れた。

「ねえ、麗華ちゃん。あの子は新しい人?ずいぶん若いみたいだけど」

 宇佐見が指をさした先で、あの女が男と笑っていた。
 無理矢理に心を落ち着ける。

「あ、ああ。そうなの。私が入院中に新しく入ってきたみたいで」
「へえ、アラフォーには見えないねえ。あの堂々とした感じも新人らしからぬ雰囲気があるし。経験者なのかな」
「どうかしら。でも年齢は私と変わらないくらいだと思うわ」

 麗華はその隣にいる客を見つめた。

 ――どうして、私の前で楽しそうな顔ができるの。

「麗華さあん」

 振り向くと後輩のリナが隣に座ってきた。

「どうしたの?」
「私もご一緒します」
「こっちは大丈夫よ?」
「いいの!こんばんは宇佐見さん」

 こんばんはぁと宇佐見がグラスを軽く持ち上げた。
 リナは麗華が以前から面倒を見ている新人のホステスだった。新人といっても、三十五歳で離婚歴もある。しょっちゅう失敗をして、その度に麗華は手を焼いてきたが、入院当時は頻繁に見舞いに来るなど、その優しい性格が麗華は好きだった。

 リナは意味ありげにため息をついた。

「それにしても、アヤメさんとあの常連サマ、いつまで続くんでしょうねえ」

 アヤメとはあの女の源氏名だ。
 暗い気持ちになってきた。

「誰だれ?アヤメって」

 宇佐見が興味深そうに聞いてきた。

「ウサちゃんも気になってる、あの若作りのホステスさんよ」
 
 宇佐見が再度アヤメの姿を確認すると、

「いつまで続くって、男に金があるうちは遊び通すでしょう。オレが落とす前に、アヤメちゃんが落ちちゃうかなあ」

 残念そうに口を突き出した。

「あの男、あれだけ麗華さんに一生懸命だったのに、ひどいですよね」
「仕方ないわよ。ブランクがあり過ぎたもの。店を離れていかなかっただけでもアヤメさんには感謝しなきゃ」

 嘘だ。
 自分の口から出た言葉に吐き気がした。
 いっそのこと目の前から消えて欲しいくらいなのに。

「私、アヤメさん嫌い。何かツンツンしてるっていうか、冷たいっていうか。バックルームでイライラしている感じが苦手」
「リナちゃん。お客様の前でしょ」

 リナがふてくされた。この子は本当に素直だ。それが心配でもあるのだが。しかし、かえって宇佐見の興味を引いたようで、異国顔の男はリナに顔を寄せた。

「何それ?アヤメちゃん嫌われキャラなの?麗華ちゃんともワケありってこと?」
「あくまで噂なんですけど、あの二人、どうも本格的に恋仲らしいんですよ。うちは、普通のキャバクラみたいなガチガチのシステムがあるわけじゃないですけど、さすがにお客さんとの恋愛はアウトなんですよ。しかも、あの常連サマは結婚してるんですって。てゆーか、世間的にも不倫はアウトでしょ?でも、アヤメさんは、アラフォーに見えないスタイルとお顔でしょ?オーナーも客が取れるからってチヤホヤしちゃってさ。それで調子乗って何かとツンツンしているところがムカつくんです」

 へえと宇佐見が再度アヤメの姿を確認した。

「それで、あの男は麗華ちゃんから乗り換えてアヤメちゃんの客になったのかあ」

 胸が締め付けられた。
 思わず下を向いてしまった。

「ん、麗華ちゃんも未練があるのかい?」

 つい、上目遣いで宇佐見を睨む。

「そんなわけないでしょ。仕事なんだから」

 うんうんと意味不明に宇佐見はうなずいた。

「それでリナちゃん。あのニヤニヤした常連男は何屋さんなの?」
「詳しくは知らないですけど、金持ちなのは確かです。一度、銀行で見かけたことありますしね」
「何、強盗でもしていたの?そりゃ大金持ってるはずだ」

