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四月二十四日(日)夕方 有平家

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 不思議な光景だ。

 有平忠志はソファに座って硬直した。

 自分の家の居間で、母親と小柄な男と黒づくめの男が向かい合って座っている。まさか、藤石とこの怪しげな黒服男が仕事仲間だとは知らなかった。黒服の方は白井という名前らしい。

 忠志が無駄に背筋を伸ばすと、母親が切り出した。

「白井先生、今日はどうされたんですか」
「はあ。何度か境界については説明させていただきましたが、今回はご売却のことについて、私より専門の司法書士から話をさせた方が良いかと思いまして」

 母親が藤石の方に向き直ると同時に、藤石が頭を垂れた。
 その礼儀正しい姿に何だか違和感がある。

 藤石が柔らかく笑った。

「本来、私は売買が成約となった後の手続きを担当する司法書士という仕事をしておりますが、今回の境界特定の手続きと同時に、有平さんにご留意していただきたい点がありましてお邪魔しました。まあ、聞き流していただいても大丈夫なんですけどね」

 藤石はテーブルに資料を並べた。

「ご覧になったことはありますかね。登記簿謄本といわれるものです。これは有平さんがお持ちの土地と家について書かれています」
「ちょっと待って。勝手に取得して良いんですか?個人情報でしょう?」

 母親の非難に、白井も藤石も、

「残念ながら、登記簿は個人情報ではありません」
「金さえ払えば宇宙人でも取得できちゃうんですよ」

 立て続けに受け流した。

「でも」
「司法書士がこの謄本を見ることができなかったら、不動産取引は怖くてできませんよ。いいですか?」

 藤石は登記簿の二枚目をボールペンで指しながら説明を始めた。

「現在の所有者は有平紗江子さん。前の所有者の方から財産分与で譲り浮けてますね」
「ええ、別れた主人です。慰謝料の代わりですから」

 少し母親の声に険があった。しかし、藤石は構わず続けた。

「こちらの登記は、司法書士に依頼しましたか?」
「いいえ。離婚の時にお世話になった女の弁護士先生にお願いしました」
「そうですか。まあ、俺に言わせれば三流ですね。その登記をやった弁護士は」

 一瞬、空気が張り詰めた。白井ですらも少し動揺している。
 母親は真っ向から藤石を見つめる。

「どういうことですか」
「こちらに抵当権がついていますね。住宅ローン、もっと簡単にいえば借金のことです。家を買う時に現金で三千万円が用意できる人は滅多にいませんから、通常は銀行から融資を受けます。当然、銀行もただでは貸しません。その担保として土地と建物をとります。借金を返せなくなったら、土地と建物を取り上げるぞ、そういう風に考えちゃってください。有平さんのご自宅も例外ではありません」

 ボールペンで軽く叩く音がする。

「こちら、三千万の抵当権がありますね。債務者……借金を返さなくてはいけない人ですが、それが元ご主人のままです。つまり、借りたのはご主人で、返すのもご主人ということです」

 母親が登記簿の細かい文字を目で追った。

 わかりますかね、藤石が母親の顔をのぞきこんだ。

「元ご主人は自分が住んでもいない家のローンを、別れた女房と子供のために払い続けているんですよ。お分かりかもしれませんけれど、銀行は返済が滞った瞬間に担保にとっていた不動産、つまりこの家と土地を競売にかけようとします。つまり強制的に家を追い出されるわけです。そこに住んでいるのが誰であろうと、です」

 忠志は頭の中で藤石の言葉を整理した。

 ――ものすごく、怖いことなんじゃないのか?

