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四月一九日(火曜日)夕方 鹿端家
しおりを挟む菜々美が飲み物を取りに行こうと階段を降りたところで、玄関のチャイムが鳴った。
慌てて洗面所の中へ隠れ、息を殺す。
「はあい」
気だるい母親の声がした。
そして、菜々美はいつものようにため息を吐く。
――本当ウザい。イライラする。
玄関からは若い男の声が聞こえた。
「こんにちは、葵中学校の小野です」
菜々美の心臓が一度だけ大きく動いた。
「どうぞ、こちらへ」
程なくして、スリッパの音が二つ、リビングへ向かって行く。
少し洗面所のドアを開け、様子をうかがう。リビングのドアは開け放たれているのか、思った以上に声がよく聞こえる。
「今日は……菜々美さんは」
「誰とも会いたがらないんです。あとで娘には先生がいらしたことを伝えますから」
そうですか、と小野の声を最後にしばらく沈黙が続いた。
菜々美は静かに腰を下ろし、ゆっくり深呼吸をした。
――先生って、新しい担任?
何しに来たんだ――。
「先生、うちの娘はもう留年でしょうか」
突然、母親の声が響いた。
「いや、そんな大丈夫ですよ」
小野の慌てた声がする。
「でも、このまま学校に行かなかったら、どんどん成績が落ちていくじゃないんですか」
「菜々美さんは一年から優秀でしたし、まだ取り戻せますよ。ただ三年生は大事な時期ですから、なるべく早く学校に来て欲しいのは本心です。その……辛いことがあったことはわかりますが」
菜々美は小野の言葉に少し心が揺れた。まだ一度も会ったことがない新しい担任。
――小野先生。
初めて聞く名前だ。今年から葵中に来たのかもしれない。どんな顔だろう。
次の瞬間、母親のヒステリックな声が聞こえてきた。
「だ、だいたい何なんですか!学校は、娘がああなるまでどうして何も私達に知らせてくれなかったんですか!」
小野の声はしない。驚いて言葉も出ないのだろう。
母親の苛立つ声が耳に鳴り響く。
「あの子は真面目に学校に通っていたんですよ?それを突然、学校に行きたくないって言うことは、つまり学校に問題があったからでしょう?違いますか?クラスでイジメがあったんじゃないですか?きっと菜々美はおとなしい子だから黙っていたんですよっ」
菜々美は耳をふさいだ。
聞きたくない。
聞きたくない。
何それ。
そんなことで娘のためだと思っているの?
みっともない。
消えてくれ。
しばらく沈黙が続いて、小野の静かな声がした。
「昨年の担任によれば、菜々美さんとは面談を繰り返し、悩みがあるのかどうか聞いたそうですが……。お母さまがおっしゃるとおり、確かに自分の意見を素直に言えるような生徒は少ないと思います。そして、仮に悩みを抱えていても、それを言いたくないと拒絶するのは教員を信頼していないからです。そういう意味では学校側の責任でもあると思います」
そこで、また沈黙となったが、小野の咳払いが聞こえてきた。
「我々も注意してクラスの監督はしておりますが、ここ数年は人手不足で……四六時中、個別の生徒だけを見ることは出来ないのが現状です。言い訳に聞こえるかもしれませんが、私は昨年の実際の状況がわからないので、菜々美さん本人と話がしたいと、考えているのですが……」
しかし、そんな小野の言葉に対して母親が言ったことは理解しがたい内容だった。
「そうですか。それならお願いします。私はもう疲れました。そのうち主人も娘もみんなバラバラになっていくんでしょうから」
「鹿端さん?」
「私は悪くないのに。必死になって支えてきたのに。娘は気が狂ったように手首ばかり切って、主人は隠れて借金をしていて……」
その後、母親の醜い嗚咽が聞こえた。
――お父さんが借金?
菜々美の頭の奥に変な痛みが広がった。
しばらくすると、今度は母親のやたら高い声がまくしたてた。
「あぁ、この家も土地も売り払ってしまうからいいのよ。ええ、この土地は私の名義なんです。つい先日、専門の方にも色々とお願いしておりますの。そのお金で私も自由になれるんだわ。ふふ、余計なことまでベラベラとごめんなさい。最近疲れていて。あの、どうしようもない娘ですが、よろしくお願いします。本当に、先生も大変ですね」
たいそう上機嫌な笑い声が響く。
あまりの変貌に菜々美は背筋が凍った。
「こちらこそ、その大変なところを失礼しました。また伺いますので、菜々美さんにもお伝え下さい」
小野は何とか気を取り直したように、早口で言った。そして、帰り支度をする気配が感じられた。母の様子が尋常ではないことを悟ったのだろう。菜々美は顔も知らない教員が気の毒になった。
また玄関のあたりにスリッパの音が響き、小野がしきりに謝るだけの挨拶をした。
玄関のドアが開けられ、静かに閉まる音がする。母親がまたリビングに戻ると、家の中は完全に音を失くした。
菜々美は洗面所から出ると、リビングに向かった。
ソファには横になっている母親。
テーブルにはティーカップが二つ並んでいたが、どちらも手がつけられていなかった。
菜々美は顔を伏せて寝そべる母親を見下ろした。
「どういうこと?」
母親は答えない。
「家を売るって何?お父さん借金があるって本当なの?」
小さく、うるさいと聞こえると、ついに菜々美も声を張り上げた。
「何で人のせいにするの?自分ばかり悲劇のヒロインみたいに気取って馬鹿じゃない?ウチはいやだからね。あの部屋からもう絶対に出ないから」
「うるさい!うるさいうるさいっ。もう勝手にしなさい!お母さんはアンタたちなんか知らない!」
母親が顔を上げた。
くぼんだ目元に乾いた唇。
菜々美は気味が悪くなった。
母親が次に何かを言う前に、リビングを出た。
しばらく自室にこもっていると、下の階からガラスが割れるような音が聞こえてきた。
すぐに菜々美はさっきのティーカップを思い浮かべた。
――いかれてる。
その後もカップが砕け散る音が何度か続いた。
菜々美はショルダーバッグをつかむと、逃げるように家を飛び出した。
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