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四月十九日(火)夜 駅前繁華街

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 生ぬるい風が菜々美の髪の毛を揺らした。空を見上げても星は見えない。都会の光は強すぎるのだ。いっそ田舎に生まれればよかったと思う。祖父母の家も都内にあるせいで、菜々美がイメージする『野山に囲まれた田舎』というものに、一生めぐり合うこともない。同じ日本、生活に差がないことはわかっているが、それならせめて好きな星空が見える場所に住みたかった。

 明るすぎる都会の空、唯一おおいぬ座のシリウスが西に落ちて輝くのだけはわかった。自分が消えても、あの星だけはずっと消えないで欲しい。そんなことばかり考えた。

 タイミングよくバスが来て、それに飛び乗ると暗い窓の外を眺めた。

 映るのは自分の顔だけだ。
 幸が薄そうな一重の目。そのとおり、不幸が顔に滲み出ていた。

 大嫌いだ。

 バスが駅に近づくにつれて明かりが増え、周囲の色彩も華やかになった。
 いつもの駅前が、時間帯が違うだけでこうも景色が変わるのか。菜々美は人混みの中を歩きながら辺りを見渡した。

 パチンコ屋のネオンは夜になるとこんなに眩しいのか。
 あの広場は夜になるとストリートミュージシャンの溜り場になるんだ。
 あんな短いスカート、太い足を晒してバカみたい。
 あの黒い服の人たち、誰を待っているんだろう。

 ぼんやりと歩いていると、すれ違った若いサラリーマンとぶつかった。相手は菜々美を見て一瞬驚いた表情をしたが、すぐに謝って足早に去っていった。帰り道なのか、仕事中なのか、とても急いでいるようだった。

 なぜか父親のことが頭に浮かんだ。そして、その父を思い出し、菜々美の胸にどす黒いものが生まれた。

 借金――本当なのだろうか。

 けれどもそれを問いただすほど菜々美と父親との関係は近くなかった。
 いつも家にいない人。何を考えているかわからない人。

 どうでも良かった。

「――っ!」

 またしても人とぶつかった。日中はこんなに混んでいないのに。

「あー、ねえ。謝らないで行っちゃうつもり?」

 菜々美の腕を掴んだのは、素行の悪そうな二人組だった。片方は鼻の頭にピアスを付け、もう一方はフードを深くかぶっていて、顔がよく見えない。

「いてて、今の衝撃で折れちゃったかも」
「嘘つけよ。でもさ、どっちが悪いっていったら、よそ見していたアンタだよね」

 フードをかぶった男が菜々美の顔を覗き込んだ。わずかに見えた顔は、まだ高校生くらいだった。

「ごめんなさい」

 蚊の鳴くような貧弱な声に情けなくなる。しかし、二人組は楽しそうに笑った。

「ごめんなさぃだって!可愛いじゃん。何歳?」

 近づく二人に、自然と菜々美は後ずさった。

「逃げなくたっていいでしょ。ん、あれ?」

 鼻ピアスの少年が菜々美の左腕を強く引いた。そして、止める間もなく、菜々美の左袖がまくられる。

 横に刻まれた傷跡があらわになった。

「何々、どうしちゃったの?おれたちが朝まで相談に乗ろうか?」
「ふざけんなって。リスカやってる女なんて気味悪いっての」
「いやいや、こういう子はさぁ、寂しがり屋だから何でも言うこと聞く……」