 不安な思いで小柄な男を見つめると、横目で受け止められたものの、それ以上の反応は返ってこなかった。

 藤石は続けた。

「ですから、こういうものがついている不動産はそう簡単には売れないんですよ。もちろん、売買代金を借金返済に充てても良いんですけど、当然に手元に残る売上げ金は減りますよね。新しいマンションが買えるかどうかはわかりません。もちろん、今度はあなたが銀行から借金させてもらえれば大丈夫かもしれませんが、あっちも商売なので、全額返してもらえる財力があるか審査します」

 母親がゆっくりと背もたれに寄りかかった。さっきより、疲れが見える。
 それを見て、小柄な司法書士は深く息を吐いた。

「当時の弁護士は離婚手続きだけを純粋に行なったんでしょうけど、これ、本当はご法度です。不動産の持ち主が代わる時には抵当権者、つまり銀行に申し出るのが決まりです。勝手に名義変えをすると、銀行は怒って一括返済を求めたり競売にかけたりする恐れもあります。今、そうなっていないのはご主人が今も返済をしているからです。本当なら、銀行に申し出をして、今後は奥さんが返済するように変更手続きや審査を受けるべきです。このまま元ご主人が支払ってくれる保証はありませんからね」

 ついに母はうなだれてしまった。
 藤石の説明どおりなら、忠志たち親子は父のおかげでこの家に住み続けてこれたということだ。隣地との境界や、新居の話などの前に考えることがあるではないか。

 母親は二人に頭を下げて、連休明けにも父親と連絡を取り、銀行の手続きをすると言った。その切り替えの早さに、忠志も藤石も白井も驚いた。

「これ以上、貸しを作るのはイヤなの。大丈夫、私だって稼いでるんだから。あの時の弁護士を引っ張り出せば良いの?とにかく、また何かあれば相談させていただきます」

 さらに、忠志が藤石の家に泊めてもらったことを深く詫びて、迷惑でなければ今後も良き相談相手として息子を頼むと頭を下げた。

 意外だった。

 しかし、藤石は忠志を見てこう言ったのだ。

「これが親御さんの責任というものだ。甘ったれる前にまずは感謝しろ」

 忠志は素直に返事をするしかなかった。母親は何も言わないが、きっと察しているだろう。この前、言い争いをした時からお互い気まずいものがあったのだ。

 藤石が笑った。

「しかし、お前は間違いなく父親似なんだろうな」

 きっとそうだ。
 母の血がもう少し入っていれば、こんなオドオドした性格じゃなかっただろう。

「ところで」

 藤石が首を捻って何かを探すような素振りを見せた。

「聖域というのはどこだ?」
「えっ」

 何で知っているんだ?

 母親が呆れたように笑い出した。

「まったく、どうしようもない子なんです。庭に金魚のお墓を作ったらしいんですけど、それがあるから今回のことも反対だったみたいで」
「いやいや、お母さん。俺は彼の気持ちはわかりますよ。さぞかし大事にしていたことでしょう。優しい息子さんなんですよ」

 忠志は胸が熱くなった。

「ティラノさん」

 しかし、藤石はいつもの眠い目でこちらを見ながら、

「当然、草むしりもされて、綺麗な花壇の一つや二つはあるでしょうね。何しろ聖域なんですから」

 と言い、意地悪く口元をゆがめて笑った。

 ――あ。

 自分の家の風景が脳裏に浮かぶ。
 忠志は口を押さえた。
 僕は、何を言っていた。今まで、何を偉そうに。

 そっと白井がささやいた。

「お墓には花を手向けるものです」

 忠志は二人の顔が見ることができない。

 ――父さん。

「ごめんなさい」
「よし、追試の論述九十点で合格。金魚の墓はどこかに作り直すように」

 藤石は再び母親に向き直った。

「土地の境界争いは俺の専門じゃないんですけどね、国が決めた土地境界を越境していることが事実なら、大人しく引っ込めた方が良いですよ。な?」

 藤石が白井に目をやると、白面の男は少し躊躇しながらも頷いた。

 結局、家の売却話は立ち消えとなった。

 忠志は藤石と白井が帰るまでの間、父親と埋めた金魚の墓とその情景を必死に思い出そうとしたが、結局おぼろげだったことを心の中で再度父親に詫びた。
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