 リナが大笑いした。

「面白いなあ宇佐見さん。そうだったら新聞に載りますよ。私、昼間は契約社員で銀行のロビーでクレジットカードの案内とか時々やってるんです。ちょっと前に、その店の奥にあるブース室から出てくるアイツを見ました。やたら偉そうでしたね。みんな頭を下げるし」

 宇佐見はあご髭に手を添えて、何か考えだした。

「銀行員……なのかなあ。いや、違うか」
「ただの金持ち客ですよ。いっぱい貯金しているから行員もヘーコラするんですよ。でも、金があるなら、もっと高い店に行きゃ良いと思いません?」

 さすがに麗華はリナを諌めた。少し声が大きいことに気づいたらしく、リナは途中からボソボソした声になった。

 通ってくる客の生活など興味はない――本来はそうあるべきなのに、麗華はあの一件以来、知る必要のない男の生活を想像しては自分と相手を呪った。

 ――産んで良いと言ってくれた。
 ――もしかしたら、結婚も考えてくれていたのではないか。
 ――そんなにお金があるなら、女房に払う慰謝料だって困らないはずだ。

 もう、何の意味もない。グラスを掴む手に力が入った。

「おかわりっ」

 宇佐見が隣で陽気に声を上げた。

「実際どんなヤツなんだろうね。金持ちって、もっと金銀財宝でギラギラしてると思ったけど、何か爽やかに遊びを楽しんでいる男だよねえ。まあ、オレの方がカッコいいけど」

 そう笑いながら、宇佐見は麗華の肩を抱いた。

 温かい。

「ねえ、リナちゃん。あのニヤつき男はいつも銀行に来るの?」
「さあ私も毎日出ているわけじゃないから。周りの人とかに今度聞いてみます」

 ヨロシクね、宇佐見はリナに連絡先を渡した。

「宇佐見さん、今度は私も指名してくださいよ」
「ここって、本指名とか場内指名とかシステムあったっけ?ボーイくんもいないのに」
「ないのが売りです。けど、裏対応オッケーなんです。指名入ると、オーナーからご褒美もらえるくらいかなあ。若い子相手に派手にお金使って遊びたい人は、そもそも来ない店ですしね」

 ちょうどそこへ、リナは他のテーブルに呼ばれ、名残惜しそうに離れて行った。

「ウサちゃん、アヤメさんたちの何がそんなに気になるの?」

 麗華は宇佐見の彫の深い横顔を見つめた。
 リナにあの男の身辺調査の真似をさせるなど、どうしたというのだ。
 異国顔の男は微笑んだ。

「よしよし、もうこの話は終わり」
「待ってよ」
「麗華ちゃん」

 薄い茶色の目に見つめられる。

「違うでしょ。気になっているのはアナタでしょ」
「そんなこと――」

 宇佐見は首を横に振った。

「オレは麗華ちゃんが入院している間も、この店によく来たけど、あの男以外の常連客も麗華ちゃんから他のホステスに乗り換えてベッタリしてるのよ。そいつらのことは何とも思ってないのにさ。何が違う?」
「だから、気にしてなんかないってば」
「だったら、どうしてアヤメちゃんに敵意を向けるの?」

 麗華は自分が動揺しているのがわかった。

「……敵意って」
「さっきアヤメちゃんのこと若作りって言ったでしょ。褒め言葉じゃないどころか完全にライバル視してるじゃん」

 思わず口をつぐむ。構わず宇佐見は続けた。

「仲間内で競争するのは良いことだと思うし、そもそもこの世界じゃ当たり前だからね。オレの気にしすぎかもしれないけどさ、この話の最中で麗華ちゃんはまるで笑わないんだもん」

 麗華はうつむいた。そんなつもりはなかったのに、宇佐見には見抜かれていた。

 だめだ、知られたくない。
 私の中では、終わった話なのだから。

「あの男が好きなの?」

 背中が冷たくなった。

 宇佐見はニコニコ笑っている。

「冗談じゃないわよ」

 麗華は宇佐見から目をそらした。
 そらした先に、あの男の姿を見つけてしまった。
 仕方なくまた下を向いた。

 その後の会話は途切れた。

 それでも宇佐見は麗華の肩を離すことなく、静かに酒を飲んでいた。
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