 そんな二人の嘲笑が一瞬で止んだ。
 いつの間にかフードをかぶった少年が歩道に転がっている。

 呆気にとられていると、菜々美の頭上から声がした。

「もう四月なのに、まだ夜は冷えるよねえ」

 目の前に巨木のようなシルエットが出来る。

 一人の外国人が菜々美の前に立った。
 
 片方の少年が喚き散らした。

「な、何すんだよっ!」

「何って、寒いからジャケットを着ているんだよ。あ、オレは腕が人一倍長いから気を付けてね」

 突然、外国人の男は右腕に袖を通しながら鼻ピアスの少年を吹っ飛ばした。周囲に人が集まり始めると、男は菜々美の手を掴んでその場を逃げ出した。

 地下街へ続く階段を下りたところで、大男はようやく立ち止まった。

 一体、何センチあるんだ。

 菜々美は自然と見上げる形になった。

「おお可愛らしい。こりゃ十年後が楽しみだな」

 外国人かと思ったが、よく見ると彫りの深い日本人のようだ。少し茶色い瞳が笑っている。
 そんな大男が膝を折って菜々美と視線を合わせた。

「お嬢さん、お名前は?まだ中学生くらいでしょ?」

 菜々美は困惑した。さっきの少年二人も怖かったが、こっちはこっちで何者かわからない。ひたすら押し黙った。

「こんな時間にうろついたらダメでしょ。警察に連絡するよ。今何時だと思ってるの」

 男は菜々美の左腕を掴んだ。警察と聞いて、菜々美の身体が強張る。しかし、その男のにやけた顔に腹が立った。

「塾の、帰りです」

 嘘をついた。

「あ、なるほどね。そうかそうか。気をつけて帰りなよ。それで、お名前は?」

 ――。

 何だろう、この人。いい加減にして欲しい。

「やめてください。手を離してください」

「そんなあ。オレは君のことを助けてあげたのよ?ふふ、でも照れちゃって可愛いねえ。どこにお住まいなの?リスカちゃん」

 反射的に左腕を振りほどき、左腕を慌てて隠す。

「な、何なの」

「リスカちゃん、か。おお、意外に可愛いネーミングかも?」

「やめてよ!」

 菜々美は怒りのあまり声を張り上げた。地下の階段を上ってきた通行人から視線が集まる。菜々美は階段をかけ上り、大通りに逃れた。しかし、外国人のような男は楽しそうに追いかけてきた。

「ふふ、何を怒ってるの?」

「ついて来ないで。バカにしないでよ」

「ねえ、怒るってことはさ、自分でその行為を否定しているのかな?堂々とさらけ出していれば良いじゃん」

 何も言い返すことができない。苦し紛れに出た言葉も弱く小さな声だった。

「あなたに何がわかるの」

「何もわからないよ。怒ってるのはわかったけど、タダでさえ中学生は難しいから。ああ、でも十年後には素敵なレディになってるかな。その時にまた会えたら――オレ、アラフォーかあ。時は残酷だなあ」

 男は物悲しい顔でネオンを見上げた。

「キモイ。放っておいてよ。何でかまうの?」

 菜々美は男の頭を見つめた。すると、男は少し首をかしげた。

「うーん、最初は可憐な少女がチビッコギャングに襲われそうだったから助けてあげたんだけど。今は、そうねえ。リスカちゃんがリスカしているから、かな」

 意味がわからない。菜々美は食いかかった。

「ウチのことなんか、アンタに関係ないじゃん」

「あ、それ嫌い。何なのウチって。ちゃんと私って言いなさい。じゃなきゃ、これ以上は口ききません」

 途端に大男は子供のようにそっぽを向いた。菜々美は何でこんなに気持ちが焦るのかわからなかった。

「何なの。イライラする」

 泣きそうになった。見ず知らずの他人に、どうしてこんな想いを強いられねばならないのだ。すると、再び男は大きな手で菜々美の左腕を掴んだ。

「そういう時期なんだって。思春期ってヤツ?放っておけば良い思い出になるからさ。何はともあれ、ご飯が食べたいとか早く寝たいとか考えられるうちは大丈夫だよ」

 菜々美は掴まれた手を見つめていた。

 大きい。

 今度は不思議とイヤな気持ちにはならなかった。

「早くお家に帰らないと、パパもママも心配するよ」

 その言葉に胸が苦しくなる。母親のヒステリックな声が脳裏に浮かぶ。

「心配なんかされない。みんな自分勝手で娘の気持ちをわかろうともしない。どうせ借金まみれで家もなくなってバラバラになるんだから」

 そのとき、いきなり菜々美の頬を大きな手が包み込んだ。
 淡く優しい茶色の瞳が笑っている。

「優しいね、キミは」

 最初、何を言っているのかわからなかった。菜々美が男の顔を見つめ返すと、大きな両手は菜々美の顔からゆっくり離れていった。

「可愛いリスカちゃん。運が良かったらまた会おうね」

「ま、待ってよ」

 しかし、男は振り向くことな人混みの中へ歩いていってしまった。

 男に掴まれた左腕をさすると、息苦しくなった。
 優しい?
 私が?

「バカじゃないの」

 しかし、菜々美の視線は男を求めてさまよった。あの異様に高い背丈のせいで、遠くからでも頭の位置がわかる。今度は菜々美の足が、ゆっくりと男を追いかけた。

 なぜ、こんなに気持ちが高ぶる。追いかけて、何をするつもりなんだ。それでも、菜々美は大男を見失うことはなかった。
 その道は駅前の繁華街に続いており、菜々美自身もあまり立ち入ったことはない。特に夜はさらに人混みが増し、騒々しくて少し怖い。居酒屋の前でたむろする中年サラリーマンたちの中に、自分の父親がいるような気がする。菜々美はすぐにその場を足早に通り過ぎた。そんなことあるわけないのに、九時近くまで自分が外にいることへの罪悪感だろうか。

 バカバカしい。借金に比べれば可愛いものだ。

 菜々美は人を掻き分けて進み、男の間近までやってきた。誰よりも目立つ風貌に、すれ違う人がみんな振り返る。道を譲る人間さえいた。その中をフラフラと歩いている男は、誰かと電話で話しているみたいだった。気づかれないように後を付けていくと、突然、男は方向を変えて、何と歩いて来た道を戻ってくるではないか。慌てて人混みに姿を隠した菜々美は、そのまま男の尾行を続けた。

 そして、いっそう明るい建物の前に来た。
 男は足を引きずるように入っていく。

 そこは『ゲームギャラクシー駅前通店』というゲームセンターだった。
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